05:はい、葉月って呼ぼうねっ
「て、天空橋さん……?」
葉月に左腕を取られてから、十分は経過しているだろうか。
シャツの生地越しとはいえ、葉月の腕の柔らかさと、いつだって主張を忘れないその双丘が返してくる弾力とが俺の正常な思考力を奪っていくような気がしている。というか既にだいぶ奪われている。ぽよんむにょんって感じだ。いや俺は何言ってんの。
それに距離が違いぶんダイレクトに葉月の女の子らしいふんわりと甘い香りも漂ってきて……あああああ!
「ち、近くないですか……」
俺が葉月の攻撃(そんな意図はないのかもしれないがあえてそう言わせてもらいたい)に必死に耐えながらどうにか言葉をひり出すと、左隣の彼女は俺を見上げるようにしながら不満げに言った。
「あー、また天空橋って言った」
「いや、でもさ、名前で呼ぶのは二人きりの時って……」
俺が葉月を名前で呼ぶのも、彼女が俺を甲洋と呼ぶのも、二人きりのときのみという条件を今朝決めたばかりのはずだ。
対してここはモール。人もいっぱいいる。二人きりという条件は満たさない。よって名前で呼び合うのは禁止! 証明終了!
「何言ってるの甲洋くん。二人きりじゃない?」
どうやら二人きりというシチュエーションについて、俺と葉月の間には認識に齟齬があるらしい。
「……それって家の時とかじゃなくて?」
「いまは二人きりで出かけてるでしょう?」
「まあ、そうだけど」
「じゃあ二人きりだよね。はい、葉月って呼ぼうねっ」
葉月はそう言ってにっこり笑う。
口元は確かに笑みを浮かべているのだが、瞳は笑っていませんね? 有無を言わさないやつですねこれは。
「わかった、葉月に戻す。でも流石に腕は離してほしいなぁ、なんて……」
「えー。なんで?」
「……誤解を恐れずに言えば、色々と柔らかくて良い香りがして正常な判断が出来なくなりそうだからです」
「……。あははっ、仕方ないなあもう」
俺の実感の篭った言葉に、葉月は可愛らしく嘆息した。そして、今まで抱きしめていた俺の腕を解放してくれる。
その温もりが一気に遠ざかっていくことに少しだけ名残惜しい気持ちを覚えてしまうあたり、俺は己の業の深さを感じずにはおられない。男って単純な生き物だよね。
「ありがとう。助かった」
「どういたしまして。……確かにここで正常な判断をなくしたらまずいよね、うんうん」
葉月は一人で納得したのかそう呟き頷いているが、場所は関係なしに正常な判断をなくしたらまずいと思うんですけど。
「じゃあ、この話はここで終わり。お買い物の続きしよっか、甲洋くん」
「ああ。どこまでもお付き合いさせていただきます」
「苦しゅうない。……なんちゃってー」
はい、今日のなんちゃっていただきました。かわいいですよね、葉月のこれ。
* * *
葉月はモールを満喫し、俺はわりと疲れ果て。
モールでの買い物を終えた俺たちが家に戻ろうとともに出入り口に向かった時、入れ替わりにモールへと足を運ぶ一人の少年と出会った。
「……意外な取り合わせだな」
静かに呟いたのはすらりとした細身の男。
短く切り揃えられた黒髪は濡羽色で、その下にある切れ長の瞳が俺と葉月の二人を捉えていた。
その顔は端正に整っていて、確かに男性なのだが同時に女性的な美しさも兼ね備えた中性的な容貌をしている。
天空橋葉月が学園のアイドル女性版だとするならば、この少年はその対のような存在と言えるだろう。
――
「榛名。どうしたんだ?」
「それは僕の台詞だよ。まさか甲洋が天空橋とデートとはね」
ふふん、と鼻を鳴らして榛名がクールに笑う。
口の端を少しだけ釣り上げるのがポイントよね! 嘲られたい! とクラスの女子が騒いでいたのを耳にしたことがある。俺はしょっちゅう笑われてるけど羨ましいか?
「訂正しておくけど、デートじゃないぞ」
榛名にそう返したら、脇腹を軽く小突かれた。当然隣の葉月が下手人だ。
これはデートじゃなくて買い物なんです。そう思い込まないとダメなんです。主に俺の精神安定上。
「無理がある。それで、どっちが誘ったんだい?」
しかし、そのやり取りを見ていた榛名は俺の言葉を一蹴した。
ちくしょう、随分と楽しそうだなこいつ。あー、しかしどうしようかな。
正直なところ、榛名にこうしてばったり出会ってしまったことについて、俺は全く焦りを感じていなかった。
それは、俺から榛名への信頼の証と言い換えてもいい。
こいつにだったら、俺は何を憚ることなくすべてを語ってもいいとすら思っている。
「なあ、天空橋」
「うん」
言って隣の葉月に視線を向けると、「任せるよ」とばかりに頷かれた。
葉月のこういう、他者への理解度が深いところは本当に素敵だと思う。
結局、俺と葉月が家族に――義理の兄妹になったことは遅かれ早かれ露見することではある。
学校という狭いコミュニティに二人とも籍を置いている以上、どうあっても避けられないのは事実。
その時までたった二人きりで秘密を隠し通すか。
それとも信頼できる人間に先に伝えておき、さりげないフォローを期待するか。
二つに一つ。俺が選んだのは後者だった。
「榛名、お前を親友と見込んで伝えておきたいことがある」
「改まってなんだ?」
「俺と天空橋はついこの間、親の再婚で家族になった。ついでに言うと同じ家に住んでる」
「へえ! それはそれは……」
榛名は俺の言葉に一瞬目を見開いたが、すぐに元に戻ってくつくつとその喉を鳴らした。こいつ本当に楽しそうに笑いやがる。
「当分の間は隠しておこうと思うんだ。だけど、お前には言っておく」
「隠すのは賢明だろうな。僕に話したことについても意図はわかる。君は友達が僕しかいないものな」
「それはお前も同じだろうが」
俺と榛名は中学時代からの親友で、同じ高校に進学したのちも二人でいることがほとんどだった。
一年次は運良くクラスが同じだったし、二人とも積極的に友人を作りに行く性格ではなかったし、榛名は女子人気が高いぶん男子からは若干煙たがられていたし、てな具合だ。
それで不自由はしなかったし、こいつと遊ぶのはいつだって楽しいのでそれはそれでいいものだと思っている。
「何はともあれ、おめでとうと言っておくよ甲洋」
「あ? なんでおめでとう?」
「高校ではずっと影が薄かった君も注目の的間違いなし。これを祝福せずにおられようか?」
「他人事だからってお前……!」
「他人事じゃないか」
こいつ本当にいい性格してやがるよなあ!
普段学校じゃ無口で他人とあまり関わりを見せないぶん、俺に対しては全く遠慮がない。まあ、俺も同じようなものなのでそこはお互い様だし、逆にそれが心地よくはあるのだが。
だがここは何か気の利いた皮肉でも返してやらねば。うーんでもうまいこと思い浮かばないな。
と、俺がそんな風にうんうん唸っている間、葉月と榛名は二人で何かを話しているのだった。
「……君にもおめでとうと言っておくよ天空橋」
「うん、ありがとう柳生くん」
「……しかし、当事者でない僕が気付いているのになんで甲洋は気付かないんだろうな」
「あはは……」
「まあいいか。これ以上デートの邪魔をするのも酷だ。僕は行くよ」
「おい榛名! ……ってあれ? 榛名は?」
「柳生くんならもう行っちゃったよ?」
くすくすと葉月が笑いながら教えてくれる。
ちくしょう。クラス替えで同じクラスになれなくても泣くなよとでも返してやろうと思ったのに、もういなくなりやがって。
いや待てよ。あいつと同じクラスにならなかったらより辛いのはひょっとして俺の方では?
時折聞こえてくる俺の人物評に「柳生榛名の金魚のフン」とかあるからな……。同じ魚介類で例えるならイソギンチャクとクマノミだと思ってほしいものだ。
と、そんな詮無いことを考えていてもしょうがない。
榛名に伝えたいことは伝えたし、今日はとりあえず帰ろう。
そう思って葉月の方を見ると、彼女は不服そうな面持ちで俺を見つめていた。解せない。
「……えっと葉月さん? 榛名にバラしちゃダメでした?」
「ううん、それは全然構わないよ。というかわたしは学校でも早めにみんなに言ったほうがいいと思ってるし」
「そ、そっか、でもそれは勘弁かなー……で、なぜそのように頬を膨らませておられるのですか?」
恐る恐るといった具合に問うと、葉月は鋭く一言。
「天空橋」
「え?」
「柳生くんの前で天空橋って言った」
いやまあ確かに言ったけど。そんなにおかしいか? 今のは榛名の前だし、葉月を名前で呼ぶのは二人きりという条件からは外れるよな? 外れない?
「あと、柳生くんのこと下の名前で呼んでたよね?」
「まあそれは……あいつは親友だしね」
「わたしは「天空橋」だけど、柳生くんは「はるな」って呼んだでしょ?」
「まあ、そうですね……」
「……家族のわたしは苗字で呼ぶのに、他の女の子を名前で呼んでるみたいだなーって。それだけ」
言い切って、ぷくーっと頬を膨らませる葉月。ちょっと拗ねてる。
……待ってくれ葉月さん。
きみは、俺に何回葉月かわいいを言わせれば気がすむのかな?
なんとか宥めすかした結果、自宅に戻るころには葉月の機嫌は戻っていたのだけれど。
俺は今度から榛名の前でだけは、このかわいらしい義妹を「葉月」と呼ぶことを決めたのであった。
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