03:葉月って呼んで?

「……綺麗な天井だな」


 視界が一面に捉えたのは、シミがちらほら見え隠れする月守家の見慣れた天井ではなかった。

 全面が真っ白で真っさら、新品と見まごう壁紙が全体を走る綺麗な天井だ。


 天空橋家――もとい、新生天空橋家に、俺たち月守の二人が引っ越してきて初日の朝。

 今までに経験したことがないほど寝心地のいいベッドに背中を預けながら、俺は目を覚ました。


 枕元のスマートフォンを確認する。月曜日、朝の七時半。

 春休みはまだまだ始まったばかりだから二度寝を決め込むこともできるが、なんとなくそんな気分ではなかった。

 それはきっと、いよいよ昨日から俺の新しい生活がスタートしたからだろう。


「よっと……」


 勢いよく体を起こし、ベッドから飛び降りる。

 そしてぐるりと自室を見回し、感嘆のため息をつく。


「部屋、広いな」


 昨日、初めて新たな我が家に立ち入ったときから思ってはいたけれど。

 部屋がとにかく広い。かつての俺の部屋と比べて、二、三倍はあるのではないだろうか。

 驚くべきはその広さだけではない。窓から覗く視界の高さもあった。

 なんたって地上50階だ。文字通り今までと住む世界が違う。この変わりぶりには乾いた笑いしか出てこない。


「……天空橋って本当にお嬢様なんだなぁ」


 学校でも天空橋はいいところのお嬢様だという噂がまことしやかに囁かれていたが、その噂は真実だったようだ。

 期せずして俺もその一員に組み込まれることになったわけだが。


「天空橋にも陽治さんにも迷惑かけないようにしないとなぁ」


 言いながら、俺は自室を後にした。


 俺の部屋を出ると、廊下を挟んですぐ向かいに天空橋の部屋がある。

 ぴしりと閉じられた木製のドアに、「はづき」のネームプレートが踊っていた。なぜかひらがなだがそれがかわいい。


 天空橋はまだ寝ているのだろうか? 

 陽治さんと母は昨日少し家に顔を出したが、今日も仕事だと言っていた。

 ゆえに、この家には俺と天空橋が二人きりだ。なんだか少し緊張する。

 まあ、二人きりのシチュエーションは当分の間続くのだが。……俺の理性は保つだろうか。保たないとやばいけど。


 そんなことを考えながら歩を進め、やがてリビングにたどり着く。

 これまた信じられないほどに広いリビングで、置いてあるテーブルやらソファやらは華美すぎずいかにも高級そうな雰囲気をビンビンに醸し出していた。

  ザ・上流階級のおうちとでも言おうか。マジで場違いな気がするよ俺。


「……あっ。おはよう、月守くんっ」


 ぼけーっとソファを見ていると、鈴の音を転がしたような声が耳に届いた。

 視線を巡らせると、リビングの一角に拵えられたシステムキッチンに立つ天空橋の姿が目に入る。

 どうやら天空橋はとっくに起床していたらしい。恐らくは部屋着だろうと思われるふわふわのパーカーがかわいい。


「おはよう、天空橋」


 あんまりジロジロ見るのも悪いだろうと思い、俺は視線をリビングの調度品類に向けながら挨拶を返した。

 つーかテレビでかいな。何インチあるんだこれ。この大きさでゲームやったらめっちゃ迫力ありそう。


「うん、おはよっ。いま朝ごはん作ってるから顔洗ってきなよ」

「え。朝ごはん?」

「うん、朝ごはん」

「作ってくれてるの?」

「うん。おかしいかな?」


 天空橋は不思議そうな声を上げる。いや、おかしくはない。おかしくはないのだが。

 まさか朝ごはんまで作ってくれているとは。どれだけいい娘なんだ天空橋葉月。惚れちまうぞ。


 ……いや、今のは冗談でもよくないな。天空橋はもう家族なんだから。しっかりしろ俺。


「……顔洗ってきます」

「うん、いってらっしゃい」


 天空橋は笑顔で手を振ってくれた。おいおいなんなんだ。この娘は天使ですか?



 * * *



 天空橋が作ってくれた朝ごはんは甘くてふわふわでとても美味しいフレンチトーストで、俺は寝起きだというのに軽く二枚半ほど平らげてしまった。

 天空橋が食後のコーヒーを淹れてくれると言ったが流石にそれは固辞して、俺が淹れることにする。

 コーヒー豆やらコーヒーメーカーやらも常備されてるし、この家にないものはないんじゃないだろうか。


「天空橋ってずっとこの家で暮らしてるのか?」


 コーヒーが落ちるまでの間手持ち無沙汰になり、俺はなんとなく気になったことを聞いてみることにした。

 天空橋の人当たりのよさもあって今やなんの問題もなく会話できているが、もともと俺と彼女の接点はゼロに等しいのだ。

 家族になった以上、こうして少しずつお互いのことを知っていければいいと思う。


「うん、そうだよ。でもこの家にひとりでいる時間の方が長いかも」

「そうか……まあ、それは俺も同じだろうなあ」

「だよね。お父さんたち忙しそうだもん」


 天空橋がくすりと笑みを漏らす。


「それにしても、お父さんの秘書さんが月守くんのお母さんだなんてね」

「世間って狭いよな」

「ね」


 二人顔を見合わせて笑う。少し恥ずかしいが、なんだかちょっと幸せな気分だ。

 

 そんな話をしているうちに、コーヒーは落ち切ったらしい。

 二人ぶんのマグカップにコーヒーを注ぎ、チェアに腰掛けている天空橋の元へ運ぶ。


「お待たせ」

「ありがとう、月守くん」

「おう」


 短く返しながら天空橋の向かいに俺も座り、そしてふと脳裏に浮かんだ疑問について尋ねてみることにした。


「そういえば……俺らって兄妹になったんだよな?」

「もちろん。お兄ちゃんって呼んでほしい?」

「心臓に悪いからそれはパス」


 えー、と唇を尖らせる天空橋(かわいい)はスルーするして俺はさらに続けた。

 

「俺の苗字ってどうなるんだろ?」


 疑問はそこだ。

 陽治さんと天空橋の苗字は変わらないだろうが、月守だった俺らはどうなるのだろう?

 母は再婚したわけだし天空橋洋子になるのだろうか?

 だが、俺は月守甲洋のままなのか、天空橋甲洋になるのか。どちらなのだろう。


「月守くんはどっちがいいの?」

「正直に言うと」

「正直に言うと?」

「天空橋甲洋は勘弁願いたい」

「ええっ、なんで!?」


 がたっ、とチェアから立ち上がり、天空橋が鋭く問うた。

 なぜ。なぜと問いますか天空橋さん。答えはあなた自身にあるのですよ。


「天空橋葉月さん。あなたは自分の人気を理解していますか?」

「え? 人気?」

「いや、簡単に言うとさ、俺がいきなり天空橋甲洋になったら周りが黙っちゃいないだろ? なんたって学園のアイドルと同じ苗字だぜ?」

「わたしそんな大それたものじゃないけどなぁ……」


 いや、大それたものだよ。少なくともこの数日間で俺は身をもって知ったよ。天空橋は明るく朗らかで誰にでも優しくて。彼女を好きにならない奴はきっといない。

 俺の懸念は決して誇張でもなんでもないはずだ。


「学校で一番人気の女子と苗字が同じ。聞けば義理の兄妹。しかも同棲している。……そんなんが露見したら嫉妬に狂ったファンに殺さねかねん」

「またまたぁ」


 なに馬鹿なこと言ってるの月守くん、みたいな顔で天空橋が笑うが、これは本当にマジな話だ。

 一年生の時分、俺と天空橋は同じクラスだったが、そのクラスの男子で彼女との距離を縮めたいと願わなかった奴は、あるひとりを除いていなかったはずだ。当然俺だって叶うならお近づきになりたいと考えていた。それが男子高校生というものだ。

 まあそれは女子も限らないことではあったのだが、それゆえに天空橋が彼氏を持っていないとか、誰それに告白されたとかいう情報がいつの間にか学校中を駆け巡っていたものだ。


 そんな天空橋ファンたちに俺の現状が知れたらと思うと恐ろしい。……ていうか今まで深く考えてなかったけどいろいろとやばいんじゃないのか俺の立場!?


「学校が始まる前にお互いのスタンスというか距離感について相談しないとダメかも」

「いろいろ面倒だね。……ところで月守……じゃなかった甲洋くん」

「なんで言い直す?」

「兄妹ですから」


 ふふん、と鼻を鳴らす天空橋。理由になっていないけれど、その態度はなんかかわいい。


「兄妹になった……というより、家族になったのにわたしのこと苗字で呼ぶのはおかしいと思います」

「えぇ……?」

「わたしも甲洋くんって呼ぶから、葉月って呼んで?」

「いや、それは無理だ」


 俺は一も二もなく拒絶した。

 天空橋を下の名前で呼ぶ、だと?

 そんなことしてみろ、天空橋ファンクラブの輩に八つ裂きにされかねんぞ。

 というか天空橋が俺のことを名前で呼ぶのも正直よろしくないんだが。


「呼んで?」

「呼びません」

「呼んでくれるよね、甲洋くん?」


 ずずいっ、とこちらに詰め寄る天空橋。

 美少女が距離を詰めてくる、そんな状況に思わず仰け反りそうになる。ちょっと気恥ずかしくて直視できないっていうか。


「……呼んでくれなかったらずっとお兄ちゃんって呼ぶよ。学校でも呼んじゃうよ? いいのかなあ?」

「それはやめて」


 なんて恐ろしい脅迫をしてくるんだこの娘は! 天使だと思ってたけど堕天使だったみたいだな!


「じゃあ、はい。いってみよう」

「いや、あのさ、でも」

「お兄ちゃん?」


 にこやかに微笑んでいるけれど。その目は笑っていないような気がしますね? 

 そこのところどうなんでしょう天空橋さん。



 結局、名前で呼ぶ呼ばないの問答を一時間ほど繰り返し。

 俺たちは、二人きりの時は下の名前で呼びあうという妥協案に落ち着いたのであった。


「それじゃあ呼んでみて?」

「……葉月」

「まだ照れがあるね?」

「追い討ちはやめてくれ……」

「ごめんごめん。……甲洋くん」

「……なに?」

「えへへ、呼んでみただけだよっ」

「うぐっ……」

「ええっ!? なんで胸抑えるの!?」


 ……男子の心をくすぐり続けないと気が済まないのかな、この娘は?

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