言うほどでもなかったかもしれない②

「……今頃、二人は平謝りなのかな」

「かもしれないね……」


 いつものように、喫茶店ちょもらんまでランチを食べる私と金森くん。今日のランチのメニューは、私がハヤシライスで金森くんがチーズハンバーグ。金森くんが時々私のハヤシライスを恨めしそうにジッと見つめ、それに気付いた私が金森くんにハヤシライスをおすそ分けしつつ、チーズハンバーグをつまむ……そんなやりとりが、ずっと続く。


 二人でランチをすること自体はとても楽しい。楽しいんだけど……今日の私達の空気はとても重い。なぜなら今、昨日に私達が問題を起こしたサイトウ・テクニクスを、薫お姉さまと渡部先輩が訪問しているからだ。



 お昼休みに入る30分ほど前の話だ。私と渡部先輩が並んで仕事をしているシマに、薫お姉さまが訪れた。コートを羽織りバッグを持って、外出する準備が万端という出で立ちだった。


「……先輩」

「おう。もうそんな時間か」

「はい。そろそろ行きましょう」

「あいよ」


 渡部先輩も外出準備を始めた。今日はお二人はお弁当を食べないらしい。お昼休みの時間を丸々外出にあてがうそうだ。その後、二人でどこかでランチをするらしい。さっき渡部先輩がそう言っていた。


 渡部先輩もコートを羽織ってバッグを持ち、外出準備が整ったようだ。


「では行きますか」

「おう」


 そう言いながら、二人は事務所の出入り口へと向かう。いてもたってもいられなくなり、私は二人の元へと駆け寄った。


「あ、あの!」

「お?」

「……?」


 私が声をかけると、渡部ご夫妻の二人が振り返る。渡部先輩はいつものぬぼーとしたしまりのない顔なのだが……


「どうかしました?」

「……ッ」


 薫お姉さまが怖い……いつもの無愛想な表情が、今日はとても恐ろしく見える……。


「あの……お姉さま……?」

「はい?」


 ニコリと微笑むことをせず、薫お姉さまはその無愛想な表情を崩さない。怖い……猛烈な怒りを押し殺しているようで……


「えっと……すみません……」


 思わず頭を深々と下げた。そんな私の喉の奥から絞り出した謝罪の言葉は、周囲の喧騒に消え入りそうなぐらいに小さい声で、私自身の耳にも届くか怪しいものだった。喉だけではなく手や足、体全体が怖くて怖くて震えてくる……薫お姉さまにこんな感情を抱いたのははじめてだ。


 そして、それに対する薫お姉さまの返答は……


「……謝るようなことをしたんですか?」

「いえ……でも……」

「なら謝らなくて結構です」

「……」

「私が行くのは、これが私の仕事だからです」


 いつもの何倍も冷たく聞こえる声だった。


 この時、私は『部下の責任を取るのが上司の仕事』という意味で、お姉さまは『これが私の仕事』と言ったのだと理解した。それは同時に、私と金森くんが、薫お姉さまと渡部先輩に……ひいては会社に対して多大な迷惑をかけてしまったということと、同じ意味であるということを知っている。


 だから私は、下げた頭を上げることが出来ず、そのままお二人を見送ることしか出来なかった。


 

 その後どうしても外せない外出から戻ってきた金森くんと一緒に、いつもの喫茶店ちょもらんまへとランチを食べに来たのだが……正直、今は何を食べても味を感じない。


「二人が帰ってきたら、また謝らなきゃね……」

「そうだね……」


 互いに沈んだ顔を見合わせ、そしてまた進まない箸とスプーンを無理矢理すすめる。私のハヤシライスも金森くんのチーズハンバーグもとても美味しいはずなのに、今日はまったく味を感じない。まるで泥を食べているような、そんな不快な感覚だ。


 そうして、金森くんとのランチを始めて20分ほど経った時だった。その時、金森くんのハンバーグは半分ほど残り、私のハヤシライスもまだ半分以上残っていた。


「ねぇ……小塚さん?」

「うん?」

「こんな時に何だけど……」

「うん」


 金森くんがお冷に手を伸ばした。昨日はあれだけだるそうにしていたのに、今日は食欲が戻っていたことが驚いたが……今日は今日で、別の要因で食欲が無いんだろうなぁ……私も人のこと言えないけれど。


 お冷に口をつけた金森くんは、そのまま静かにグラスを置く。コトリという音は、今日はとても心地よい。


 私を見つめる彼の顔は、ときおり見せる深刻そうな難しい顔だった。


「……昨日、僕のことかばってくれたでしょ?」

「そうだっけ?」

「うん」


 ……しらばっくれた。でないと、今はまだ自分自身が勘違いだと思っている私の気持ちを、覗かれてしまう気がしたから。


 お願いだから、今はまだほっといて下さい。この気持ちは、きっと勘違いだろうから。


「私、何て言ったっけ?」

「えっとね……」

「うん」

「その……」


 わざと聞き返すと、金森くんは少しだけほっぺたを赤くして言葉に詰まり始めた。おそらく私の問いに対する答えは、彼の中では決まっているのだろう。でも、それを口に出すのは恥ずかしいのだろうか。私の問いに中々答えない。


 ついに彼は、私に答えることを諦めたようだ。一言『なんでもない』と答えた後、自分のチーズハンバーグを口に運んでいた。その顔は、どうにも消化不良なような、そんな顔だ。いつもの穏やかさや、涼やかな余裕のようなものは感じられない。


 そして、そんな金森くんの姿を見た時、私は彼にキチンと答えてあげなかったことを、ほんの少し後悔した。自分の気持ちが暴かれるのが嫌だからといって、彼にあんな顔をさせてしまったことが、どことなく申し訳ない。


 そのランチの時間、彼が同じ話題を私に振ることはなく、私たちはそのまま事務所に帰った。もちろんランチはすべて平らげたが、普段に比べて何倍も大変だった……。



 事務所に戻りお昼休みが終わっても、私と金森くんは中々落ち着くことが出来ない。私は引き続きエクセルでデータの整理を行うが、少しでも気を抜くと、何度も入力ミスをやらかしてしまう。タブキーとエンターキーの打ち間違いや日本語入力の切り替えetc、etc……とにかく、ミスを数え上げたらキリがない。


 一度手を止め、上に大きく背伸びをした。背伸びをするときは、痛いと思うぐらい思いっきり伸びたほうがいい、と何かのテレビで言っていた気がする。何の気休めにもならないかもしれないが、私はいつもより体中に力を入れて、上に大きく背伸びをした。


 思いっきり上に伸びをするそのどさくさに、金森くんの様子を伺った。……たくさんのお姉さまチームの仲間にまぎれて、四苦八苦しながらパソコンのキーボードを叩く金森くんの姿があった。中々に気が散って集中出来ないのだろうか……。


 ……あ、金森くんが私に気付いた。彼はニヘラと私に向かって微笑むけれど……微笑みと言うよりは、あれは苦笑いに近い。彼のその表情は、声を出さずに『困ったね……全然仕事がはかどらないよ……』と、私に対して弱音を吐いている。


 出来ればここで『がんばろう!』と励まし、自分自身をも激励したいのだけれど、今の私にはそれは難しい。だって私も、金森くんと同じぐらいに落ち込んでいるから。大好きな薫お姉さまに多大な迷惑をかけ……普段はぐーたらで仕事なんかにまったく興味を示さない渡部先輩すら、その騒動の沈下の為に駆り出してしまい……


 こうして私と金森くんが鬱屈した気持ちを抱えたまま、1時間ほど過ぎた頃だった。


「うーい。ただいま〜」

「……」


 帰ってきた……先程までサイトウ・テクニクスを訪れていた渡部ご夫妻だ。事務所の入口をガチャリと開け、外の寒い空気と一緒に、事務所に戻ってきた。


 様子を見るに、渡部先輩はいつものようなぐーたらでぬぼーとした表情なんだけど……薫お姉さまは……


「……」


 一見いつもの無愛想だが、お姉さまが今抱えている感情が一体何なのか、まったく読み取れない……怒りを抑えているようにも見えるし、いつも通りにも見えるし……


「では先輩、お疲れ様でした」

「おう。薫もお疲れ」

「私はこのまま部長に報告します」

「んじゃ俺は自分の席に戻るぞ」

「はい」


 ご夫婦はそんな会話を交わし、それぞれ私の隣の席と、部長のところへと移動する。自分の席……私の隣の席へと戻ってきた渡部先輩は、ぬぼーとした覇気のない表情を崩さないまま、コートを脱いで自分の席へとかけ、そしてどすんと座った。


「ぬぼー……」


 そしてこの脱力具合……いつもの通りといえばいつもの通りだが……なんだか結果を聞くのが怖い……しかし、聞かないわけにも行かない。


「あの……先輩」

「……ぉあ? なんだ小娘」

「サイトウ・テクニクス、行ってきたんですよね……?」

「おう」

「えっと……どうだったんですか……?」


 無気力な表情を崩さないまま、先輩は目を少し動かした。その目線の先にいるのは薫お姉さま。私もつられて薫お姉さまを振り返る。薫お姉さまは、まだ部長に報告を行っている最中のようだ。


「ちょっと待て」

「はい」


 その無気力な顔に似合わない、渡部先輩のえらく力が入った声。先輩のその態度が、今回の事件の重大さを物語っているようで、なんだかとても恐ろしい……


「……以上です」

「分かった。おつかれ」

「はい」


 私の親父よりもう少しだけ頭髪が寂しい部長と、薫お姉さまの会話が聞こえた。どうやらお姉さまの報告が終了したみたい。渡部先輩はぬぼーとした顔のまま、パソコンのマウスをカチカチと操作して、インターネットで近所のスーパーのチラシを開いている。……だけどその目は、薫お姉さまを追っている。お姉さまの様子をじっと伺っているようだ。


 薫お姉さまは軽くため息をつくと、自分の席へと戻っていった。そして何食わぬ顔で自分のパソコンの電源を入れ、そして机の上に何枚かの紙と一冊の手帳を広げた。


「係長」


 同じく薫お姉さまの様子を伺っていたらしい金森くんが動いた。彼は立ち上がり、薫お姉さまの元へ足早に向かったのだが……


「おい薫!」


 その途端、渡部先輩の声が事務所に響いた。


 渡部先輩の声は、事務所の中にいる社員みんなの注意をひいた。薫お姉さまは渡部先輩の方をキッと向き、他のみんなも渡部先輩の方をパッと向く。


 そして私と金森くんは、渡部先輩の声で一瞬身体がビクッと波打った。昨日と今日で敏感でセンシティブな状態になっていた私達の心は、渡部先輩の大声に恐怖心を煽られてしまったようだ。


「金森くん借りるぞ!」


 ボリュームを落とさないまま、渡部先輩は薫お姉さまにそう声をかけた。金森くんはハッとして渡部先輩の方を向き直り、薫お姉さまは一瞬眉をへの字に曲げた。


 薫お姉さまはしばらくの間の後……


「……手短に」


 と実に短い返事を返し、マウスを握って手帳を広げた。


「よし行くぞ小娘」

「はい?」


 その途端に、渡部先輩が勢いよく立ち上がる。その顔に、さっきまでの無気力感はなく、どちらかと言うと晴れ晴れとした清々しい表情だ。


「行くって、どこ行くんですか?」

「第三会議室だ。俺は先に行って鍵を開けとくから、お前は金森くんを連れてこい」

「分かりましたけど……」

「下の自販機で飲み物買ってきな。ちょっと長くなるから」

「はぁ……」


 そこまで言うと渡部先輩は、私の手のひらに千円札を一枚、ポンと置いてくれた。そしてそのまま踵を返し、第三会議室へと一人でてくてく歩いていく。その背中はいつになく生気があり、そんな姿の渡部先輩に違和感を感じてしまって仕方がない。


「先輩! お金多いです!」

「釣りはやるわ。ちゃんと俺の分も買ってこいよ」

「先輩は何がいいんですか!?」

「任せる」


 そんな無責任な言葉を置き土産に、先輩は事務所から出ていった。その後姿を眺めていると、なんだか頭から8分音符が飛び出ているように見える。機嫌がいいのか何なのかさっぱりわからない。渡部先輩の考えが読めない。


 困惑している私のもとに、金森くんもやってくる。彼も渡部先輩と薫お姉さまの考えは読めないようで、珍しく微笑みを消し、戸惑っているように見えた。


「小塚さん……」

「えっと……とりあえず、飲み物買いに行こうか」

「……そうだね」

「渡部先輩って、何がいいか分かる?」

「多分正嗣先輩は日本茶でいいと思うよ。それかミネラルウォーター」

「さすが渡部先輩一筋……」


 やはり渡部先輩への愛は本物だ……金森くんのその一途さには関心するなぁ……薫お姉さまの方を伺うと、お姉さまはいつものようにパソコンのキーをバシバシと景気よく叩き始めた。上機嫌のようにも見えた渡部先輩に比べて、薫お姉さまの方は恐ろしいほど普段と変わらない……ご夫婦のこの態度の差は一体何なんだろう?


 迷っていても仕方がない。とりあえずは自販機で日本茶とコーヒー、そしてオレンジジュースを買い、私と金森くんは、渡部先輩の待つ第三会議室へと足を運んだ。

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