第2話 灰ヶ原黒時②

彼の通う七罪ななつみ高等学校に着くと、校門に立つ一人の女が目に留まった。進路指導の教師である。眼光鋭く、亜麻色の長い髪をした若い容姿の優れた女だ。

 

 彼女は門をくぐろうとする生徒を一人一人品定めするかのように凝視し、時折声をかけ呼びとめこちらに来るように手招きをしている。女子生徒のスカートの丈の長さや、男子生徒の不恰好な着くずしを懇切丁寧に正していく。

 

 門の前でそんな光景を見ていた黒時には、とてもつまらない光景なのだが、その中に黒時の好む情景があった。

 

 女性教師のやり過ぎなほどのスキンシップ。

 

 黒時はつい笑いそうになる。

 他の男子生徒は美人教師に身体を触られることに年相応の感情を抱いてついにやついてしまっているが、黒時の笑みはそんな下卑た理由ではない。


 彼女の人間の本質。


 それが垣間見えているから笑いそうになっているのである。

 朝一の楽しみを終えた黒時は門をくぐり校舎へと入った。門をくぐる際呼び止められた気もしたが、そこは思い切り良く無視をした。関わってしまっては見えていたものが見えなくなってしまう。そんなことあってはならないのだ。

 

 黒時は下駄箱で靴を履き替え、階段を上って二階へと向かった。黒時が所属する二年三組は、階段を挟んで左右に分かれる廊下の右側、それの一番奥から二番目の教室にある。

 

 若干頬を上げながら黒時は階段を上りきり、左右に分かれる道を右へと進んだ。少し進むと、廊下に立っている一人の女子生徒が目に留まった。その女子生徒は【一】という学年章をつけているところを見ると一年生らしく、どうやら二年生の男子生徒に会うために二階の廊下に来ているようだ。

 

 黒時は立ち止まり、二人を注意深く観察する。

 

 女子生徒はあざとい仕種や言動をたびたび見せ、それに対して男子生徒は鼻を伸ばし、照れ笑いをする。数分観察してみたけれど、それ以外の観察結果はなかった。

 

 黒時は嘆息した。これならばまだ蟻の観察でもしていた方が有意義だった、と心底そう思った。

 

 先程まで上がっていた頬も落ち、落胆しながら二人の横を通り過ぎて行く黒時。何か理由があったわけでもなく、ただちらっと横目で二人を一瞥した。その結果が蟻を上回り、落ちた黒時の頬を再び持ち上げさせる事になった。

 

 女子生徒が男子生徒の腕を握るその手。それが、逃がしはしない、というかのように強く握られていて、男子生徒の腕から血が滴っていたのである。

 

 晴れ晴れとした気持ちで黒時が教室の扉を開けると、中では一人の男子生徒が騒いでいた。

 机の上に乗り歌ってみたり、突然一人で漫談のようなものを始めてみたり、とにかくうるさい。この男子生徒は常に明るく、クラスのムードメーカー的存在である――というわけでもなく、真実はクラス中から面倒がられるただの目立ちたがり屋だった。

 

 黒時は彼に目を向けることもなく、窓際の一番後ろにある自分の席へと歩いていく。あんな奴と関われば人生終わりだ、と黒時は思っていながら歩いたのだが、それは黒時の思いと言うよりも二年三組の思いでもあったのかもしれない。

 

 始業のベルが鳴り、担任が教室へと入ってくる。長身痩躯なその男性は、薄汚れたスーツに身を包んでいて清潔感とは程遠い雰囲気をかもしだしている。黒縁の眼鏡を着用し、ぼさぼさの黒髪。弱弱しい印象で、軽く殴っただけでも骨折してしまいそうな、生徒にも馬鹿にされる教師である。


 黒時は自分の席から彼の姿をじっと見据える。それに気付いたのか、男性教師も黒時の方に目を向ける。数秒の間、互いの視線が交錯したが、男性教師が目を逸らすことでそれは終わった。

 彼の目の底。そこに黒く濁った炎が見えた。黒時は、またつい綻んでしまっていた。

 

 昼休み。

 黒時は教室を出て屋上へと向かった。彼の昼食はいつも屋上で行われる。別段、一人では教室に居ずらいだとか、そんな世俗じみた理由からではない。単に、屋上からは多くの人間が見渡せるからだ。校庭に散らばった人間たち。それを見ながら、彼らの先にある人間の本質を想像しながら昼食をとる。これが黒時の日課だった。

 

 いつものように校庭を眺めながらパンをほうばっていると、一人の男子生徒が屋上へとやって来た。この屋上は普段から閉鎖されているわけでもないので、多数の生徒が利用している。

 

 屋上にやって来た男子生徒は、見るからに体重百キロは軽く越えているだろう、というほどに肥えていて、頬の肉の厚みで目が潰れている。両手には大量のパンやおにぎり、お菓子が入った袋がぶら下げられていた。

 

 他人の食事には興味などない黒時であるが、この男子生徒にはどこか惹かれるところがあって、グラウンドを眺めるその目を彼に向けることにした。

 

 パンを食べ、おにぎりを食べ、お菓子を食べ、常人ではありえないほどの速さで次々と食品が腹の中に放り込まれていく。けれどそれ以外に変わったところはなく、ただの大食漢という感じだ。

 

 パンを食べ、おにぎりを食べ、お菓子を食べ。

 

 数分後、袋一杯に詰められた食品が空になり男子生徒は苛立ちながら立ち上がった。何をするわけでもなくそのまま校内へ続く扉を開けて中に入っていく。

 

 ふう、と黒時は一つため息をついた。確かにあの喰いっぷりはすごいものだったが、黒時からすれば面白いものではなかったのだろう。

 そしてまた数分後。

 

 勢いよく扉が開かれ一人の男子生徒が屋上へとやって来た。先程の彼である。その手にはまたも食品が大量に詰められた袋がぶら下げられており、その先はまるでデジャヴのように同じ光景が繰り広げられた。

 無限に続くような食事風景の中、黒時は手に持っていたパンを大きく頬張りながら小さく笑った。

 

 午後の授業も終わり放課後。

部活の準備をする者やこの後の予定を話し合う者たちで賑わう教室の中、黒時は一人鞄に教科書を詰め、帰り支度をしていた。

 

 今日はなんだか楽しかった。黒時はそう感じながら階段を降りていく。確かに珍しい事でもあった。黒時がここまで上機嫌なこと自体珍しいのだが、それに起因している出来事自体が珍しいためにそう思われるのだろう。

 

 黒時を喜ばし楽します出来事と言えば人間の本質を見ることであるわけだが、それは日常でそう起きるものではない。人間は皆、己の本質を隠し、壊れかけの仮面を被った人形として生きる事に必死になっているのだ。

 

 一月に一度。それぐらいの頻度で人間の本質が見れれば上々であったのに、今日一日で数ヶ月の価値を得ている。こんな奇跡のような一日を体感して黒時は上機嫌にならずにはいられなかった。

 

 帰路に着き、なんとなく空を見上げてみる。


 青い――とは言えない。

 排気ガス等の影響で青と言うよりも、濁った水色のように見える。そんな空では誰の心も晴れはしないだろう。けれど、黒時は違う。彼の心は今にも踊りだしてしまいそうなほどに晴れ晴れとしているのだ。

 

 ああ、なんて面白い世界なのだろう。

 黒時は天を仰ぎ見るようにしながらそう思った。

 

 箱庭のようなこの世界、あの天から見ればさぞかしもっと楽しめることだろう。

 そんなことも思った。

 そして――。

 突如、濁った水色の空が漆黒に染まった。

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