やらかしてしまったのかもしれない③

 道がわかるところまで金森くんに送ってもらった後、私は急いで家に帰り、そして急いでシャワーを浴びて髪を乾かした。


 髪をドライヤーでぶおーと乾かしながら、鏡で自分の顔を見た。睡眠不足のためか、目の下のクマがちょっと目立つ……とりあえず化粧はクマを消すことを最優先にして、あとは全体にうすーくファンデーションを伸ばしてリップをひくだけにとどめておく。これはナチュラルメイクなのだと自分に言い聞かせ残念な出来には目をつむり、通勤に使うバッグを手にとって、急いで玄関に向かった。


「あら真琴、もう出るの?」

「うん! じゃないと遅れる!!」


 玄関に向かう途中、お母さんが居間からひょっこり顔を出し、私に声をかける。私は両親と同居している。おかげで色々と助かることも多いが、こういった時は親の存在が煩わしい。


「おっ。朝帰りしてそのまま出勤か。若いっていいなー」

「うっせ親父。帰ったら生き残ってる毛根の三割を殺す」

「おっかな〜……」


 玄関に着いたら着いたで、ハゲの侵攻(進行ではない)著しい親父が、ニヤニヤと笑いながら私を待ち構えていた。失礼な一言を適当に受け流し、急いで玄関を開いたあとは、通勤スタートだ。



 通勤の道すがらを急いだため、通勤路の半分に到達したところで、いつも通勤している時間に間に合った。息切れを起こした呼吸を整え、私はかつかつと歩く。急いでいたためか、身体が熱くなってきた。


 まっすぐに会社に向かっていると……つい今しがたも見た、見慣れた背中が私の視界に入っている事に気づいた。歩くスピードをもう少しだけ早くして、私はあの見慣れた背の高い背中に追いつき、そして横に並ぶ。


「ぁあ、小塚さん」

「おはよ」


 横に並んだ金森くんが、私をもう少し見下ろしてニコリと微笑む。さっきと比べて、顔がしゃっきりとして凛々しい。でも笑顔は人懐っこくて、さっきのような起き抜けのボーとした様子はない。


「間に合ったみたいでよかった」

「そのことなんだけど……金森くん」

「うん?」

「今朝のこと、秘密にしといて。誰にも言わないでね」

「……なんで?」


 金森くんの言葉を塞ぎ、私は朝のことを口外しないように釘を刺す。もし金森くんと朝までいっしょにいたと知られれば……金森くんはさておき、私は絶対にめんどくさいことになる……全社員からは含みを持った卑猥な眼差しを向けられ……


 渡部先輩からは先輩特有の『いいんだぜ俺はわかってるから。いやーもうみなまでいうな!!!』的ムカつく笑顔で全身をねぶり上げるように見つめられ……そして……


『あら真琴。私ではなく金森くんを選ぶというのですね……』

『違うんですお姉さま! 私は……私は!!』

『私の前から消えなさい真琴! 私はあなたのような汚れた娘など、いりませんッ!!』

『そんな! お姉さま!! お慈悲を……なにとぞッ!?』


 ……とこんな具合で、お姉さまからはきっと幻滅される。これだけは、たとえ何があっても避けねばならない……。


「……なんでも」

「ふーん……」


 諸々の事情がこもった私の説得が、金森くんに通じたのか疑問だ……確かにものすごくふわっとした説得であることは認めるけれど……でもここですべてを説明するわけには……


「……!?」


 金森くんの頭に、犬のような耳がぴょこっと見えた気がした。


「?」

「正嗣先輩……?」


 その幻の犬耳が、ピクリと動いて後ろを向いた。その後金森くんはものすごい勢いでぐるんと身体を翻し、そして……


「先輩! 正嗣先輩!!」


 彼は迎えに来たお母さんを見つけた五歳児の男の子のように、キラキラと眩しい笑顔を見せた。その視線の先にいるのは、彼にとっては憧れで、誰よりも大切な人。そして私にとっては、愛するお姉さまをそのありえない女子力でたぶらかした、忌むべき存在。


「うーす。おはよー」


 私の指導社員にしてお姉さまの旦那、渡部正嗣先輩だ。


「正嗣先輩! おはようございます!!」


 満面の笑顔で渡部先輩の元に駆け寄る金森くんと、そんな金森くんをありがた迷惑な眼差しであしらう渡部先輩。金森くんはペンギンのようなポーズで、渡部先輩の周囲で縦横無尽に動き回る。初めて見た時はなんてキモい動きだと思ったけれど、それも段々慣れてきた。足の膝から下だけでちょこまかと動き回るあの脚力だけは、今でも信じられないけれど。


 渡部先輩を見つけた時の金森くんは、ホントに子犬のようにはしゃいでる。顔だって本当に嬉しそうに笑ってるし、目だってキラキラと輝いていることが多い。時々切なげな笑顔を浮かべることもあるが、そんな時はたいてい渡部先輩とお姉さまがいちゃついてる時だ。


「朝から今日も元気だな金森くんは……」

「はい! だって……愛するせんぱ」


 赤面して何かを語ろうとする金森くんの顔を、正嗣先輩は容赦なく右手でムギュッとつまみ、それ以上金森くんが言葉を発することを遮った。


「……!?」

「かな……もりくん……ッ……それ以上は、言わせんッ!!」

「ぎやッ……いや、でも……ちょっと、うれしい……ッ!?」

「うれしがるな……ッ!!」

「だって、先輩の手が、僕の肌を乱暴に……!」

「誤解しか招かんその物言いをやめろッ」


 そんな濃密なやりとりを横で見物しながら、私はここに来ているはずの、もうひとりの姿を探す。渡部先輩がここにいるということは……


「私の前で金森くんといちゃつくのはやめていただきたいのですが……」


 きっとその時、私の頭には、金森くんのように猫耳が生えていたと思う。声がした方向が、ミリ単位で確定できた。私は振り返り、声が聞こえた方向にいる、その麗しきお姿を視界に入れた。


「薫お姉さま!」


 私の声が、2オクターブほど高くなる。我慢できず駆けより、そのお隣で佇んだ。


「ぁあ、小塚ちゃん。おはようございます」

「はい! おはようございます! 昨日はありがとうございました!」

「いえいえ。私達もとても楽しかったです。ありがとうございます」

「はわぁ〜……」


 その麗しいお声で発せられた、『ありがとうございます』。この、天上の鐘の如き至福の美声は、私の全身を幸福感で満たしてくれた。


 お姉さまのその麗しき御手にふれる。薫お姉さまの手はとてもすべすべで、そして真っ白で美しい。


「おい薫」

「はい。なんでしょうか」

「旦那の俺の前でその小娘といちゃつくのはやめろ」


 そんな私の幸せな気持ちで満ち足りた私を、渡部先輩の耳障りが悪い声が邪魔してきた。私は別に怒りっぽいというわけではないが、私のお姉さまをたぶらかすこの渡部先輩に対してだけは例外だ。この人に対してだけは、私の沸点はどうしても低くなる。私は薫お姉さまの手を握ったまま、渡部先輩と金森くんの方を向き直った。


「いいじゃないですかっ! 渡部先輩だって今、金森くんといちゃついてるんだからッ!」

「はぁ!?」

「私達は私達でいちゃつきましょうよお姉さま!」

「……だそうです」


 私はお姉さまの手を強くギュッと握りそしてその手をずいっと渡部先輩へと向けた。薫お姉さまはいつもの仏頂面のまま、私達がつないだ手をジッと見つめ、渡部先輩は頭のてっぺんからピー! と音を立てて湯気を吹き出している。


「いちゃいちゃ……出来るのですか!? 僕と正嗣さんが……!?」


 ただ一人……渡部先輩にほっぺたをむにっと挟まれている金森くんだけが、そのシュッとしたイケメンフェイスを笑顔で歪ませ、そしてほっぺたを赤く染めながらあえいでいる。なんか段々声の調子が変な感じになってきたような……


――いくよ


 反射的に、あの妙な夢の中の金森くんを思い出した。途端に私の顔が、ストーブにかけたやかんのようにちんちんに熱くなる。ほっぺたが真っ赤に染まり、頭のてっぺんから湯気が出始めたことを感じた。


「……?」


 そんな状態だったから、渡部先輩が私を怪訝な顔で見ていたことに、最初は気付かなかった。


「……」

「ひぇ、ひぇんふぁい……はげひくひゅるなら……人気のないところで……!?」


 つづいて渡部先輩は、自分が折檻を加えている金森くんの顔をジッと見る。金森くんもそれに気付いたようで、赤面していた顔が、さらに赤くなった。


「……小塚ちゃん?」

「はい?」


 そしてそんな渡部先輩に気を取られていたから、お姉さまがいつの間にか私のことをジッと見つめていたことにも私は気が付かなかった。なんということだ……お姉さまと見つめ合うチャンスを、こんな形で逃してしまうとは……?


 薫お姉さまは、私の顔をジッと見て、そして……


「クマが出来てますね」

「……へ?」

「昨日はあの後二人でどこかで遊んでたんですか?」


 頭が真っ白になった。ちゃんとクマは消してきたはずなのに、お姉さまはそんな私のクマを見破った。私のメイク技術が拙いのか、はたまた見破るお姉さまの眼力がすさまじいのか……多分前者だな。


 私の頭が、必死に言い訳を考える。どうしよう……あのあと二人で居酒屋にいって盛大に酔っ払って、あげく金森くんと一晩一緒にいただなんて、お姉さまに知られたくない……なんていえばごまかせる……どういえば、この状況を切り抜けられる?


 なんて、私が言い訳に困っていたらである。さっきまで恍惚の表情で正嗣先輩に折檻されていた金森くんが、いつの間にかその折檻から逃れ、いつもの爽やか笑顔で口を挟んだ。


「いや係長、お見通しでしたか」

「なんだお前ら、あのあと二人で遊んでたのか」


 !? このアホカナモリ!? 秘密だと言ったでしょうがッ!!


「いえ、遊ぶというか、あの後二人で居酒屋に行きました」

「こッの……!? か、カナモ……」

「それで閉店まで飲んだ後、解散しました」


 ……へ?


「あら。そうなんですか」

「はい。閉店と言っても12時ですけど。おかげで僕も少々眠いです」


 金森くん、口を滑らせたんじゃなくて、うまい具合にごまかしてくれた? さっきまでの全身の血液の逆流が収まり、代わりに私の胸には安心の脱力感が訪れた。


「ほーん……お前ら、そんな仲良かったのか?」

「同期ですから。それに、正嗣先輩と係長に振られた者同士ですから、僕はシンパシーを感じているんです」

「余計な言葉が混ざっていたように感じたのは、俺の気のせいか?」

「……小塚ちゃん?」

「は、はい!?」

「次の日が仕事の時は、あまり夜更かしはしない方が良いですよ?」

「はいお姉さま……」

「……?」


 助かった……私一人だけだと、たどたどしい私の返答を気にした薫お姉さまに言い寄られ、挙げ句金森くんとの一夜がバレてしまい、そして愛想を尽かされて二度とお姉さまのお相手をする機会を失うところだった……。


 しかし金森くん、私との約束をキチンと守ってくれた。この調子で行けば、渡部夫妻はもちろん、社内に禁断の一夜が知れ渡ることはないだろう。私が口をつぐみ、金森くんが絶妙な言い訳を続けてくれる限り……


 ホッとして金森くんを見た。彼は私の方を見ることもせず、ただうれしそうに、渡部先輩と談笑しほっぺたを紅潮させていた。その顔はいつものように、喜びに満ち、そして幼く、爽やかだ。


 他の人と……私と一緒の時は相手を気遣う金森くんが、渡部先輩の前ではあんなに幼くて元気いっぱいではしゃぎまわる……そんな彼の姿が、私の目には少し輝いて見えた。


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