傷だらけの天使は養父のユメを見る

無記名

第一章 傷だらけの天使と元兵士

ご主人さまの回想

マルスの月(3月)1日の出来事

ある日、【みすぼらしい格好をした子ども】が家の前で倒れているのを発見した。


おおかた、【主人か商人の元から逃げ出した少年奴隷】といったところだろう。


よくある話だ。


この国では奴隷階級、平民階級、貴族階級と、命の価値が分けられている。


ヌミディアやイスパニアから来た異民族どれいなど、市民たちの常識からすればけものとなんら変わりない。


だから【小さな奴隷ひとり】を助けたところで、世界は何も変わらない。何の意味もない。石ころが転がる程度のことでしかない。


だからこれは、気まぐれだ。


誰に対するでもなくそう言い訳しながら、俺は【小さな逃亡奴隷】を家に入れた。




【ボロボロの奴隷】の身体は傷だらけだった。何度も殴打された跡、鞭で打たれた裂傷の跡が生々しく残っていた。俺は破傷風にならないよう、清潔な布を水に浸けて拭いてやった。皮膚の衛生環境が整ったところで、家にストックしてあった薬草を使い、治療を試みる。


みるぞ」と一声かけてから薬液を塗ったのだが、奴隷はビクッと震えるだけで、悲鳴をあげることも、歯をくいしばることもしなかった。


その反応は、まるで痛みそのものではなく、俺という人間にを恐れているかのようだった。


【死にかけの奴隷】の性別は男だった。


やせ細った身体はこれ以上ないほどに弱っていたので、野菜をやわらかく煮込んだスープを与えた。木彫りの匙が目新めあたらしいようで、使い方を教えてやると、おそるおそる食事をすくって口に運んだ。


目をキラキラ輝かせて、「ふーふー」と息吹で冷ましながら熱いスープを味わった

。俺の方に顔を向けて「おいしいです」と言った。「ありがとうございます」とも言った。たどたどしい言い方だった。


淡い月明つきあかりのような、ふんにゃりとした笑顔を向けてきた。


その笑みには戸惑い、不安、恐怖、感謝など、一言では表しきれない感情が内包されているように思えた。


【奴隷】に名前は無かった。ラテン語はなんとか分かるようだったが、文字の読み書きができなかったので、教えてやることにした。


名付けという行為には多大な責任が伴う。みになりかねないからだ。俺は気まぐれで奴隷を拾っただけで、養父になる気など毛頭ない。


俺は【元奴隷】を「お前」とだけ呼び、家事をさせた。


最初は手つきがおぼつかない様子だったが、一ヶ月も経つ頃にはかなり上達していた。


掃除や洗濯のほとんどを任せられるようになった。


ちょうどいい機会だと思い、読み書きが上達するように羊皮紙の日記帳も買い与えた。


要するに、行き倒れの子どもに。


居場所を与えてみた、ということだ。


だが勘違いしないでほしい。


家族も友人もほとんどいない、三十路男の道楽。


俺がやっていることは要するに、そういうことだ。


能動的な善行でも、消極的な偽善でもない。


ただの、暇つぶしだ。

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