第5話 一体目の悪魔
「で、お前の名前は?」
「灰ヶ原」
「下は?」
「黒時」
「そっか。なあ、黒時は今何が起きてるのか知ってるのか?」
初めからの名呼びである。黒時にとっては初対面ではないが、栄作にとっては初対面と同様であるはずなのにいきなりの名呼びである。初めて交流を持つ相手には大抵、姓の方で呼びかけるようにも思うが、これが見栄坊栄作という人間の本質の一端なのだろうか。
フレンドリーですぐに相手の心に入っていく、いや、もしかしたら単に何も考えていないだけなのかもしれない。結果として彼はクラスで浮いているのだから。つまり、適当に相手の心を土足で踏み荒らしているようなものだろう。
だがまあ、当然黒時はいきなり名で呼ばれたところで何も気にしないし、どうでもいいことのように感じているわけだが。
「知らないな」
「そっか。うーん、一体何が起きてるんだろうなぁ」
栄作は顎を右手の親指と人差し指で擦りながら考えているような素振りを見せる。その仕種は本当に、ような、であるとしか感じられないほどにわざとらしい。
数秒後、手をおろして疲れきったような顔を見せた。何に疲れたんだ、と突っ込んでやるほど黒時はお人好しではない。
「考えても分からないものは分からないな、うん。よし、適当にその辺ぶらついてみるか!」
そう言って、栄作は歩を進めようと足を動かす。
「待ってくれ、見栄坊」
「栄作って呼んでくれていいぜ」
「……見栄坊」
「何気に頑固だな、お前。まあ、いいけど。で、なんだよ?」
「どこに行くつもりなんだ?」
「いや、だから、適当にその辺をぶらつくだけだって」
「…………」
何かが頭の中で引っかかった。
違和感にも似た引っ掛かりが、見栄坊栄作という個人に対してのものなのか、それともこの世界に対してのものなのか、黒時には分からなかった。分かっていたからといって何かが変わっていたわけでもないのだろうが。
でも、もしかしたら変えられていたのかもしれない。
「俺も行くよ」
「当たり前だろ。俺についてこなきゃ誰について行くってんだよ。俺だぜ、俺。俺様だぜ?」
「……そうだな」
俺俺詐欺など古い手口だ、なんていうちょっとした冗談じみたことを黒時ですら思うこともある。決して口にはしないが。他人というのはあくまで観察対象なのであって鑑賞はしても、干渉はしないのだ。
栄作の後ろを黒時がついて歩くような構図で、二人は動き出した。
仲間を得た事で安堵したのか、鼻歌交じりで歩いている栄作の後ろで黒時は神を名乗る存在が言っていた言葉について考えていた。
【真の世界】と新たな世界。
それは、考えてみてもまるで分からなかった。
新たな世界というのは恐らく、そのまま言葉通りに解釈しても問題なさそうなのだが、腑に落ちないのは【真の世界】の方である。
神を名乗る存在の口振りからすれば、この変貌した世界が 【真の世界】と呼ばれるもののような感じだったが、だとすればこれまで生きてきた世界は【偽の世界】とでも言うのだろうか。もしもそうだとしたら、【偽の世界】で存在していた人間とは一体……。
黒時の思考が停止した一瞬、折りしも地面が揺れ、二人の歩みが止められることとなった。
「な、なんだ!?」
「地震?」
怯えうろたえてその場でじたばたとする栄作。それとは対蹠的に、冷静に現象の把握に努める黒時。
しかし。
結果として、黒時の分析は大きく的を外れていた。突如起こった地面の揺れは、地震のような自然によって発生するものではなかったのである。
引き起こされた。
あくまで人為的に。
悪魔が悪意的に。
「…………」
「…………」
二人はただ、目の前に現れたそれを黙って見つめることしかできなかった。周囲を埋め尽くすほどに存在していた黒い人影はいつの間にかその姿を消し、それらと入れ替わるようにして現れた一つの存在。
スクランブル交差点の北側に立っていた十階建の高層ビル。
そのビルを崩しそれは地面より現われた。ガラスや壁の破片が宙を舞い、巻き上がった砂埃が現れた存在を覆い隠している。
やがて砂埃も地に沈み、二人は高層ビルと同等なほどに巨大なその存在の全貌を目にした。
真っ黒な美しい翼を背の左右に三枚づつ生やし、頭には曲線を描く二本の漆黒の角。角と同じ色をした細長い尾がゆらゆらと揺らめき、どこか優雅な空気をかもしだしている。
ベースは人間。二足で立つその姿のせいかそう感じてしまうが、人間には翼も角も尾もない。分かっている。そんなことは分かってはいる。
だが。
黒時には、あれこそが本当の、真の人間であるように感じてならなかった。
周辺の建造物は崩れ、辺り一帯は瓦礫の山と化している。そんな中、月光に似た光を浴びて佇む神々しい存在が、ゆっくりと口を開き始めた。
『我が名はルシファー。全世界の存在を超越する者。ふむ、汝らが我の前に現れたということは、時が来た、ということか』
ルシファーと名乗るその存在の発する声は、恐ろしく威圧的で、身体全身に響かせるほどの重低音だった。
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