昼休憩、残り十五分。

はしぐちむべこ

昼休憩、残り十五分。

「ん?」

 大晦日の夕方。本村月乃(もとむらつきの)が大掃除のついでにと通勤バッグの整理に手を出したところ、出てきたのが、ファンシーなキーホルダーがついた鍵だった。多分、その形状から、家の玄関の鍵である。しかし、それは月乃の物ではない。月乃の部屋の鍵は、充血した目玉モチーフのキーホルダーがついたやつで、それは現在、玄関の靴箱の上にある筈だ。

 とすると、これは誰のものなのだろうか…。まず第一に考えられるのは、発見されたのが職場に持ち込むバッグであることから、同僚の誰かのものであるという可能性。第二の可能性としては、通勤中かその寄り道中に通りすがりの人の持ち物が奇跡的に月乃のバッグに入ったか。月乃の仕事は職場に籠っての電話対応なので外回りもなく、可能性は上記の二つに絞られた。

 月乃はまず、第一の可能性の中から持ち主を探すべく、部署内の連絡用に作られたSNSのグループで鍵の失せ物はないか尋ねることにした。しばらくして、社員の一人であるの幸田(こうだ)から『その鍵は私が本村さんのバッグに入れました』というリプライが返ってきたので、月乃はとりあえず持ち主は見つかったと安堵した。

『少なくとも28日夜から無かったですよね…。見つけるの遅くて、すみません。ご不便おかけしました』

『いえ、申し上げにくいのですが…その鍵は私の物ではありません』

 なんだって。月乃が眉間に皺を寄せる間にも、幸田の返事は更に続いた。

『忘年会の居酒屋で、本村さんのバッグの近くに落ちていたのです。かわいいワンコがついてたし本村さんの物と勘違いして…。当然、まず本村さんに確認すべきでしたが、私、ベロベロに酔っ払ってたもので…ごめんなさい』

 その後も同僚たちから続々と返事が入ったが、我こそが鍵の持ち主と言う人はおらず、これはもしかして、居酒屋の店員か利用客の落とし物かと月乃が考えたところで、同僚の最後の一人から返事がきた。

『遅くなって、すみません。それ、僕のです』

 月乃のバッグに紛れ込んだ鍵の持ち主。それは、月乃より三歳年下の同僚、尾長公彰(おながきみあき)だと発覚した。




 次の日の午前中、近所の公園でブランコに揺られながら、月乃が元旦の道行く人を眺めていると、人の流れに逆行して、一人の男性が彼女のいる方へと向かってきた。それが、いつも平日見ている顔の持ち主と気付くと、月乃の方も、ブランコを降り、男性の側まで寄って行った。

「すみません。正月一日にこんな…」

「いえ、大丈夫です。ここ、私の家から二分も離れてないので」

 あの後、月乃は尾長と電話で鍵の受け渡しについて話し合った。一週間前の忘年会から今まで、鍵が無くても支障がなかった様子なので、初出勤の四日に渡しても構わないだろうという月乃の予想に反し、尾長は明日にでも受け取りたいと言ってきた。

「じゃあ、お互いの間くらいの場所にします?尾長さんの使ってる駅ってどこでしたっけ?」

「そんな、悪いです。僕が本村さんの自宅のご近所まで伺うんで」

「えっと…いいんですか?」

 電車に乗るとなると、仕事でなくても薄化粧はする。正月三が日、すっぴんで過ごす気満々だった月乃にとって、尾長の申し出は願ったり叶ったりであった。そうして二人は待ち合わせの場所を月乃のアパートの近くの公園とし、現在に至ったのである。


「これ、ごめんなさい。持ってるの気付くの遅くなって」

 月乃はポケットから鍵を取り出し、尾長に手渡した。それから、尾長の手に収まった鍵を見て、なんらかの袋に入れた方が良かったのではと手遅れなことを考えた。

「いえ…実は、僕もこの鍵失くしてるの気付いたの、昨日だったんです」

「その割に、受け取るの急ぎましたね…」

 言ってから、月乃はしまったと思った。素直な感想を口にしただけだったが、

近所といえど休日に呼び出した尾長への嫌味ととられかねない発言だ。

「去年のうちに決着をつけようと思い立って、それで、その鍵が必要になったんです。大晦日ギリギリになって探し始めたら、見つからなくて焦りました」

 尾長は気を悪くした様子もなく、だが自嘲を交えて説明した。

「決着、ですか」

「この鍵、今付き合ってる彼女の部屋のなんです」

「あ、だから可愛いクマの…」

「イヌらしいです。でも、付き合ってるっていっても、もう殆ど終わってて…だから、返せって言われてる合鍵もちゃんと返そうと思って。彼女、ショップの店員で明日から初売りの仕事で、その後実家に帰るとかで、しばらく会えなくなるんです。去年のうちにってのはできませんでしたけど、お互いの為に早く結論出した方がいいと思って…すみません、こんな個人的な事情で、休みを邪魔してしまって」

「あ、いや、それは…」

 いいのだが…。新年早々、世間話をすることはあっても、恋バナなどは一度もしたことがない同僚男性の個人的事情を知ってしまい、月乃は微妙な気分になった。しかし、尾長が赤裸々に話してくれたおかげで、祝日の午前中、自分がトレーナー姿で公園に佇んでいる訳に納得がいった。

「あの、なんか、頑張って」

 同僚としてではなく、三歳年上の人間として励ましの言葉が出た。

「ハハ、あー…はい。ありがとうございます」

「尾長さん、優しいですし、またすぐに素敵な出会いがありますよ」

「『優しい』って、どうなんですかね?」

 月乃が半分本気半分社交辞令で言った言葉に、尾長が妙に食いついてきた。

「どうって…えっと、褒め言葉のつもりだったんだけど…」

「それはわかってます。でも、付き合う男として、彼氏としてはどうなんでしょう?」

「…いいことだと、思います。優しくない男性が好きって女子は少数派かと」

「彼女に聞いたんです。俺のどこが悪いのか。そしたら、誰にでも優しいところが嫌いだって。女性って、そういうものですか?」

 聞かれて、自分が女性のスタンダードではないという自覚がある月乃は、一瞬答えに窮したが、一般論としてと答えを言ってやった。

「誰にでも優しいのが厭ってより、特別扱いして欲しいってことじゃないですか?」

「特別…」

 尾長はぼんやりと目を空に向けた。クレーム対応では抜群の対応力をみせる彼だが、恋愛に関しては思考が緩慢になることもある様だ。

「…尾長さんは彼女さんのこと、まだ好きなんですか」

 月乃に聞かれた尾長は瞬きを一つした後、答えた。

「好きです。可愛いし、ほんのちょっと前までは俺のこと好きでいてくれたし」

 可愛いはともかく、好きでいてくれるから好きとは。片思いを繰り返してばかりの月乃には少々理解し難い感情だが、それは人それぞれかもしれない。

「彼女が言う、『優しすぎるのが嫌い』っていうのが正直な気持ちなら、まだ尾長さん、嫌われてないかもしれませんよ。もっと特別に大事にして欲しいって思っているだけで。…もう本気で嫌ってるってことも、ありえますけど」

 またしても最後に余計な一言を言ってしまった月乃であったが、尾長は気にした様子もなく、腕を組んで考え込んでしまった。そうやって一人の世界に入られてしまうと、月乃は所在ない。自分はもう家に帰っていいのではと周囲をきょろきょろ見始めたところで、ようやく尾長は月乃に関心を戻した。

「すみません。いい加減、もう帰りたいですよね」 

 月乃は肯定も否定もしつらく、曖昧な反応をした。

「じゃ、僕、失礼します。…ところで、さっきから道歩いている人たち、どこに向かってるんですか?」

 月乃は尾長に倣って歩道を歩く人々に目をやり、彼の疑問に答えた。

「初詣。ここからちょっと行ったところに、有名な神社があるんです」

「ふーん…。本村さん、一緒に行きます?」

「え」

「俺まだ行ってないですし、本村さんもまだでしょ?」

「あー…でも、この格好じゃ」

 月乃は身に着けているトレーナーを摘まんだ。

「じゃあ、着替えて来るの、ここで待ってます」

「え?」

 別の理由があって会うことになった同僚男性と二人で初詣に行くことについて、月乃にはこれといった抵抗はない。着替えるのを待たせてまで…とは感じるが。しかし、尾長の個人的事情のあれこれを知ってしまった今、月乃の中で引っ掛かる部分があった。

「そういうのが、いけないんじゃないんですか?」

「…はい?」

「彼女でもない、一応女性と、元旦に初詣に行くとか…」

「…馴れ馴れしかったですか?」

「私は別にいいんですけど、彼女さんからしたら、ちょっと厭だったりするんじゃないんですか?」

「えっ、そんなことが?」

 なんと、普通に驚かれた。

「人によるとは思いますけど」

「はぁ、それじゃあ……」

 尾長は月乃をちょっと睨みつけるように見た後、「やめておきます」と言った。

「そうして下さい」

「じゃあ、色々すみませんでした。…アドバイスもありがとうございました」

「こちらこそ、その、色々とすみません。それじゃまた、会社で」

 互いに会釈をした後、月乃は自宅へ、尾長はさっき来たばかりの駅へ向かった。なにか、余計なことばかりを言ってしまった気がする。歩きながら反省する月乃を尾長が呼びとめてきた。

「言い忘れてました。明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」

 数十メートル先の尾長は大声で挨拶すると、ぺこりと頭を下げた。月乃は近所で大声を出すのが恥ずかしく、お辞儀だけを返した。


 その夜、二度寝、三度寝した後、月乃が久しぶりに携帯をチェックすると随分と前に、尾長から『本村さんの言っていた通りでした。』という一文だけが届いていた。

 読んですぐには、よりを戻せたのかと思ったが、「言っていた通り」というのは、「本気で嫌ってるってことも、ありえますけど」の方かもしれない。だとしたら『よかったですね』とも返せず、『そうでしたか』と返した後、失恋の愚痴を聞かされるのも面倒だ。

 月乃は、「どうせ三日後には会うのだから」という言い訳のもと、既読スルーを決め込んだ。




 一月四日。仕事始まりのお客様相談室は、年末年始のクレームがまとめてきたお陰で電話が鳴りやまず、部署内の人間が息を吐く間もなく、午前中が過ぎていった。

 電話番がかわるがわる休憩をとる中で、遅めの昼食となった、月乃が社員食堂に行くと、テーブル席に座る尾長の背中が見えた。既読スルーの負い目がある月乃は、そろそろと彼に近づき声を掛けた。

「お疲れさまです。尾長さんも今からお昼ですか」

「いえ、僕は残り三十分です」

「そうですか。向かいの席、いいですか?」

 「どうぞ」と言われ、月乃は弁当箱をテーブルに置き席についた。昼休憩の残りが三十分という割に、尾長の昼食はまだ殆ど残っていた。月乃が来るまでの間、トレイの横にあるスマートフォンを弄っていたのかもしれない。

「返事、出さなくてすみません。気付いたのがだいぶ時間経った後だったから、遅すぎるかと思って」

 尾長は月乃が何のことを言っているのか、すぐにわかった様だった。

「全然いいですよ。報告したかっただけなんで」

「…上手く、いったんですよね?彼女さんと」

「上手くというか、よりを戻しました。本村さんと別れた後、彼女の家に行ってきました。用事で同僚の女性に会って、ついでにその女性と初詣に行こうと思ったけど、やっぱり、そういう特別なことは君とじゃないとって言ったんです。……まぁ、嘘ですよね」

「…方便ということで。で、彼女は?」

「何故か無茶苦茶喜びました」

 そこ、「何故か」がついちゃうんだと、思わないでもない月乃であった。

「本村さん、凄いですね。俺、彼女がどういう性格とか詳しく話してなかったのに、お見通しというか」

「いやいやいや、私だってそんなに鋭い方ではないです」

 「むしろ尾長さんが鈍すぎるから」とは、失言の尽きない月乃も言わなかった。

「すれ違いで別れてしまわなくて良かったですね。これからは彼女さんのこと、もっと大事にしてあげてくださいよ」

 月乃がふざけた調子を交えて言うと、尾長の方は「以前から十分大事にしているんですけどね」と真顔で首を傾げた。

 こいつ、大丈夫だろうか――…月乃は微妙に不安を感じたが、その後にすぐ、話題が手元のおにぎりの具についてになったので、尾長とその彼女についての話はそこで終わった。




 だが、その一か月後である。同じ様に向かい合わせに座り、同じように尾長がA定食、月乃が自作弁当を食べている時であった。尾長が、大して深刻な様子もなく言った。

「昨日の夜、『やっぱり別れよう』って彼女に言われました」

 なんの前触れもない状態での報告に、月乃の食事の手は俄かに止まった。

「彼女って、あの、お正月ん時の彼女ですか?」

「その彼女です」

「なんか、やってしまったんですか?」

 言った後、昨夜の出来事を思い出し、月乃は顔を強張らせた。

「もしかして、私のせい、ですか?」

 尾長は困ったような顔をしてみせた。

 昨日、定時ギリギリで月乃が受けた電話。それが彼女の残業の原因になった。今日中になんとか問題を解決しろと言ってきた客の対処で、担当部署からたらい回しにあったり、責任者が既に帰宅後だったり、修理業者に直接電話を入れたり…まぁ、少々修羅場だった。

 夜遅くまで仕事が延長となったのは月乃だけでなく、同僚たちも同じで…残業組の中には、尾長もいた。

「月乃さんはあの電話にたまたま出ただけで、誰が担当でも残業にはなりましたよ」

「でも私の一次対応にも問題が…その、それで、もしかして、彼女との約束を台無しに?」

 尾長は無言で笑い、しかし、否定はしなかった。

「すみません…」

「いえ、謝ってほしいとかじゃ…。働いてたら、残業でデートをキャンセルするってこと、ありますよね?」

「はぁ…」

 月乃は自分の身に置き換えてみた。彼氏とデートの約束していた夜、突然、職場で修羅場…申し訳ないが、デートをドタキャンするだろう。特別な記念日でもなければ。

「昨日、彼女の誕生日だったんですけど」

「それは駄目じゃないですか?」

 迷惑をかけたことも忘れ、月乃は思わずツッコミを入れてしまった。

「えっ?でも昨日の、あの状態ですよ?」

「いやいや、昨日のことは本っ当に心から感謝してますけど、尾長さん以外にも職場の人、残ってくれてましたし」

「でも、本村さん、助けて~って顔、してたじゃないですか」

 尾長が口を尖らせ言ってみせたが、ここで三歳年下を主張されても態度を軟化させてはいけない。

「そこは心を鬼にして、彼女を優先させないと」

「でも、プレゼントはちゃんと用意してたんですよ?」

「そういうんじゃなくて、仕事よりも彼女を」

「仕事よりも?」

 尾長が如何にも納得しかねるといった風に眉の端を上げた。

「えっと…彼女も、そこまでは求めてないだろうけど、でも、記念の日くらいは優先させてあげるものかと…」

 さっきまで相手を叱る様な態度だったのは月乃の方だったのに、何故か立場が逆転してしまっていた。

「でも、俺なりに優しくしてるし、我儘にも付き合ってやってるつもりですけど。それなのに、他と彼女の扱いに差をつけろってなると、逆に周りの人に冷たくするしかないってことになりません?」

それは、どうなるんだろう…と、月乃の考えに迷いが混じらなくもなかったが、同僚が悲壮感を発していても、それを助けるために誕生日の彼女を放置するのはいただけない気はした。

 月乃が半分投げやりな態度で「それでもいいんじゃないですか?」と返すと、「そうですか」と尾長はやや不遜な態度で言ったのだった。




 それから、数週間後である。同じ部署の人々の口から、「最近、尾長さんが冷たい」と囁かれるようになったのは。

 月乃から見ても、近頃の尾長の態度はそう言われてしまっても仕方がなかった。以前は部署内のどの人間がどれだけ面倒な客に当たろうとも、協力やアドバイスを惜しまず、それどころか残業になりそうな場合は担当を引き継いでもくれた尾長であるが、最近の彼は誰が困っていても進んで助け船を出すことは無く、協力を求めても連絡すべき部署や業者の番号を渡すことくらいしかしてくれない。そして、少しでも甘えた態度をみせれば、「それはあなたの仕事でしょう」と冷たい一言を浴びせてくる。

 今の尾長の様な態度で仕事をしている同僚は、彼以外にもいくらでもいる。だが、今まで部署を引っ張って来た存在である尾長の突然の豹変ぶりには、同僚や上司、一同皆一様に驚いた。

 突然と感じた皆とは違い、月乃は尾長がすっかり仕事への取り組み方を変えてしまった理由に心当たりがあった。あの昼休みでの会話である。

 「彼女との扱いに差をつける為、周りの人に冷たくする」。あの時、尾長が言い出し、月乃が許可した行為を彼は実行しているのだ。

 これが、恋愛中の些細なエピソードで終わればいいが、現在の状況はそれで済むとばかりは言えない。彼は現在、月乃と同じ非正規雇用の身だが、その仕事振りにより派遣先の上司から目をかけられていて、近々正社員に昇格すると思われる人だ。それなのに、彼が際立ったコミュニケーション能力を疑われるようなことをしては、その可能性も潰れてしまうだろう。

 月乃の言った余計なことがきっかけで、一人の青年の未来が変わってしまうかもしれない。

 責任を感じた月乃は、尾長と話し合う必要を感じた。




 しばらく昼休憩の時間が被ることが無かった二人だったが、ある日、食堂で一人席についている尾長を月乃は捕まえることに成功した。

「尾長さん、向かいの席、いいですか?」

「すみませんけど、一人でゆっくりしたいので」

 今まで聞いたことの無かった、尾長の拒否の言葉だった。身体を一回、ほんの少し揺らしてしまった月乃だったが、ここで挫ける訳にはいかない。「悪いんですけど、尾長さんとお話ししたいことがあるので」と強引に向かいの席に座った。

 弁当の包みを開こうともず尾長を見る月乃を、尾長の方は無視して食事を続けたので、月乃も目を合わせることを諦め、話を始めた。

「尾長さん、最近冷たくなったって、皆から言われてます。そういう態度にしてるのって、私が彼女を特別扱いしないとって言ったからですよね?」

 尾長の反応は、皆無だった。

「でも、今のその態度は間違ってると思うんです。もっとケースバイケースにというか。このままだと、今まで培ってきた仕事上の信頼が壊れてしまうかもしれないですし」

「あれは駄目、これも間違ってるって」

 突然、月乃の話を遮った尾長の言葉は、最近彼の口からよく聞く冷たい調子のものだった。

「勝手ですね。以前の通りにしてたら彼女と上手くいかないし、今の状態じゃ仕事が駄目って、今度は何を口出しするつもりですか?」

「だから…何事もほどほどにっていうか…。尾長さん、仕事ができるから十分正社員になれる可能性があるのに、今の状態で職場の人と関係が悪くなると、そういう話も…」

「俺がここの社員になるかどうかとか、そんなのは本村さんに関係ないでしょう?確かに、最近の職場での態度は本村さんに言われたからっていうのもあるけど、自己責任でやってることなんで」

 尾長は月乃に言い放つと、半分も食べていない定食のトレイを持ち上げ、カウンターの返却口へと向かって行ってしまった。

 一人取り残された月乃は自分の弁当の包みを広げ、何事もなかったかのように食事を始めたが、手製の料理をちっとも美味しく感じられず、なかなか食がすすまなかった。




 そうして、明けた翌日、尾長はまたしても豹変した。今度は、元々の彼に戻ったのだ。

 朝から、以前通りの柔らかい態度で同僚に接する彼だったが、また何時冷たくあしらわれるかと、同僚たちは戦々恐々とした。しかしそんな皆の様子もどこ吹く風、彼は以前の通り、明るく頼れる社会人然としていた。

 月乃も午前中の間、前日に彼との会話が決裂に終わったことを引き摺っていたので、やはり同じ部屋で働く彼を避けていたのだが、昼休みになって、一人で食堂に居るところを今度は月乃の方が尾長に掴まってしまった。

「お疲れ様です。ここ、いいですか」

 昨日の今日だ。今日は朝から機嫌のいい尾長だが、いつどのタイミングで昨日までの彼に戻るかわからない。少し、警戒した月乃だったが、彼女の返事を邪気の無い顔で待つ彼を拒否することもできず、「どうぞ」と小さい声で短く答えた。

「昨日は、すみませんでした」

 尾長の謝罪は、彼が席に腰を下すか下ろさないかのタイミングでだった。

「昨日だけじゃなくて、ここ数週間。誰かに恨みがあった訳じゃなくて、ただ、試してみただけのつもりだったんですけど」

「…やっぱり、私が変なこと言ったから?」

「あー…その件は、気にしないで下さい。自己責任でっていうのは本音だったんで」

 尾長は箸を手に取ると、定食の主菜であるサバの味噌煮をつつき始めた。

「試してみて、彼女と別れることにしました」

「え…」

 尾長が元の彼に戻ってくれたらしいことに安堵していた月乃に、再び緊張が走った。

「なんで?」

「やっぱり、彼女とそれ以外の人の扱いを変えるのって僕には難しいって、わかったんです」

「でもそれはケースバイケースで…」

「情けないことですけど、そういうのって苦手で。極端にしか出来ないんですよね」

 仕事中の尾長はいかにも器用に見える。客に合わせて対応を変えたり、効率的な順序で約束を取り付けたり。月乃があれこれ無駄な作業を増やしてばかりなのとはあまりも違って感心していたのだが、そんな彼にも極端に不器用な部分が存在していたということか。

「昨日までの態度続けてたらどんどんヤな人間になるし、社会人としても問題だし…。彼女が喜んでも、こんな駄目になる関係だったら続けてもな…と思って」

「そう、ですか…」

 理由がなんであっても、恋人と別れるのは寂しく切ないことだ。同情を感じた月乃から、いつだったか言った言葉がつい口をついて出てきてしまった。

「尾長さん、優しいですし、またすぐに素敵な出会いがありますよ」

「それ、前も言いましたよね」

 間髪入れずにつっこまれ、月乃は自分のひどくワンパターンなことに顔を赤くした。

「…言いましたね」

「今回は、その言葉も素直に受け取れます。でも、本当は優しいってより、人が困ってたり、がっかりしたり、悲しそうにしてたりする顔見るのが厭なだけなのかも」

「みんな、そうですよ」

「ですかね。職場の人が困ってるの見ても何もしなかったり、頼まれても、自分じゃなくてもいい仕事なら断ったり、その度、かえって辛かった。でも、想像してたよりは耐えれました。だから数週間も継続できたんだし。ただ、…」

 月乃は尾長の話に頷きながらも目線は自分の弁当にやっていたが、彼の話が急に途切れたので、顔を上げ、目の前の男の顔を見た。

「ただ、本村さんの俺が『関係ない』って言った時の顔見たら…やっぱ、俺には無理だなぁって」

「それって……私がずば抜けて憐れっぽい顔をしてるってことですか?」

 月乃は抗議として、尾長を睨んだ。尾長は一度噴き出しそうになった後、笑いを堪えながら言った。

「そうですね、本村さん、顔に出やすいから。でも、それだけじゃなくて、俺の方にも問題があるんだと思います」

 それは、そうだろう。あんな冷たい言葉を人に投げつけたのだから、問題ありありだ。月乃がそう納得すると、何時からいたのか、テーブルの横から部署の先輩格である幸田が現われ、「お昼、一緒していい?」と聞いてきた。二人して頷き、しばらくは三人でたわいもない世間話をしたが、そのうち、時計を見た尾長が、「もう仕事に戻らないと」と席から立ち上がった。

「え?もうそんな時間ですか?」

「今担当してる件、この時間じゃないと連絡とれないらしいんで。じゃ、お先に」

 幸田と月乃の「お疲れ様で~す」の合唱を背に受け、尾長はテーブルから離れて行った。彼が会話が届かない距離まで行ったのを見計らって、幸田が言った。

「さっき、結構前から近くに居て、話し聞いちゃってたのよね」

「さっきって?」

「尾長君が彼女と別れるとか、どうとか…。込み入った話っぽかったから、声掛け辛くて」

「そこまで込み入った話じゃ…尾長さんも、幸田さんになら聞かれても大丈夫だったと思いますけど?」

 去年配属されたばかりの月乃と違い、尾長と幸田は二年以上同じ職場にいる。

尾長の教育係は幸田だったというし、尾長にとって、島も違う月乃より幸田は余程親しい女性社員だ。

「まあ、その彼女とのこともそうなんだけど、尾長君、頑張ってる最中なのかなぁと…でも、本村さん気付きそうにもないから、声を掛けてしまった次第だけど」

「そんなことないですよ。話聞いたし、私もわかってます。尾長さんが尾長さんなりに頑張ってること。人それぞれ、不器用な部分ってあるものなんですね」

 幸田は「ちょっと違うんだけどな…」などとぶつぶつ言っているが、月乃の昼休憩は残り十五分。仕事再開の前にトイレも済ましておきたいところで、今は弁当の残りを食べることに集中した。

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昼休憩、残り十五分。 はしぐちむべこ @kyouhamatujitu

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