第26話 千代の抑圧


 放課後、春川先輩に再び呼び出されるという事は、私にとっては意外だったかもしれない。未だ明るい時間は限られてくる。夕方の西日は、光の刃物となって視界を鋭角に切り裂いていく。道が開けたところでは手を眉の位置に置かなければ、まっすぐ歩くだけでも苦労する。

 別に、先輩に対して意識するところは何も無い。いや、本当は何かがつっかかっていて、それを上手く消化でき無い部分がある。

 ただ、それだけ。自分自身でそのしこりがあると認める事を諦めているのかもしれない。


「千代ちゃん、こんにちは」

「こんにちは」


 待ち合わせ場所は、前回二人で話をした公園、そして同じベンチだ。

 先輩は初めて会った時と同じく、学校の制服を着ている。


「今日は猫、いないんですか?」

「いつもここでこうしてる訳じゃないからね」


 その“いつも”は、千歳と時間を共にしているのだろう。私の知らない、千歳を、春川先輩は知っている、見ている。

 会話する前、殆ど何もなかったしこりが、少し震えた。


「隣、座りなよ」

「……はい」


 先輩の隣に座る。何ともなしに、先輩から話しかけてきた。


「千歳君から聞いたよ。色々あったみたいだね」

「まぁ、そうですね……」


 色々、というのは、昨日悠真と一緒に千歳の家に行った時のことだろう。部屋を出て行った千歳は、春川先輩と会っていたようだ。


「悠真君、本当に正義感が強くて、まっすぐで、でも、ちょっと正直過ぎるかな」

「はい。でも、私にも非があります。千歳を傷つけた原因だけでなく、悠真にも当たってしまって……」

「悠真君は多分正しい。言っている事は間違ってはいない。でも、悠真君が救うには、選ぶべき言葉も、行動も、千歳君自身のことも知らなさすぎたんじゃないかなぁ。千代ちゃんが怒る事も無理ないかもね」


 私にとっては、どうすれば良かったのかがわからなかった。そこで悠真を頼った結果がこうだ。

 千歳からどれだけその時の状況を聞いたのかわからないが、そこまで言い当てられると、私の方もしゃべる事がなくなってしまう。


「やっぱり、中学の時から一緒だとわかるんですね」

「悠真君はわかりやすい人だからね」


 淡々と語る春川先輩は、クールさもありつつ、やはり物静かな美人を連想させる。


「まぁ、今のままだと千歳君と悠真君は水と油かなぁ……」

「でも、やっぱり私も同じ責任を負っている事には変わりはなくて、こうしたい。こうだったらいいなっていうものはあるのに、どうしてか、それができなくて……」

「私もだよ。望んだ結果の為に努力しているはずなのに、それが報われなかったり、叶わなかったり、不思議だよね。多分、人間は自分の持っている能力以上の事を、どこかに期待しているのかもしれないね」


 少しもの悲しげな先輩からは、私の言葉を汲み取り、同じ境遇にある事を感じさせた。

 そして、先輩の言葉は、私の腑に落ちる。悠真も、私も、千歳も、全て先輩の言った事に繋がっていた。


「ごめんね」


 突然、先輩から謝罪の言葉が出てくる。


「どうして、謝るんですか?」


 動揺したせいで、声が上ずってしまう。

 私は慌てて続け様に言葉を見繕う。


「大体、私、謝られるようなことされてないと思います」

「いや……その……」

「先輩が私の事を呼んだんじゃないですか。言いたい事、あるんじゃないです?」


 少しばかり、弱々しく見える先輩の姿。何がそんなに不安な顔にさせるのだろうか、私は何を言われても、先輩には敵わないというのに……。

 春川先輩は意を決したように、私に向き合った。不安を湛えた表情は変わらない。


「私、千歳君に告白された」


 その時、冷たい風が吹き抜け、私は目を細める。肩に力を入れ、流れていく空気の冷たさをやり過ごす。

 先輩も同じく目を細めているが、やはりさらさらとした黒い糸が、ふわりと浮かび上がる光景は、先輩の美しさを際立たせていた。

 風が吹きやみ、静寂が戻ってくる。そこで、私は春川先輩の言葉の意味を知る。


「だからって、謝る事、ないじゃないですか。正直、私もそうなると思ってましたし」

「でも、私、その告白を受け入れてしまった……」


 なぜ、そんなに泣き出しそうな表情をするのだろう。千歳と春川先輩が近付くところまでは、前回も話した通り、予想の範疇だったはずだ。


「千歳の事、好きじゃないんですか?」

「ううん、その逆。好き。好きだからこそ、こうなる前に止まるべきだった」


 先輩は、千歳から聞いたと言う、過去の話を始めた。

 私自身も、千歳に亡くなった兄がいる事はわかっていた。兄の事を慕っている事も。しかし、兄にどんな思い入れがあったのか、家庭内の様子や、その時その時の千歳の心情など聞いた事はなかった。

 そして、兄が亡くなってから、その後の千歳にどう作用したのかも。


「それを聞いたら、ただ側にいられれば良い、だなんて思えなくなってしまったの。もっと、近くにいたいと思ってしまった」

「ダメとわかっていても、好きなひとが弱っていたら、近くにいたいと思いますよ。きっとその時の先輩が私でも、同じ事をしましたよ」

「千代ちゃんは優しいんだね……」

「普通ですよ、多分。それで、どうして私に謝るんですか? 好きになったなら仕方ないじゃないですか」


 外見だけは、なんともない風に装って見せる。本当は、今すぐにでも叫びだしてしまいたい。この、心で疼いている全てを口から吐き出してしまいたい。

 それに対して先輩は、「うん、やっぱり千代ちゃんは優しい」とだけ言った。


 辺りは徐々に光を失い、公園の街灯も、うっすらと光を灯し始める。風が吹いていなくとも、徐々に体温を奪おうと寒さが牙をむく。


「そろそろ寒くなってきたね。帰ろうか」


 先輩は両足を前にして、戻す反動で立ち上がる。両腕を空に向かって伸ばし、伸びのポーズをして言った。


「あの! 最後に一つだけ、答えて下さいっ!」


 帰る事には合意できる。しかし、会話の中で出てくる突っ掛かりだけは、どうしても解決しておきたかった。


「どうして千歳が好きなのに、その気持ちを抑え込もうとするんですか? 私に気を使っているつもりならやめて下さい! 私が、惨めになるじゃないですか……」


 聞きたい事は、短くて単純な事なのに、自分の気持ちが高ぶってしまう。声量も大きくなり、何かを訴えかける、そんな声になってしまった。

 先輩の後ろ姿に投げた言葉は、艶かしい黒髪が渦を巻いて正面に向き直った体勢によって、答えられた。


「……誰にも、内緒だよ?」


 その口から語られたのは、私が絶対に先輩に敵わない決定的なものであり、千歳との違いを確かに汲み取ったものでもあり、春川先輩自身が自分の気持ちを抑え込もうとする理由であり、私に謝罪したその意味に通じるものだった。


 私はそんな先輩に怒鳴り散らしたかった。「どうしてくれるんだ」と。ただ、それ以上に、先輩と千歳が歩んだ先でぶつかるであろう“違い”を見守る事しか出来ない自分への疎外感が、その言葉を押し殺した。

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