常夜の闇に墜ちてゆく

青峰輝楽

第1話

 常夜の闇に墜ちていく。呑まれ行く、無限世界に。


「さよなら。愛してる……」


 呟いて、彼の頬を涙が伝う。


 ゆうるりと、ゆうるりと、彼の身体は墜ちていく。上も下もない虚無へ。宇宙服に包まれた身体。うつつ世と自分を繋いでいたワイヤーが切れた今、ともにあるのはただ闇。真空の世界。遠くに目視できていたシャトルの点滅する光が徐々に遠ざかり、星々の瞬きの散乱の中のひとつとなり、そして消えた。


「ごめんよ、桜。ごめんよ、兄さん。帰るって約束したのに、守れなくて」


 助かる見込みはない。今は命ある人間。でも、あと一時間足らずで酸素がなくなれば、彼は宇宙のごみとなる。怖い。桜は泣くだろう。兄さんは怒るだろう。桜は本当はとても弱いんだ。傷つきすぎた心。出会った頃の凍った瞳が忘れられない。でも今は、屈託なく笑う。あの笑顔が自分の死によって再び失われる事が、徐々に迫り来る窒息死と同様に苦しい。帰ったら、結婚しようと言うつもりだった。用意していた指輪を彼女は見つけるだろうか?


「兄さん、桜を頼む……」


 ゆうるりと、ゆうるりと墜ちて、そして彼は宇宙の一部になった。



―――


 都会の喧噪。風の音。全てが心の表層を滑ってゆく。心の中に入れるものは何もない。圭二が死んだ、あの日から。

 桜はぼんやりと通りを歩いた。何人かの男が振り向いた。魔性の美貌、と何処でも囁かれていた。でもそんなものを欲した事は一度もないし、殆どの場合それは彼女に害しかもたらさなかった。無力な少女だった頃に受けた暴力と苦痛。誰もが信じられなかったあの頃。

 でも、圭二が、世界には温かい光があると教えてくれた。圭二は苦痛を消してくれた。圭二を喜ばせられるなら、綺麗に生まれた事も結局悪くはなかったと思った。だけど、圭二はいなくなった。いや、正確には今もどこかにいる。宇宙のどこかに、乾涸らびた小さなごみとして。


 涙が溢れた。あれから三年も経つのに、桜はまだ圭二の死から立ち直る事が出来ずにいた。薬指には、小さなダイヤの指輪。遺品から恵一が見つけて渡してくれたものだ。恵一は圭二の双子の兄。よく似たその面差しを見るのも辛くて、あれからずっと彼を避けていた。


 今日は、圭二の誕生日。桜には、心に決めた事があった。


―――


 如月恵一は一流ホテルのロビーにいた。長時間の会議が終わったばかりでくたくただ。ネクタイを少し緩める。時間はまだ早い。一旦自室に戻ってシャワーを浴びようか。エレベーターに近づいた時、美女が目に入った。


 恵一は、真面目で優しかった亡き双子の弟とは180度違い、軽薄で冷たい男として通っている。ついた仇名は『コールドブレイン』。仕事でも私生活でも、彼は誰にでも馴れ馴れしいが、誰にも胸中を見せる事はない。医者だが一般診療に携わる事はなく、ある機関の研究室で働いている。最上級のブレイン。国際的にも名が通っている。


 ハンサムで饒舌で毒舌でクール。美女には目がない。だけども、愛さない。


『本気にはならないけど、いいね?』


 と、いつもなびいた女性に念を押す。頷いたらそれでいい。後で妙な期待をしたその娘が傷ついても、それは自己責任というものだ。


 亡き弟と瓜二つの整った顔。知性的な瞳は底を見せない。




「や、桜ちゃん! 久しぶり!」


 長らく顔を合わせていなかった亡き弟の恋人に、軽い声をかける。同じ機関で働いていても彼女とは部署が全く違う。桜は一瞬びくっとして、ぎこちなく挨拶した。


「ああ、如月先生。お久しぶりです」


 圭二が生きていた頃には、こんなに他人行儀じゃなかった。あの頃の彼女は彼に泣かされた女性を庇い、よく口喧嘩をしたものだった。




『相手の気持ちを少しは考えたら? 彼女は本気で先生を愛してるのよ?』


『本気にはならないって、最初からの約束だ。要らないお世話だね』


 こんな感じだった。生真面目な彼女から見れば、女を取っ替え引っ替えする恵一は女の敵、という所だったろうか。勿論、最愛の人の仲の良い兄なのだから、本気で嫌っていた訳ではない。たまに休みが合えば三人で遊びに行く事もあった。軽快なトークによく笑わせられた。口喧嘩しては圭二に宥められ、いつの間にか仲直り。でも、あの日を境に変わってしまった。




 挨拶して、桜はすっと通り過ぎようとする。よりによってこんな日に、この顔を見たくなかった。圭二と同じ顔と違う心を持った人。たった一人の肉親の葬儀で表情も変えなかった。俯いて目を合わせようともしない桜の腕を、恵一は掴んだ。


「……っ。何するんですか!」


「憂い顔の美女を放っておくのは性に合わないんでね。何か予定でも?」


「……別に。放っておいて下さい」


「予定がないなら、一緒に飯食おう」


「何で私が?!」


「一緒に祝ってくれないか。俺と弟の30回目の誕生日を」


 予想外の言葉に桜は一瞬躊躇する。その隙をついて、恵一は彼女を強引に最上階のレストラン直行のエレベーターに押し込んだ。


―――


「はい、乾杯!」


 恵一は、俯いて座ったままの桜のシャンパングラスに自分のグラスをかちんと合わせる。


「街の灯りが綺麗だよ。見てごらん」


 窓際の一番いい席だ。ほんのさっきまで太陽の残照があった窓の外の風景が、僅かなうちに一変し、華やかな広告の照明やネオン、建物の灯り、行き交う車のライト……無数の光が夜の闇を染めてゆく。


 恵一は、窓の外へ向かってグラスを掲げた。


「誕生日おめでとう、圭二。30だぞ、おい、お互いおっさんになったなぁ」


「どうしてそういう事が言えるの?!」


 不意に、これまで無反応だった桜が顔を上げて恵一を睨み付けた。怒りでテーブルに置いた手が小刻みに震えている。


「圭二は歳をとらない。とりたくてもとれないのに」


「とるさ。永遠に若いままじゃいられない」


「死んだら永遠に若いままよ!」


「俺は違うと思うね。少なくとも、俺の中では奴は俺と同じように歳をとる。俺の中で奴が生きている間は。俺が生きている間は」


「……」


 桜は驚きと不信の入り交じった表情で恵一の顔を見つめた。この『コールドブレイン』がこんなセンチメンタルな事を言うとは思いもしなかったのだ。死んだ弟すら彼にとってはジョークのネタなのか、と一瞬頭の中が真っ白になったくらいだったのに。


「……本気で言ってるの?」


「本気だともさ、桜ちゃん。俺は冷たい事はいくらでも言うが、嘘は言わない人間だ」


 確かに、桜の知る限り、その通りだ。そして圭二もそう言っていたっけ。


『兄さんは馬鹿正直なんだ。嘘をつけないから、周りから冷たいと思われてしまう』


 本心を語って冷たいと思われるなら冷たいんでしょ、と桜は反論した。圭二は微笑して言った。


『違うよ。兄さんは優しすぎて冷たく見えるだけだ。いつか解るよ』


 ……解らない。圭二の事は何でも解ると思っていたのに、同じ顔をしたこの男の事は、何も解らない。


「桜ちゃんの中には奴は生きていないのか? 冷たい闇の中に浮かんだままなのか?」


 恵一は極上のシャンパンに口をつけながらそんな事を言う。冷たい闇の中に浮かんだまま……その言葉に、桜は心臓をぎゅっと鷲掴みにされた気がした。


「! だってそんな、いくらそんな事を思ったって、実際には圭二の時間は止まったままなのよ! そんなの……そんなの、詭弁だわ」


「そうか。桜ちゃんがそう思うのならそうなんだろう。飲みなよ。折角の夜だ。時間は、あるだろう?」


「……」


 無言で桜はグラスをとり、琥珀色の飲み物を喉に流し込んだ。空っぽの胃に、上質のアルコールが沁みいってくる。


「どうして私を食事に誘ったの? 彼女と約束はなかったの?」


「俺は弟が死んでからは、女はいないよ」


「えっ……?」


 桜は驚いた。知り合って以来、いつも彼には誰かがいた。『付き合ってもいいが愛しはしない』と言われてもその愛を得ようとする、健気な誰かが。


「どうして? 喪に服して……っていうつもり? それにしてももう三年……」


「飽きたんだよ。美女は見て愛でるだけで充分だ。それに……」


「え?」


「いや、何でもない。さあ、オードブルだ。ここのサーモンはなかなかいけるんだぜ」


―――


「圭二の事を話してもいいの?」


「いいよ」


 それで、桜は思いつくままに圭二との思い出を話した。宇宙開発部で初めて会った日。訓練で同じ班になって、反発しながらもいつの間にか彼を信用するようになっていった事。ある事件を機に、自分が彼を愛していると気づいた時。そして、彼も同じ想いだと知った時の喜び。


 恵一も時折、桜が黙り込んだ折に話した。小さい時の事。キャンプ先でのちょっとした冒険。学生の頃のふざけた遊び。


 全ては胸の中のアルバムに鮮明に刻まれた映像だ。桜は、圭二の思い出をこんな風に誰かに話した事は一度もなかった。彼女は容姿美麗で能力S級。対等に付き合える友人には恵まれなかった。それでも圭二に救われてから笑顔を覚え、敵は減り、敵でない人が増えた。圭二の葬儀の時、それ以降も、彼女を案じてくれた人は幾人かいる。でも、彼女はそれらの人に心を晒け出せなかった。微笑して、大丈夫だから、としか言えなかった。


 恵一は黙って彼女の話を聞いてくれる。圭二は本当に双子の兄の中に生きているのだろうか? 少なくとも、葬儀の時に彼が弟の死に何も感じていないと思ったのは誤解だった、とは判った。この三年のうちに、もっと色々と圭二の事を話せばよかった。圭二という楔で繋がれた二人だったのに。でも、もう遅い。桜は決意してしまっていた。まだ時間はあるけれど、それでも今日という日はそのうち終わる。


「本当は、元々一人でこのレストランで食事をするつもりだったの。圭二が出発する前の晩に来た思い出の場所だから」


「そうか。じゃあ、これから毎年、誕生日に一緒にここに来ないかい? 勿論、桜ちゃんに新しい男が出来るまででいいけど」


 新しい男なんてあり得ない……一瞬かっとして桜はそう言いかけたが、恵一の穏やかな視線とぶつかると、怒りは引っ込んでしまう。別に彼は悪い事を言った訳でもない。いいわ、と適当に答えた。どうせ実現しないのだから。


「いいのか、本当に?」


「え? ええ」


「俺は嘘はつかない。だから、桜ちゃんにも嘘はついて欲しくないんだ。本当に、来年もここに来るか?」


「……どうして、嘘だと思うの?」


 恵一は軽く肩をすくめた。


「……やっぱり決心は変わらないんだな」


「どういう意味?」


 恵一は赤ワインのグラスを両手で弄びながら、静かに言った。


「今日、圭二の所に行くつもりなんだろう?」




「どうして!」


 思わず桜は立ち上がっていた。周囲の視線が集まる。美男美女の痴話喧嘩とでも思われているようだ。


「……場所を変えようか」


 恵一も立ち上がった。


―――


 夜風が額に張り付いた前髪を軽く嬲る。訳がわからないまま、桜は恵一の後について歩いていた。三年間殆ど会わなかったのに。そして食事しながら穏やかに話して、そんな素振りなんか欠片も出さなかったつもりなのに。どうして恵一は彼女の心の中を知っているのだろう? そしてどうして平然としているのだろう? 


「着いたよ」


 恵一の言葉に我に返る。そしてまた驚いた。


「食事の後、ここに来るつもりだったんだろう?」


 二人が立っているのは、かつて圭二が住んでいたマンションの前だ。桜は七階の角部屋を見上げた。明かりがついている。勿論今は違う住人が暮らしている。涙が出てきた。


 二人は屋上へ上がった。屋上への扉は施錠されていたが、桜は錠のコピーを入手していた。周囲は真っ暗だ。桜はバッグから小さな懐中電灯を取り出す。


「なんで私の考えてる事が解るの?」


 壁に寄りかかり煙草に火をつけている恵一に桜は尋ねた。


「桜ちゃんはずっと俺を避けていたが、俺の方ではそうじゃなかった。桜ちゃんにとって圭二は世界の全てだった。それを失った桜ちゃんがどうなってしまうのか、俺は心配だった。だから出来る限り、桜ちゃんの様子を見守るようにしていた。見かけ上徐々に立ち直っているようだったが、心の中は違う。冷たい闇のまま。それでも今まで思い止まっていたのは、圭二がよく『時間が悲しみを癒やしてくれる』『桜にはどうしても幸せに生きて欲しい』と言っていたから。それを信じて、あいつの分まで頑張って生きようとしていた。でも段々、時間だけでは癒やせない悲しみがあると気づき、自分の中の闇の正体はそれだと気づいた。そして今年の初め頃から、死に場所を探すようになった」


「どうして……そこまで……」


「桜ちゃんは記念日とかに拘る性格だから、今日はかなり危ないと思ってた。あのレストランで食事をした事は奴から聞いていたから、そこに賭けたんだ。いくら俺でも、ストーカーみたいに始終張り付いている事は出来ないから、これは本当に危ない賭だったんだ」


「なんで。なんでそんなにしてまで私の心配を? 圭二の葬儀の時には顔色も変えなかった癖に」


「桜ちゃんが俺の事を誤解して離れて行ったのはかえって都合がいい、とあの時は思った。俺もあの頃は、今日みたいに冷静に奴の事を話したりする自信がなかったからさ。桜ちゃんは昔、ずっと感情を殺していて、圭二にそれを解放してもらった。だから、忘れたんだろう? 辛すぎて、何も表現できなくなる時もあるって事を」


 恵一はふうっと煙草の煙を吐き出した。桜はただ驚くしかなかった。『コールドブレイン』そしてあの時の無表情。先入観が、この人は人並みの感情すら持ち合わせていないのかと錯覚させた。本当は、悲しみに心が麻痺していただけだったのに。


「ごめんなさい、先生。私……」


「謝る事はないよ。黙っていた俺が悪いんだから。俺は嘘はつかない。でも、本当の事も言いたくなかった。それだけなんだ……」


 それから暫く二人は黙って並んで座っていた。桜は薬指の指輪を弄った。そうだ、これを渡してくれて、『帰って来たら桜ちゃんに渡すと言ってた。薬指に嵌めてくれないか』と言った時、確かにこの人は泣きそうな顔をしていた。あの時だけが、悲しみを表に出せた時だったのだ。


「あいつは俺にない善い性質をたくさん持っていた。あいつみたいな奴が幸せに長生きするべきだった。俺が代わってやれたらよかったのにな。俺が死んだって、桜ちゃんみたいに悲しむ奴はいない。双子なんだから早死にするのはどっちでもよかったじゃないか。神様ってのは意地悪なんだな、って思ったよ」


「そこまで弟の事を? 私には兄弟がいないからよく解らない」


「奴は双子の弟で俺の半分みたいなもんだ。でも、それだけじゃない。奴には桜ちゃんがいた。桜ちゃんと幸せに生きていくべきだったんだ。俺は、いてもいなくてもいい。それだけだ」


 恵一は煙草を踏み消して、軽く伸びをする。


「先生にだって、愛してくれるひとが何人もいたじゃない。いつか先生にも愛せるひとが現れて、幸せになれるよ。圭二が言ってた。『兄さんは優しすぎて冷たく見えるだけだ』って。私、ようやくその意味が解った。先生こそ、幸せに生きて。圭二と私の分まで」


 桜は横を向いて恵一の顔を見上げた。たった一人の愛する人と同じ顔。でも違う人。でも同じように優しい。恵一は何を思ったか、ふっと笑った。そして言った。


「やっぱり死ぬ気は変わらないのか?」


「……ええ」


 ほんの少しだけ、未練が湧いてしまった。この人がどういう風に生きていくのか見てみたい。でも駄目。自分にはもう、生きる力が残っていない。


「そうかぁ……」


「止めないの?」


 不思議だ。そんなにまで心配してくれたのに、どうして生きろと言わないんだろう? 力ずくで止めようとでも思っているのだろうか? でもそれは無理だ。長身の男と華奢な女性。だが彼女は格闘技でもS級の技と力を持っている。普通の男性など、片手でひねり倒せる。


「俺が止めたら気が変わるのか? 気を変えさせようと、ずっとこうやって話をしてきたが、結局俺には桜ちゃんを止める力はないらしい。『圭二の分まで生きろ』『きみの幸せを圭二も望んでいる筈だ』こういう台詞を言えば納得するかい? それで思い止まってくれるならいくらでも言ってやるが」


「……いえ、いいわ。そんな事はもう考え尽くしたもの。そんなに心配してくれてたのに、ごめんなさい。……悪いけど、そろそろ帰ってくれない? 私が死ぬ所を見たくないでしょう?」


 もうすぐ日付が変わる。今日中に終わりにしたい。


「帰らないよ」


「先生……力で私を止めるのは無理よ。お願い、黙って帰って。そしてどうか幸せに生きて」


「おいおい、無茶言うなよ。幸せに生きろなんて。俺が言っても聞かない癖に俺には要求するのか?」


「先生にはまだこれからいくらでも幸せになる機会があるわ。私にはもうない」


「俺にもないよ」


「どうしてよ?」


 その疑問には答えずに、ゆっくりと恵一はフェンスに歩み寄った。


「高ぇなぁ……痛ぇだろうなぁ……」


「脅かしたって無駄よ!」


「別に脅かしてる訳じゃないよ。自分に言っただけだ」


「え?」


「一人で死ぬのは寂しいだろ? 俺も一緒に死んでやるよ。俺にしてやれる事はもうそれくらいしかない」




「何……言ってるの?」


 恵一は夜空を見上げた。曇天で、月明かりも見えない。


「『桜を頼む』って言われたのになぁ……済まないな、役に立たない兄貴で」


「……どういう事? 出発の時にそう言ってたの?」


「いいや、奴が死ぬ時にさ。嘘だと思うだろ? でも俺は嘘はつかない。聞こえたんだ、その時間に。『ごめんよ、帰るって約束したのに、守れなくて』」


 桜は胸が熱くなった。自分だけだと思っていたのに、圭二の最期のメッセージを受け取った人がここにもいた。


「……嘘だとは思わない。私にも聞こえたから」


「え?」


「同じ台詞、聞いた」


 そして、『さよなら、愛してる』。宇宙のどこかから届いた、最後のI love you。


「そんな事の為に死ぬなんて馬鹿げてる! やめてよ、圭二は怒らないわ。先生は充分にしてくれた」


「いいや、あいつの所まで手を引いて連れて行ってやるよ。そっから先は俺は消えるから、気にしないでくれ」


「どうして!」


「桜ちゃんの望みを叶えてやりたいから……じゃ駄目かい?」


「私の望みは先生に幸せに生きて欲しい事だってさっきも言ったでしょ?!」


「悪いが、それは無理なんだ。死にたいという桜ちゃんの願いを邪魔しない事で、チャラにしてくれ」


「駄目よ! どうしてそんな馬鹿な事をするのか、言って!」


「言ったら格好悪いから言いたくないんだけど」


「格好なんかどうでもいい!」




 フェンスにもたれかかった恵一を、桜は怒った目で見ている。自分は死にたい癖に人には生きろと言う。傲慢だなぁ、と思う。


「仕方ねぇなぁ……じゃあ言うよ。俺は桜ちゃんを愛してる。桜ちゃんにとって圭二が世界の全てであるように、俺にとって桜ちゃんは世界の全てなんだよ。桜ちゃんが死んだ後に幸せなんか来ない。だから俺も死ぬ。解ったかい?」




『兄さん、彼女を紹介するよ!』


 笑顔でラボにやって来た弟。そして現れた彼女。あの瞬間を忘れない。一生分の恋と一生分の失恋を同時に味わった瞬間。容姿に惹かれた訳じゃない。彼女の魂は一度完全に凍ったのに、今は見事に復元されて、あるべくように輝いている。その輝きに魅せられたのだ。


 自分の半身、双子の弟を真摯に愛する彼女。それならそれでいい。弟は、自分よりずっと彼女に相応しい。二人の幸せが自分の幸せだ……あの一瞬に、恵一は自分の人生の有り様を悟ったのだ。




「嘘……」


「俺は嘘をつかない、と何度言ったらいいんだ? ごめんよ、嫌な気がするかい? でも、桜ちゃんが言えと言うから言ったんだぞ」


 本当は桜に生きて欲しい。自分はただ見守るだけでいい。自分には自殺願望はない。やり残した仕事もたくさんある。でも、どうしても桜の意志を変えられないのなら、せめて彼女が寂しくないよう、死への恐怖が少しでも紛らわせるよう、一緒に死のう……前から決めていた事だ。


「なんで……たくさんの女性から愛されていたじゃない。私なんかよりずっと優しくて純粋な娘もいたでしょ? そして付き合っていたじゃない」


「ぜんぶ気晴らしだよ。だから最初に絶対念押ししていた。俺から愛する事はないと。俺は冷たいんだ、桜ちゃん以外の女には。でも圭二が死んでからは、気晴らしするのもやめた。あいつは桜ちゃん以外の美女には目もくれなかったろ? 俺の中に奴が生きていると思う以上、他の女に手を出したらあいつに悪いと思ったんだ」


「冷たくなんかないよ。念押ししたのは、先生なりの優しさだよね。ただ、正直すぎてかえって伝わらなかっただけで」


「どうでもいいよ。俺と心中じゃ嫌か? でも、一人より二人の方が怖くないだろ?」


「嫌じゃない……けど、でも」


 桜は何を言えばいいのか解らない様子だ。恵一はフェンスを乗り越えた。まだ30cm程足場がある。フェンスの上辺を握って、恵一はもう一度夜空を見上げる。


「おーい、今から行くぞ」


 一連の行動には、もう一つだけ意味があった。先に飛び降りようとする彼を見て、桜が怖くなって思い止まってくれたなら。しかし、桜は青ざめて凍り付いたように動かない。


 ホテルのレストランと違い、周囲は住宅街で既に灯りは殆ど消えている。白くぼやけた街灯は遙か下方にあって、周囲の闇を照らすものはか細い懐中電灯の明かりだけ。胸が苦しくなる。早くこんな事は終わらせてしまおう。恵一は、上を向いたまま、両手を離した。革靴の踵が、コンクリートを離れた。




 常夜の闇に墜ちていく。呑まれ行く、死の世界に。


 ぐんぐんと、ぐんぐんと、彼の身体は墜ちていく……筈。


「やめて!!」


 叫び声がした。桜だ。片手でフェンスに掴まり、片手を伸ばした。桜の涙と薬指のダイヤがきらっと光った気がした。

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