ヴァンパイアドウターズあるいは生きることはもっとも高貴な邪悪

@socialunit13

第1話 ・・・光の中の孤独

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【【ある神話:始め】】

むかしむかし、神さまは悪魔と賭けをして、

ある男からすべてのものを取り上げた。

最初は富を。

次は名誉を。

最後に家族を。

幸福でなくなれば誰も神など信じないと悪魔は言った。

【【神話終わり】】


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想像してごらん?

400年ほど下らない人生を、ものすごく無意味でゴミみたいな人生を生きて。

そもそも人生とはゴミみたい。

死んだ子供がかわいそうに見えるのはただの感傷。

本当は死んだ子供たちの方が幸せなんだ。

生きているのはくだらないから。

そう言う理由で死んでいく。

後に何も残らないから。

最初からいなかったのと変わらない。

もっと悪い。

最初からいなければどんなにか幸せだったろう。

自分という存在の理不尽さに気が狂うような思いをしなくて済んだ。

ただ奪われるためだけの希望を持つこともなかった。

叶わない夢を抱いて絶望することもなかった。

事故や病気で幼いうちに死んでいく人がうらやましい。妬ましい。

なぜならそれは外の罪だから。

その子の罪ではないから。

希望を抱いて死んでゆくから。

ヒトの想い出に残るから。

生き残った私はもうそれだけで同情するに値しない。

なんのために生まれてきたの?

なんのために私はいるの?

それは多分、苦しむために。

傷つけるために。

忘却されるために。

呪われるために。

希望や愛とか憧れながら決して手に入らないことをより深く思い知らされるために。


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ブラッドプロセッサについて。

ブラッドプロセッサは、人間の血液細胞に寄生する特殊な生物のことだ。厳密にはその寄生によって変化させられた血液細胞のことを指す。寄生体単独の呼び名はプロセッサスピンドル。偏性細胞体内寄生体で生体細胞の外では生きていくことできない。

マラリア原虫やリーシュマニアのようなものを思い浮かべてくれればいい。


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感染した白血球の内部に、プロセッサスピンドルと呼ばれる紡錘状のタンパク質集合体が発生する。

このプロセッサスピンドルを持った白血球が一定量以上に増えると、ある段階からそれを持ってない白血球にたいして攻撃を行うようになる。

この際、典型的な血球貪食症候群――白血球が仲間の血液細胞を破壊し始めるという極めて重篤な血液病――の血液画像をしめすが、生存するケースは数日で自然寛解する。

回復後の白血球にはすべてプロセッサスピンドルの存在が認められる。

この激しい連続した反応を自然下骨髄移植、メルトリンク、妖精熱と呼ぶ。

生き残れるのはひと握りしかいない。


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血液の交換が終わると、次に脳実質の交代が始まる。ブラッドプロセッサ高分化能マクロファージの浸潤と大脳新皮質の破壊、そして破壊された箇所に血管状の組織が再形成される。この血管状の組織はファウストラ器官と呼ばれる。


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この過程において、本人の自覚症状はまったく無く、機能障害や運動障害なども発生しない。ファウストラ器官は破壊した部分の情報や論理構造をそっくりコピーしながら成長できると考えられる。

なお特殊な薬剤をもちいてファウストラ器官の形成を妨害すると、極めて重篤な認知障害が発生する場合がある。

解剖して観察すると、束にしたケーブルテープ様の組織が包帯で包むみたいに脳実質を覆っているのを確認できる。


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ファウストラ器官内部には大量のブラッドプロセッサが一定の速度でゆっくりと流れている。おそらく特殊目的用に分化した白血球で、我々はそれを演算細胞と呼称する。


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【 【ルフトメンシュ先生の講義:1:始め】】

液体知性について。

液体と、液体の中に漂う大量の細胞級プロセッサをハードデバイスとする新しいコンピューティングシステム。液体コンピュータ。

マルチ・アナログ・プロセッシング・ユニットという理論がある。

デジタルではなくアナログであり、1つのノードが相互に影響し合う複数のチャネルを所有する。

当然ながら、各プロセッサはお互いに固定的でなく、自由に動き回っている。

そのため神経細胞やノイマン型コンピュータのような固定的なネットワークは作ることができない。その代わりにファウストラ器官内で特に多用される特殊波長電磁波を使う。

1個のプロセッサである白血球演算細胞は電磁波の周波数の違いに基づく300個以上のチャネルを持つ。それを互いに交信し合うことでネットワークを形成する。同じ役割を行うプロセッサが複数以上存在し、クラスターとして1つのノードを形成している。

そしてプロセッサ内部で、このチャネルから受信したときはあそこのチャネルで送信するという形で論理ネットワークを作る。

そうしたプロセッサ内部の記憶が、言ってみれば個体デバイスの線の部分に該当する。

ありていに言えば無線LANだけで作ったネットワークでもある。

もっとも実際には完全な液性ではなく、物理システムとしてのファウストラ器官の存在が重要な役割を果たしている。ファウストラ器官は血管から分化し大量のブラッドプロセッサをその内部で流動させる。これによってクラスターの階層を物理的に設定し、しいて言えばネットワーク世界でのサブネットマスクに相当する秩序を作り出す。

さて、液体知性の大きな特徴として、ダメージなどからの回復性が極めて高くなることがいえる。固定的なネットワークでは、ひとつの機能が物理的にひとつの局所に存在してるので、その部位が破壊されることによってその機能のすべてが停止してしまう。

液体コンピューティングではひとつの機能が全身に広く分散しているため、局所を破壊されることが致命的な結果にならない。

ギーメにおいてもファウストラ器官は頭部に集中してるが、人間の神経系と比べると全身に分散する度合いが高い。

欠点としてはデバイスひとつひとつが複雑になり高価になる点だ。人間がつくる場合にはだが。

ちなみに我々の社会に存在するインターネットは、それ全体として扱われる限り、典型的な液体コンピューティングの成功例だ。人間が作ったものの中では。

ほぼ液体と言っていいだろう。

ルーティングプロトコルが自動的に接続を効率化することにより、リンクがどれだけ破損しても再組織化で対応できる。ルーティングこそがインターネットの本質で、いや、今はその話題はよそう。

どこまで話したかな。ファウストラ器官とアドレス多様性の進化的獲得の経緯の推測について。

これは誰かに答えてもらおう。そうだな。

君、その列の先頭のあなた、説明してみなさい。

【講義終わり】


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ブラッドプロセッサの寄生に関する一連のイベントに生き残った生物個体のことをギーメと呼ぶ。

現在の定義はそうなっている。

ギーメの歴史的起源は古い。

紀元前7世紀、アッシリア時代の粘土版から記録が残りはじめる。

その多くが独自の天使信仰ないし類似の宗教の信者と重なることが多かったようだが、特にギーメを信仰の対象とする特異な宗教団体も存在したようである。その中心教義は、宇宙のすべてを記録する1つの部屋、図書館が存在する、というものである。それより以前にはまったく言及がされてない。

ギーメの1部にはかつて人間を普遍的に支配していた神の1柱であっと主張する者もいる。もちろん主観的な主張であり物的根拠は何もない。


その宗教団体が今でも存在していると言われるが、確定的な証拠はどこにも存在しない。


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この一方で奇妙な症状がある。しかもギーメそのものではなくその観察者、治療者において発生する一連の疾病群がある。ギーメを観測している者にはうつ病、統合失調症、ニューロパチー、精神神経疾患などの病気が通常より高い確率で発生する。

原因不明。ギーメ観察者症候群と呼ばれている。


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私はとある学校に転校した。4月。驚いたことにみぞれが降った。

私は寒いのが好きだ。だから嬉しい。

友だちはすぐにできた。

詩緒という名前の子だった。

私でも友だちができるのだ。嬉しい。

これからは悲しんでばかりいたらいけない。

すぐには難しいかもしれないけど、生きる楽しさというのを感じて生きていかないといけない。私にはちょっとなれないな。

ほら、そこの階段の上にはきっときれいな庭園があるよ。

でもそこには登れないよ。

そこに行けるのは幸福なものだけだから。

ほらみて、心臓が止まるほどきれい。

でも、それは私には見れないものだ。

私は、私の手が届くところまでのもので我慢しないといけない。

さあ、私には詩緒との生活が待っている。

詩緒は優しい。

いつも失敗してばかりの私をいつもかばってくれる。

くじらの髪飾りを落としたのを拾って届けた時から、彼女と友達だった。

こんな優しい人は始めてかもしれないと思った。言い過ぎだろうか。

私はこちら側の世界のことを良くは知らない。帰国子女というのに似ている。

それだけでなく、あちらの経験も良くは語れない。

語るべき内容はあまりにも、欠落しているか、おかしなものだらけだから。

だから、それに疑問を持たないでいてくれる人じゃないといけない。

詩緒はこっちに深入りはしてこない人。

それがいい。

こんな理由は不純かな。でもしょうがないよ。私だって生きていかないといけないんだから。

でもそれはやはり。

多くを期待しすぎたのかもしれない。

私は大抵の場合いつも集団の悪意の対象になる。いじめダメ、ぜったい。

というほど簡単な話ではなくて。

私には他人が当たり前のようにできることがしばしばできない。

どうも他の人のタブーを私が平気で踏み破ってしまうみたいなのだ。

といってその場では絶対に気づけない。

いつも壊れてから気づく。

だから嫌われるのは仕方ないことなのだ。誰だって嫌いなものがあるのは仕方ない。


詩緒はあの人とどこまで違うだろうか?


ある日、詩緒が突然に涙ながらに感情をむき出しにして抗議してきた。

詩緒がこんなに怒るところは初めて見た。

彼女によると私が何かひどいことを言ったかららしい。


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ギーメであることは病気であろうか?

確かにブラッドプロセッサ感染初期においては、自然下骨髄移植、メルトリンク、妖精熱などと呼ばれる症状を引き起こす。無治療の場合は死亡することが多い。しかしこれはブラッドプロセッサが非感染細胞を排除する過程でおこる免疫崩壊が原因である。

それをくぐり抜けて安定期に入った場合、特にこれといって困る症状は実はない。それどころかプラスの面が多い。そう述べるのは言い過ぎであろうか。

ひとたびギーメになると、明らかにガンにならないという現象が報告されている。

もしブラッドプロセッサの感染時にガンを罹患していた場合は、それが消滅するか良性腫瘍化するという現象が発生する。

ブラッドプロセッサの導入はガンの治療法として意外なほど効果が高いと考えられ、末期ガン治療の手段のひとつとして既に導入されはじめている。

が、一度ギーメ化すると元に戻れないので、ほかに生存の手段が全くない場合の最後の手段としてのみ適応とされる。何せ、ギーメになる際の死亡率も決して低くはない。

またウイルス病の類にもかかりにくい。まったくかからないというほどではないが病原体がウイルスである場合は極めて抵抗性が高くなる。

これに対して、極めて逆説的な調査結果がある。彼らの体液からは常に大量のウイルス由来タンパク質――通常レベルの数千倍――が検出されるというものだ。

しかしこれによる感染症の症状はまったく現れない。また感染の重症化により個体が死亡するというケースはもちろんない。


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希望は人を殺すために生まれた。

詩緒が言うには、詩緒が大切にしている別の友だちに対する私の態度がひどいというのだ。私は謝罪し、行動を改めることを約束した。


私は夕暮れの中を家に帰る。

この家は、お母さんもお父さんも良い人だ。

お母さんは私を元気づけてくれるし、お父さんは私のために働いてくれるし、特に私には優しくしてくれるし、それに2人とも私のことを大切にしてくれる。

でも。

2人が一緒になるといつも仲が悪くなる。

お父さんが浮気をしているというのだ。

それは私にはどうでもいいんだけど、2人にはどうでもよくないことなのだ。

でも私も女性なので、夫が浮気をすることを、どうでも良くはないと思うはずだ。

そうなのかな。ダメだ。イメージはできない。

私にはそういうのは遠すぎて、絵空事に思える。


次の日、詩緒が私を避けるような行動を取った。

私は詩緒と話をしようとしたが、先に謝罪が必要だと言われる。

私は彼女と仲直りすることをあきらめた。

そこで私はリセットすることにした。

本当はやってはいけないことなのだけど。

でも。

悪いことをするのがいけないのは、誰かを傷つけるからではなくて、そういうことをすると、その人自身が体と心の奥の方で壊れてしまうから。

でもあいにくと私はとっくのとうに壊れすぎるほど壊れている。問題なし。

ちょっとだけなら、命に別状はないし、何より私がいなくなればみんな喜ぶはずだ。

だから。リセット。


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哲学的命題としての自己と自己同位体について。

もし私の完全なコピーを作れるとして、そのコピーが『私こそが本当の私』と自己主張しはじめたらどうなるだろう?

もし彼女の主張が認められたら私は私じゃなくなることになる。

いや、百歩ゆずってそれは良いとしよう。

本当の命題はここから。

もし私たちのどちらか1人が死んでしまったらどうしよう?

仮に私が死んでしまっても、私と記憶も中身も同じな彼女が生きているなら私は死んだことにはならない?

もしくは私がこうして生きているのに死んでいることになってしまう?

いや、でも私が人間の形をしていたらそんな深刻な問題にはならないはず。

そうだろうか?


ギーメとは、つまりそういうものだ。


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シリンジ。

ギーメはシリンジで人に害をなす。それはテレパシーの一種だけど、送信オンリーで受信はできない。できないというのは語弊がある。それは相手を書き換えること。

受信ではなく、書き換えられる。

それは暴力だ。

私たちギーメは、それに対して、免疫というかセキュリティシステムがある。なのである程度までなら修復する。私たちにはバックアップの記憶が存在して、エラーを感じると元にもどす。

でも普通の人、ノンギーメにはそんなものはないので、書き換えられたらそのままだ。

それはゆくゆくは病気をもたらし、最終的にはその人を殺す。

だからギーメの人々は、ノンギーメの人々と共存を目指すのであれば、シリンジについて強力な自己抑制をしなければならない。

私もそれを知ってる。

だけど私は守らない。

私は、お父さんとお母さんと詩緒の心の中から、きれいに私の記憶を消した。

それだけでなく、詩緒の友だちからも、学校の先生からも、街のコロッケ屋さんや、本屋さんや、よくいくお店の人や、少しだけ話した近所の料理屋さんや、そういう人たちすべてに害をなす。

ぃぃぃぃぃぃぃん。

音が鳴るような感覚がするが、音ではない。

ギーメにしか聞こえない音。

でも、この程度ならそんなに高いリスクではないはずだ。

ちなみにこの被曝量をファシノという単位で呼び表す。

私はここに来て、まだ日が浅い。

だからそんなに深刻な量ではないはず。

そもそも私がいなくても、誰もそんなに困らないのだから。

でももし私が消えることで、人格の継続性が困難になるほどの人がいるなら、それは殺人だ。もしくはカシツ・チシというやつだ。


とはいえ、私にも言い訳はできる。

私は追われている身なので、それくらいやらないと命が危ない。

だから許して。

ちなみにそのように書き換えられた人から、たまにギーメが出現する。

ギーメはそのようにして増えていくのだ。

被曝量500ファシノ以上でないとそのような現象は起こらないけれど、

大体200くらいから死ぬ人が出てくる。


今回、私が消えるために使ったのは、2から9ファシノ。

来るときにお父さんとお母さんには少し多めに20ファシノくらい。

それで私はその街から消失した。最初から存在しない人物となった。


私はあらかじめ計画を立てて西に向かい、そこの小さな街でもういちど繰り返す。

最初からここには期待していなかった。ここは最初からうまく行かなかったんだ。


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鏡の中にあの子がいる、黒い影の女のコ。

喋らないのはずっと昔に確認した。

怖かったのはずっと昔に卒業した。

今日も確認しただけ。ごくろうさま。


これは私がときおり見る幻想だ。

しかし影の女の子は喋らないし、声も出さないし、要するに慣れてしまった。

もっと昔はふしぎにおもって、いろいろやった。

話しかけもした。

目の前で踊ってみたり。

私にとってひょっとして唯一の友だちかと思ってたこともある。

でも、影は影だ。

ときおり、彼女はひらひらと服のような何かを風にそよがせる。

でも、それだけ。

ときおり見ると座っていたり、寝ていたり、あるいは向こうの方を見ていることが分かる。

それだけ。


問いかけに答えを返してくれたり、とつぜん怒り出したりはしない。


そう、雲を見ているようなものかな。

雲の形がふしぎなのと似てる。

雲は好き。

白いから。夏の青くシャープにくっきりと映る白い綿雲がすき。

きれいだから。

それは、おとぎ話の丘だから。

青い空にきれいな丘を描いて、きっとそこには幸福しかない。

夢にまでみた理想の世界。

ようやくたどり着いた。いえ、たどり着けてないけど。


率直に言って、こっちに来ていちばん驚いたのは、それだった。

最初はずっと見とれてたぐらい。


それは、私にとって信じられないほどの幸せの光景。


いつか、そこに行けたら。

影の女の子も、向こう側で幸せなのかな。


私には遠い世界だよ。

私にとって、生きるのはただの苦痛だから。


ここではないどこかをいつも、夢に見てる。


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私がギーメになったのは、遠い昔で、何がきっかけでギーメになったのか、覚えていない。

ノンギーメからギーメが生まれるの見ることができるチャンスは多くない。

ギーメが誕生することをメルトリンクと呼ぶ。

生存率はきわめて低い。

というか、私は過去の記憶が吹っ飛んでいるので。


見たことはない。


吹っ飛んだのは、特定の状況に追い詰められたからだ。

それは覚えている。

おいおい説明していきたい。


でも、無いものは仕方ないのだ。それで良い。むしろどうしようもない記憶があるよりは、ない方がましなのかも。そう思うことで、むしろ少し救われている。


さて。


私は山の中にある西の街にたどり着いた。

そこは山に囲まれた街だ。

うん。ここにする。


宿を探す、というより寄生するおうちを探すのだけど、不思議な現象が起きた。

それはいきなり起きた。というか気づいた。

私は、どうもその道を知っているみたいなのだ。

デジャブ。

それでその道を歩き続けたら、黄色い家にたどり着いた。

そこには次のお母さんがいた。

黄色い家は好き。


私の次のお母さんを決めた。

ここにする。


でも、あれ? なにか変だな?

私は、何かに、覆いくるまれているような気がした。


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「私の私の中華は~、あ、おかえりなさーい、リコ」

この家の子供はリコと呼ばれていたらしい。

でも仏壇がある。その中には写真もある。

私はここに来て最初に、その写真をのぞき見してしまった。

病気で死んだのだ。


彼女の姿は(*+*+*+*+*+*+*)


でもそういう風には見えない。幸せそうなふつうの女の子に見える。

言葉にならない失われた風景。今はないもうひとつの世界。

ただきれいで。

幸せそうな。


決して長くは生きなかったけれど、私にくらべれば。


壊れそうになる感覚を感じたので。それから離れる。これは嫉妬というやつだ。

でも気にしない。

いま、このお母さんの娘なのは、この私なのだから。


ちょっとだけ、お母さんを借りますね。


最低被曝量で書き換え完了。書き換えのうまさにはちょっと自信がある。

私の数少ない取り柄だ。

このお母さんには、もう仏壇は見えない。

このお母さんには、もう自分の娘が死んだことが分からない。

だって、目の前にいるんだもの。

「りこー。今日はカレーにする? それとも中華にする?」

「……中華」

「えー、もうカレーの材料を切っちゃったよーう」

さっき歌っていた歌は何だったんだ。

「……じゃあカレーがいい」

「ありがとー。リコは優しいねえ」

このお母さんは当たりだ。


「ああー、いつかリコも白いドレスを着て、どこぞのアゴが多角形のイケメンに持ってかれちゃうのかなああ。うううん。何か複雑だよー」

多角形の顎の形した人類はいないと思う。


「でも。もう心配しなくていいからね。これからは、楽しいことうっんと、あるからねー。お金は使っちゃったけど、そうだ、でも今度どっか行こうか。できれば海外。うーん、まだ早いかー。ちきしょー、でも近場でも行ったことないB級スポット意外とあるぞ。ねえねえねえ、お母さん、またローカル線に乗りたいなあ。今度こそはリコが退屈しないようなのに乗るから安心してね」

娘を愛しているが自分の欲望にも貪欲なお母さん。健康的だと思う。欲望を追求できない人は誰かを愛することもできないと、誰かが言った。

「……うん」

このお母さん、大好きだ。


罪悪感など押し殺して後で味わえ。


その夜、私は夢をみた。


*****

「白い羽を見つけるのが奇跡なんだよね」

「違うよ。黒い羽。黒い羽は罪を犯してでもあなたを助けます、という悪魔の奇跡を表すんだ。それがこの世で最も強い奇跡。大きな代償を必要とするけど」

影絵の人たちが話していた。

まっくろで正体がわかんない。

「そうそう、これも知ってる? この世のどこかに魔法の部屋があって……」

「いくつ集めるとそこに行けるのかな?」

ああ、そこはとても幸せそう。

私もそちら側に行きたい。

ねえ、私もそこに入れて欲しいの。

「あはははははははははははは」

「ねえ、こっちに来たいみたいよ」

*****


そこで目が覚めた。


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朝。私は学校に行く。

私の年齢では、この国では学校に行くものなのだ。

いや、説明するまでもないか。

この学校の制服は、12単衣みたいな何段にも重ねた布のフェイク折り目、そういうデザインの派手なジャケット。それにネクタイ。


ちょっと目立ちすぎだ。失敗したか。抵抗感がある。

なんでリコはこんな学校に通ってたんだろう。

ともかく、早く学校関係者にシリンジをして書き換えをしてしまわないと。

もし、万が一、彼らを呼び寄せるようなことがあれば。


大丈夫、注意深くやれば誰も死ぬようなことにはならない。


通学路には、大勢の、私と同じくらいの年齢のノンギーメの人たちが歩いていた。

彼らの何人かは明るく、またある者はうつむき、またある者は、ただ時間をやりすごしている表情。彼らは知らない。

その中に、ひとりだけこっちと目があった女の子がいた。

かなり長い時間を目を合わせていた。

くすっ。

いたずら好きそうな瞳(め)。


なにっ。なに?

ひょっとして服装がおかしいところが?

それとも、私の何か異常さに気づいたのか。


これは危険のサインだ。

でもその女の子はあさっての方向にそっぽを向いて、それからこっちを見ることはない。私は、なので様子をみてこのまま行くことにする。

安全? おそらく。

慎重に。


校舎に到着。


1年のクラスを適当に選ぶ。

しかし本当は適当に選んだとは言いがたい。

ここでまた不思議な現象が起きた。どうも私はどれを選べばいいのか知ってるみたいなのだ。このときは疑問にも思わなかったけど。


入る。


ぃぃぃぃぃぃん。


彼や彼女たち、こちらをちらっと見るが、関心をもつものはいない。

私は中のひとりに空いている席をジェスチャーするように指示。

ぃぃぃん。

送信実行。

書き換え完了。できたはずだ。

いちばん後の席の男の子のひとりが、自分の後の席のいすをどけてくれる。あそこだ。

私はそのポジションに入る。

後はHRにくる先生を書き換えて終わりだ。

まだ4月は始まったばかりで、見慣れない生徒を疑うものはいない。

ここは1年クラス。みんな新入生だ。


シリンジは暴力であってテレパシーではない。だから相手が書き換えられたかを確認するのは難しい。いやでも、かかってるはずだ。

そうして学校生活がはじまる。


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「やった! ねえねえこれ見て。『あなたの適性は複雑すぎて判断できません』だって。適性試験に勝ったっ」

「それ絶対アホだ。それじゃ試験受けた意味ないのね」

「そんな自分の適性とか可能性とかを試験なんかでジャッジされちゃっていいの? 私としての敗北じゃん。断じてノーよ」

「テスト代もったいないのね」

「え。テスト代ってタダじゃないの?」

「おばかさんなのね」


なんかすごい子がいる。

そうか、昨日はそんなテストがあったのか。

ここで知ったのは幸運だった。書き換える内容がまた増える。

それにしても。

この有村さんという女の子、そう呼ばれていた。


そうかと思うと、有村さんは次になんと霊能者の本を取り出して読んでいる。表紙が見える。すごいタイトル。『今日の霊能』


「ねーね見てこれ。私もイタコになれるかな?」

「なりたいの?」

「そりゃなりたいよ。困ったとき便利じゃんか」

「召喚獣じゃないからね、霊は。召喚魔法で霊を呼び出すとかありえないからね」

「そんなことわかってるけど。便利だと思うんだけどなあ」

「ぜんぜんわかってないのね」


四六時中つっこみを入れられている、聞いてるだけですごい楽しい、彼女もまったく悪びれてないし、おかげでこの子のことをすぐに覚えてしまう。


うらやましい。

こういうのはなんだか水族館みたい。


水族館って知ってる?

お魚がいっぱい泳いでるとこ。

私は、お魚を見たことさえもあまりない。

よくは知らない。でも。

聞いた話によると。

それは青くて、とてもきれいで。

どこか別の場所。

手が届かない幸福のシンボル。


私は水族館のクラスにいるのかー。

有村さんはお魚さんなのかー。

どんなお魚?


というわけで、私はこのコンビの会話を良く聞くようになった。

どうか。

この幸せが私にもこぼれ落ちてきますように。

私は有村さんのファンになった。

でも私はこの輪の中にはきっと入れない。

いや、私の方から入らない。


設定21


私はムラサキの薄汚れたリボンを持っている。

さすがにそれを飾り止めたりはしない。

でもしばしば手に握りしめている。

いつも持ち歩いてる。

これはあれだ。

ジーナスの毛布。

なんでもそれを握ると安心して温かい気持ちになるのだ。

お母さんからもらった、とかそんな感じなのかな。


私にとってはその薄汚れたゴミがそれはもう、とてもとても大切で。

でもなぜ大切なのかは例によって思い出せなくて。

きっと思い出したら怖いことなのだろう。

とても悲しいことも思い出すだろう。

だから思い出さないのがいいことなのだ。これでいい。

このままでいい。私はとても臆病だ。


ぎゅっとリボンを握りしめて。


いつも動くのが重い。



「楠本(くすもと)生糸(きいと) さん」

「……はい」

「いま、授業中じゃないかしら。なんでここにいるの?」

「……それは」

それは授業で必要なものを取りに来たからです。

「担当の先生がそう言ったの?」

「……いえ」でも。

「そんなわけないでしょう。私はもうあなたの名前まで覚えてしまったのですからね。後で職員室に来なさい」

授業前に来たのだけれど、見つからなかったのでいつまでも探していたのです。

でもそれが言葉に出る前に、その先生は行ってしまう。


私は自分で自分の肉体にシリンジして発声させるというややこしい発音方式を取っているので、いつも言葉を出すときにワンテンポ遅れるのだけど。

なんでか私は素で声がうまく出ない。

幸福な体験しかしてない人は素直である。素直な人は誰にでも優しい。

不幸な体験を積み重ねてきた人は歪んでいる。明らかに狂ったルールを信じる。そうすることでしか身も心も守れないから。そしてそのルールを自分以外の誰かにも押しつけて苦しめる。他にどうしようもないから。


「おまえ、いい加減にしろよ!」

例によって何で怒らせたのかは分からない。

明らかに服装がちょっと乱れてる怖い人タイプ。

服装が乱れている人はアウトローに近い人なのだそうだ。

ひょっとして私と近いのだろうか、と思ったがそんな訳はなかった。

この人は。

向こう側の人だ。普通の人たちが住んでいる国の人。


「まあ、お前には言ってもわかんないだろうからさあ。代わりにあれやれや」

指を指した先には鳥かご。

このクラスではなぜか小鳥を飼ってる。

どういう情操教育なのか分からない。

「生物部が廃止になったときにうちの担任が顧問だったんだよ。それで押しつけられたんだ。というわけでお前、あれやれ」

この人がなんの担当か分からないけど、それをやる係だったのだ。

「やったらまあ、なかったことにしてやる」

にやりとする彼女。


この前はこの人に掃除をさせられた。

「うちら用事があるんだけど、お前替わってくんない?」


帰るとクラス委員長の人にも言われる。

「あなた、1人で掃除をしたって本当?」

「……」

「そういうの止めて欲しいのよ。みんなで協力してやってるんだから、勝手に引き受けないで欲しいの。分かってくれてる?」

「……」

どうしてそれを私に言うの?

こういうことはそれを引き受けた側がクレームを言われるルールなんです。

「今度から気をつけてね」

一方的に注意して彼女は戻り、そして仲間のところに戻っていった。

お仲間さんとは話の内容が飛んでてても平気。私とはできない。


この学校は、はずれだ。リセット要素が蓄積されていく。

リセットを考え中、でもお母さんの方が大当たりなので考える。

でも、そう何度もぽんぽんと替わる訳にはいかない。目立ちすぎる。

してみると詩緒との決裂は私にはかなり痛かったと今さらながら気づく。

しかしあの話はあれはあれで必然だった。


これらの話の教訓は、この世界には幸福な人間にしか居場所がないということなのだ。

どこでもそう。


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夕方。

私は生物準備室と言うところに小鳥のえさを取りに行く。

頭の中で計算。えさ。みず。ちょっとだけ拭き掃除。20分。

私は準備室の戸棚のえさを見つけて首尾良く反転。

いま、現在の気持ち悪さはほどほど。

だいじょうぶ、なんとかコントロールできている。

夕方の廊下はほぼ人がいない。それでも時折、視界の外を何か? 誰かが通り過ぎていくのが分かる。

窓の彼方からだんだん黄色くなっていく太陽が見つめてくる。


光が私を刺すよ。


この水族館の中にはいま、私しかいない。

通り過ぎる君はただの映像。

他人が私の世界に入ってこない不思議。

温度も違えば湿度もちがう。そもそも私の時間が違う。

ずっと永遠に優しい陽だまりの中を1人で歩いてく。


他の人にはとてもあったかい世界なのだと私は知っている。

幸福な影絵たちは幸せな過去だけを集めたおもちゃ箱の中。

手を伸ばしても届かないだけの絶望。

おとぎ話は読者に手を差し伸べない。

このお陽さまが私を暖めることはない。


今日はだいじょうぶだ。


今日は元気になる曲を聴いて吐き気がするようなイベントは起こらない。

またひとり、お魚が視界を過ぎてゆく。

でももちろん忘れてはいけないのは、それは本当は影絵でもお魚でもないので、中には光まき散らして私をつっつきに来るのがいる。気づかなかった。本じゃなかった。忘れてた。これは現実だ。


設定23


その魚は私のそでをついと引っ張った。

「そこのあなた。ちょっと服がおかしい」


「ネクタイよ。あなた、ネクタイ結ぶ文化圏のひと? それは結び目じゃないわ」

そう、この制服にはネクタイがつく。

この人は。


頭の中に警戒信号。この人はあの登校時に目が合った人だ。

いたずら好きそうな瞳(め)。


自信満々でこっちに手を伸ばしてくる。

「どれ、待ちなさい。私がいま直してあげるから、どれ」

人のネクタイを直すのがどんだけ嬉しいのか、いたずら大好き笑顔で手を伸ばしてくる。怖ろしいことに舌なめずりまでしてる! ここはもう水族館でも映画館でもなかった。逃げる。パニックに陥った私は逃げ出した。


「あ、ちょっと待ちなさい。まだ直してないんだってば」

廊下の角を曲がった所まで逃げるとどうやらあきらめたらしく、追いかけては来なかった。

幸い小鳥えさはすでに手に入れたあとである。

さっさと終わらせてしまおう。


設定24


でもあの子は確か、同じクラスだ。なんてことだ。ホームルームの時には気づかなかったのに、印象がまるで違う。

戻ってこないとも限らない。急いでやらないと。

私は自分をせかして鳥かごに向かう。


この小鳥は生まれてしばらくして親から引き離された。

ひとりで鳥かごの中だけで生きてきた。

この子は、檻の内側から見る世界しか知らない。

誰かとさえずりあったことはない。


えさ箱を洗ってきた。水を取り替えた。新しい交換用の鳥かごにこの子を移す。早くやらないと。

さ、はやく移すさないと。良い子だから暴れないで。怖がらないで。


ちいさな生き物。

それはあったかいな。

それは私がむりやり捕まえたんだけど、この刹那、私のガラスを壊して中身に触れたのは世界の中でこの子だけだ。

この子はわたしとおなじだ。

あったかいな。生きてるものはあったかい。

もちろんただの感想よ。

だからどうということはないし。


ざりっ。

(*+*+*+*+*+*+)


気がついたら。

私は小鳥を手の中で握りつぶしてた。


なんで?


悲鳴もなく落命する小鳥の子。

わたし……、別に、なにをしようとも思わなかったのに……。


どうして。

どうしよう。

どうする?


「あや? これは大変ね」

見られた。ネクタイの生徒。追いかけて来た。


設定25


当然だと言える。同じクラスなのだから。でもみんな下校してる時間なのだ。

私は慌てた。

小鳥を握りしめてるまさのその瞬間を見られた。どうすればいい。どうやって誤魔化す。しかし。

解決策はにこやかな笑顔で歩いてきた。

「大丈夫よ。黙っててあげる」

口に人差し指をあててしーっのジェスチャー。


「逃げられてしまったというのがベストプランよ。

もちろんあなたが逃がしたということになって、そのことについてはあなたが責められるわけだけど。

本当に隠したいのは死なせたことなのよね。

もちろん明日、クラスの皆に死体をみせて死んでしまったと認識してもらうのもいいけど。もちろんその、ちゃったということは抜きにしてね。

でもそれでもあなたのせいだって、言うひとも出てくると思うの。

死んだというだけであなたの責任を言ってくるひともいると思うの。

でも逃げられてしまったなら、どこかで生きているわけだから、風当たりも弱いと思うのよね。遺体が見つからなければ誰にも証明できないからね。

で、小鳥さんの遺体なんだけど、今日のうちに花壇にでも埋めてしまいましょ。

私も手伝うから。ね!」


こうして小鳥の子は裏庭の花壇に埋められた。

夕暮れの日は落ちて夜になる。


彼女は日暮れ後の世界で自己紹介する。

「こんにちは。私たち、話すの初めてだよね」


「私の名前は【*+うまく記憶できない*+】といいます」


今のは何だろう。もうどうでもいいや。

「でも本当はルゥリィと呼んでます。呼ばれてます。だからあなたもそう呼んでね。私の本当の名前をそう呼んでね」


自分の名前を別につけてる呼ばせてる、それは変なこ。

でも、私はひやかしたりしなかった。とにかく逃げ出すことしか考えてないから。

今はまだ。


設定26


もちろん逃げられなかった。ルゥリィは途中まで一緒に返ろうと提案してきたのである。

「折角だから駅まで一緒に行きましょう。

それも嫌だったらちょっと口が軽くなってしまいそう。

うそうそ、冗談よ。そんなことしないわ。だってあなた可哀相だもん」


なんて言うものだから。

いつも他の人の輪に入れてもらいたいと思いつつ、実際にその場面に出くわすと逃げることしか考えられない私。

あこがれの水族館の一員になれたとたん、恐怖でそこから逃げることしか考えられなくなる。魚にとっては水族館は恐怖だ。当たり前だ。そこは魚の住む場所じゃない。他人と関わることで良いことなんておこらない。他人と関わっても辛いだけで。ほっといてもどうせみんな私のことを憎むようになる。

それは、最初は嬉しいよ。

私を受け入れてもらえたって思えるから。

でも、詩緒と同じように必ず最後は私のことを嫌いになるのだ。

リセットする理由がまた増えたな。

そう思った。


死にたいといつも願ってる。

でも死が間近まで来ると、いつも逃げる。

そうこうしているうちにだいぶ疲れてきて、反射だけで行動するようになる。

もちろん私という人間はとうの昔に壊れているから。

何をやろうと無駄だし逆効果だし傷跡が拡がっていくだけだけだし。

ただ生きてることはますます憎しみと不安の的になるだけ。

明日、どうか朝が来ませんように。でも朝は来る。


2人で歩く夜の道。


「あなたってあんまり喋らないのね」

「……」

「でもそれってすごい良いことだと思う。くだらない話題を振られたりすると死にたくなるもの。それくらいだったら黙っている方が優雅でいいと思わない?」

「……」

「あの小鳥って凶暴だったのかしら。ずっとストレスが溜まっていて、最初に見たものに襲いかかってくるということはありえることよね。インプリンティングかしら」

「……」

「私、前に死にかけたことあるのよ。しょっちゅうあるかも。でも」

「……」

「そのたんびにきっと理由があるんだって思うわ。私だけがいつも生き残るのは、意味があるから。きっと、これでいいのだわ。思い込みかしら」

「……」

「きっと思い込みだけど。好きになる人って似てる人たちだと思うわ」


次から次へとルゥリィの話は続いていく。

こっちが聞いてるかどうかなんてお構いなし。

このひとはなぜ、私につきまとうのだろう。


普通、あんな場面を見たら。

だんだん疑問が増えてくる。


「そうだ。はいこれ。あなた落としたでしょ」

それはあの紫色のリボンだ。ジーナスのリボン。

「……あ」

私はありがとうも言わずにそれを回収してしまう。


「あのね。あなたがとっても傷ついてるひとだって、私には分かるのよ。

私もそうだから。

見えないかしら。でもね、人って自分と同じ存在には共感できると思うの。優しくできるとおもうの。だからいいのよ。かまわないのよ喋らなくても。嫌だったらちょっと考えてやり方を変えるから」


「……あ、あの」

「何かしら」

「……」

話そうとしてのっけから言葉に詰まる。

ひょっとしたら、という思いが私を焦らせる。

死にたいのに死から逃げるのは、ひょっとしたらある日とつぜん、人生が上向くかもしれないから。これまで流した涙が無駄になるから。ひょっとしたら突然誰かに愛されるかもしれないから。だからいつもうまくあきらめられない。

だから。心の中でどうしても何かをあきらめようとしない私がいて、それが――なにやら悲鳴を上げて、この人を大切にしろ、というのでなんとか話そうとして失敗するのだ。

「……え、えと、その」

焦る。

「生糸」

ルゥリィがくるりとよその方向を振りむいて、それから、私の前へ出た。なので足が止まった。

少し違和感がする。何だろう?


「じゃあね。私はこっちへ行くから」

ルゥリィとはそれで別れた。

駅前に降りてゆく前の最後の分かれ道。郵便ポストがある。

明らかに人通りの少ない山の方の道をいくルゥリィ。

そうか。家はそっちの方なのか。人通りが少ないと言っても家がないわけではない。丘の下よりは明らかに少ないけど灯りがある。

向こうの道には頭の辺りに小さな灯りをともす男性らしいシルエットが通り過ぎていくだけだ。どうもシガレットらしい。

「じゃあ、また明日ね」

また明日。


ルゥリィはあの人とどこまで違うだろうか?


家に帰るとお母さんが今度はキエフ風カツレツに挑戦していた。失敗してた。


設定27


チーズ抜けカツレツの翌日は焼き魚と卵焼き。

この家の子はリコと呼ばれてたらしい。

なのでお母さんも私のことをリコと呼ぶ。

「リコはもう生もの平気なのよね。じゃあ刺身とかもありなのか」

悩むお母さんだけど、う、朝に鮮魚だすのはさすがに。

「いや? うーん、そうねえ」

悩むお母さん、悩んだままお弁当に適当におかずを詰めてくれる。

さすがに生魚は詰めない。良かった。

この携帯食料を持たせてくれるというのがすごい、いい!

私はよそから来たものなので、こういうのがすごく嬉しく感じる。

このお母さん、大好きだ!


じゃあ、今日も行ってきます。


このお母さんというと、他のお母さんと区別がつかなくなるので。

今後は便宜上、リコのママなのでリコママと呼んでおくことにする。


登校するとルゥリィの席は誰もいなかった。


今日の有村さん。

「【++;*::】~、宿題みせて~」

つっこみ役は【++;*::】さんというらしい。

ん?

「また? なんでやってこないのね」

「それは前世の呪いのせいで」

「ん?」

「前世に宿敵がいるのよ。宿敵と書いてトモと読む。夢の中でそいつが宿題は見せてもらえと。その程度のこともできないのか。だから私には勝てぬとバカにされたので、それくらいはできると言い返してやった」

確信犯です。

「なにその微妙な設定の中2病。それとこれとどういう関係があるのね? そもそも夢に見てるってことはその段階ですでにやっとらんということじゃないの」

「中2だったら中2病があたりまえ。むしろ中2病にあらずんば中2にあらず、いや人にあらずですよ」

「君は高1だよね」

有村さんはその後も積極的に中2病を擁護する発言をくりかえし、きびしい指摘を受けていました。


今日はさらに追加のお話がある。


宿題のことはとりあえず後で考えるとした有村さん。落ち着くのもまたずに私の席の前にいる男子の【*+*;*】君に話しかける。

私と有村さんの目が一瞬だけ合ったけど、すぐ外れた。

「ところで【*+*;*】っち。あんたの正体はもうみんなにバレちゃってるからね」

有村さん、自信満々。

「なんだ? 俺の正体ってなんだよそれ」

言い返す彼。

「お前、OTだろ」

「オーティー? なんじゃそりゃ」

「オタークのこと」

一瞬だけちょっと間が空いた。

「いや、俺がオタークなのはともかくとして、そのオーティーというのはなんだ?」

不当さに抗議する以前にちょっと真剣な疑問に駆られる彼。

「オタークを縮めてOTと読む」

有村さん解説。

「なんでやねん。普通に言えや」

「それじゃ東京都おおた区と区別つかなくなっちゃう」

「そんなわけあるかあああっ」

言い忘れたが有村さんは外見だけなら、かなりの美人さんなんだけど。

いまいち容姿と言動にズレがあるので。

有村さん、言動がちゃんとしてたらモテるかもしれないのに。残念美人だ。

「個人的にこれからはオタクのことをカマタと呼びたい」

「訳がわからんっ」

「分かった分かった、じゃあOTとはオタークトルーパーということで」

「同じだっ。というか悪化しとる!」


ここでHR(ホームルーム)。朝の混乱はおしまい。

この時間にちょっとお話をしてから授業が始まるのだ。


と、小鳥のことを言わないといけない。

ルゥリィの席を見たが、やっぱり来ていない。

まずい。どうしよう。

しかし決断は後に伸ばされることになる。

「楠本さん。ちょっときて」

私はある人に呼び出された。

それは以前に私をしかりつけた先生だ。


また怒られるのかなと思ったが、もっと悪い事態に。

警察官がいた。

落ち着け。この世界の警察は、まだ私たちを追いかけ回したりはしないはず。

でも連中が来ていたら?

静かに戦慄する私を、おそらく上級の刑事さんは親切に訪ねてくれた。

ここにはまだ敵はいなかった。

だけど、何かが迫ってくる。

「昨日、お嬢ちゃんと一緒に帰ったっていうのを見たやつがいるんだが、どうだい。この子なんだけど」

写真を見せる刑事さん。それはルゥリィだ。

最悪、小鳥のことはバレてもしょうがない。

「……あの、ちょっと作業を手伝ってもらったので、その後、途中まで」

「ふん、どこら辺まで?」

あの辺りは。目印になるものは。

私は大体の位置を告げた。駅前に降りてゆく前の最後の曲がり道で郵便ポスト。

「うーん、そうか。それって他に知ってる人はいるかな?」

いなかった。どう考えても。

「ちなみに彼女の家を知ってる?」

知らない。昨日はじめて話したばかり。まだ新学期だ。

「彼女、何か言ってなかったかい。もしくは不安そうな感じだったとか。相談とかされてない? 彼女の親しい人物って他に知ってる?」

すべてネガティブ。

「そうか。済まないな。もういいよ」

あれ? 小鳥の件は?

私が疑われている訳ではないらしい。ということは。

とにかくそれで終わりだった。


小鳥の件。どうしよう。自分ひとりだと言えない。


もちろん言わないと気づかれるわけで。

もう逃げようか。

「あれ、小鳥が消えてる」

誰かがついに気づいた。

「ごめんなさい、それ、私が逃がしちゃったのよ」

私が、あれ、誰かが。罪を。

クラス委員の子だった。

「昨日、楠本さんと小鳥の世話をやってたんだけど、扉を開けっ放しにしちゃって。先生に謝っとくわ」

なぜこの人が助けてくれるのだろう。


「ちょっと来て」

今度はクラス委員の彼女に昼休みに呼び出された。

「今日は怒らないわ。一緒にお昼を食べない?」

とんでもない申し出であられます、周囲、ちょっとざわつく。

私みたいなのと話すとクラス内の地位が危うくなりませんか?

でも雑音すべて無視。

「話があるのよ。例のことで。2人きりで」

知ったこっちゃないという、有無を言わせない迫力です。


私はお弁当箱もってついてく。ちゃんと食べられるかな。

ところで私は助けてくれてありがとう、と言うべき言葉が声にでない。

どうにも、この人が怖かったのだ。私は誰だって怖い。

「……あの、その、あの」だめだ、まさに話にならない。

ほら、感謝の言葉を言わないと。

言えないと敵と見なされる。いつもそうだ。そうだった。

「そういえば、あの子、死んだみたいね。ほら、昨日一緒に帰ったっていう」

ささやくクラス委員の子。

ルゥリィを思い出す。

そうだ。警察が来ていたのはルゥリィに。

死んだ? 死んだって? それはつまり。誰が? もしかして。

何で? 答え:ギーメだから。

血の気が引いた。


覚えがあるのだ。そういうことをする連中。

不安が私の肌に張り付くも、しかしその場で戦慄する余裕はない。なぜなら。

「でも、大丈夫よ」

彼女が言ったから。パッと振り返るクラス委員の子。もうイメージが違う。

「私は無事だから!」

おや?


ぃぃぃぅぃぃんん。

それはシリンジの調べだ。


ルゥリィ。これはルゥリィだ。

いま私の目の前にいる。


設定28


つまり私はそういう生き物なのよ。

こころだけで生きている生き物。

他人の体をハイジャックして生きていく生き物。

相手の記憶は基本すべて手に入るから矛盾は発生しない。上手くやればね。

その人そっくりに生きていけるから、何かをやらない限り私だと気づかせることはない。

でもやらずにはいられないんだけどね。

なぜって私が私であることの証明が必要だと思うから。

ふと考えてしまうことは、本当は私が実在しないかもしれない、ひょっとしたらこれは複数の人間が『私たちは実はひとり』と思い込んでるだけ。

そう考えるとたまらなく怖くなる。

だからやっぱり証拠を残しちゃうのよね。

私が私であることの証明。

この世界にルゥリィ・エンスリンが生きていることの証明。


昨日のもルゥリィ・エンスリンをはっきりと狙って実行された暗殺だと思うのよね。前にもそういうことあったから。

理由も理解できるもの。

この生き物であることの最悪のデメリットは、肉体が3ヶ月くらいで消耗されてしまうこと。体を使い捨てにせざるを得ないこと。

だからかつてルゥリィ・エンスリンであったものは、ことごとく死んでいることになる。私が殺したということになる。

だからこれはつまり復讐とか処刑とかいうことなんでしょう。

でもみんな私なんだけどね。

死んでいるわけじゃないんだけど。

でも敵がそういう風に思うことはまあいいわ。別に否定しない。

かかってくるがいいわ。ことごとく返り討ちにするだけ。

(聞こえた?)

「聞こえた?」私。


設定29


(聞こえたよ)

「聞こえたよ」ルゥリィ。


この物語では( )内はシリンジされた内容を表しています。

え、それ以外の場所でも使われているですって?

気のせいでしょう。私は認知していませんよ。

シリンジは送信だけで受信の機能はまったくないテレパシー。

それは相手の存在や記憶を書き換える力だから、ここで想った言葉は、ルゥリィが私に贈る言葉ではなく、私が考えた言葉ということになる。

ギーメならまだしもノンギーメには訳が分からないだろう。

気がついたら替わっているから。最初からそうだと自然に考える。

一方で、私たちギーメはセキュリティ上の理由で、複数の記憶がある。それがあるから書き換えをかろうじて認知できる。

しかし想像していただけるだろうか。それは気がついたら体に切り傷の文字があってそれで意味を伝えるという会話方式。そんな感じ。

できなくはないが、危険だし、何より礼儀にもとる。

シリンジで他者を殺すことができるのだ。というより本来その為のものだ。


それで、彼女が言うところによる、彼女の体をハイジャックしているという意味だが。


「正確には私みたいに人から人へ乗り移るのは、ギメロットとか呼ばれてるわ。もしくは単に悪霊、ポゼスト、天使、幸いのない天使、アンシーリー・コート、悪魔を憐れむ言葉、偽ギーメ、堕落ギーメ」

今度はちゃんと口で喋ってくれる。


ギメロット。

ギメロットはギーメよりさらにまがまがしい存在とされる。

シリンジの力により、相手に自分をフルコピーさせてしまうことができる。

そうやって肉体を乗り移り始めたギーメのことを指すのだが、いちどこのようなことをやると移り変わる肉体はなぜか拒絶反応のような症状を出して死んでしまう。

たしか、妖精病と言われるのはこっちだったかな。

だから常に移り続けなければならない。新しい人体を入手してそれに切り替え続けなければならない。そうすると、どれだけの人命が消耗されるか。


「気にすることはないじゃない。人間は動物なんだから」


クラス委員の子はどうなったのだろう? 

ルゥリィがいまここにいるということは。

上書きされた。つまり。


「人間だって他の動物を資源にしているでしょ」

そういうことだ。


私はそれを気にしない。ギーメが生きていく世界ではこういうことは当たり前のことだ。気にしてはいけない。決して気にしてはいけない。したらおかしくなる。意識しないように自分を方向付ける。ここで誰かを思い出してはいけない。


「言っておくけど昨日の私は人間に殺されたのよ」

弁明するルゥリィ。

その通り。

人間だって一方的にやられている訳じゃない。

そう考える人たちがいて、彼らは武器を持ち、ギーメやギメロットを殺そうとする。

ギーメを刈るための組織。そう、軍隊だ。

昨日の彼女を殺したのもおそらくは。

私がいつも脅えているのはそのせい。

いつも彼らを恐れなくてはならない。

なぜ、シリンジという武器を持つのに脅えなくてはならないかって?

それは。


「気にしすぎよ」

ルゥリィはこともなげに言う。

「私たちには力がある。なぜ振るってはいけないの?」

「……だって」


この人は危険だ。危険な場所であまりにも無分別な行動をしている。

歩く災厄。

この人から距離を取らないと。

私にまで危険が及ぶだろう。


設定30


屋上。

青空が私たち2人を閉じ込めてる。

まるでこの世界に私たち2人だけになっちゃったみたいだね。

ん?


今のシリンジだ。かっこが落ちた。全ディフェンス貫通。

まずい、同化されるっ。死ぬっ。

( )は防御が効いていることも表現しているのです。

それにしても桁違いのシリンジ圧だ。


「聞こえてる?」

「……聞こえてるからそれを使うのを止めて下さい」

私はこの人に殺されるかもしれない。いや、私がこの人になるのだ。

「ふふ」

ルゥリィ、向こうを向く。

「かつてイカロスはカラスに尋ねた。なぜ翼があるのに天を目指さないのか?」

こっちに向きなおる。

「答えはこうだった。そりゃ行こうとおもえば行けるけど、でも疲れるじゃないですか。遠いし。ダルいし」

あ。人差し指を口にあてた。

「生糸ちゃんの答えはこうだった。だって恥ずかしいし」

「……は、恥ずかしいとかそういう問題じゃありません!」

「でも死んだ鳥の死骸とか見つかっちゃうとやっぱ恥ずかしいし」

「……あぐっ、あうっ」

「うそうそ。喋ったりなんかしないわ。可愛そうだもの、あなたが。それにほらっ」

それに?


「緑色の雨が降る~」彼女。いきなり歌を歌い始めたよ!

「音のしない星で~」私。強制的。

「手が届かなかった~だいだい色の未来~」彼女。

「私の死んだ朝も~誰かは幸せだったの~」シリンジで対になるよう私にむりやり歌わせているのだ。手で口をふさごうとしてもうまくいかない。

余計なことしないで。全ディフェンス貫通。


「……や、やめてくださいっ」

「私たち、きっと姉妹みたいになれるわ。そう予感がするの」

「……だったら私を殺さないでっ」

「私の方を生糸で上書きしてもいいのよ」


いやでもそれは。いやです。

「……ギメロットにとって肉体は、その」

「3ヶ月で使い捨てる消耗品よ。その通り」

ルゥリィは私を彼女にできる精一杯のやさしい瞳で見つめてくる。近づいてくる。

「でも想像してみるわ。あなたが私の肉体になって刹那の間、あなたと共に生きていくの。もしあなたが望むなら、あなたを永遠と想って生きるわ。それでもだめ?」

それでも私は。

「……だめです」

「私を殺してもいいのよ。私たち、ずっとそうやって生きてきたのよ」

「……いやです」

「そう、残念」


「後でこのチャンスを逃したことを後悔するかもね」

遠ざかるルゥリィ。


余談だが、普通のギーメたちはギメロットに対して激しい敵意を抱いているという。

私が聞いた話だと、自分たちのタブーを踏み越えたギメロットを妬んでいるから。

「そういえばギーメはギメロットのことが憎いのよね。それかしら。あなたも私のことをただ抹殺したいほど憎いの?」

指を口にあてて疑問。


「……いえ、まったく」

私はなんというか野良ネコじゃない、野良ギーメなのでギメロットを殺さなければならないという強迫観念とは無縁だ。周りの誰かのために何かをする必要はない。その代わりに自分の身も自分で守らないといけないけど。

そのことを彼女に説明する。

「……その、あの、オレはギメロットのことを嫌いだとか、殺さなきゃいけないとかそんな風にはおもってないの」

だから私は。

あれ、なんか変だ。相手の瞳がかがやいている???

「あら、あなた1人称がなぜか可愛いじゃない!」

「……いや、そ、それ関係ない」

てれる私嫌がる。

「ね、ね、もう1回言って。プリーズ!」

「……と、とにかく、ルゥリィがギメロットでもオレには関係ないの」

「もう1かい」

だんだん近づいてくるルゥリィ。

「……とにかく1人で生きてるから。だから関係ない。そんなことよりっ」

「もう1かい!」

体当たりしに来るルゥリィ。ぶ、ぶつかる!

「……わかって!」

これはもう、お弁当箱を相手の頭にたたきつけるしかない。ガスガスッ。

ちなみに中身のつまったお弁当箱である。

お弁当箱を顔にたたきつけるとさすがに退散した。

「わ、わかった、わかったから」

お弁当箱を武器にする戦士それは私。

なぜかしゃべり言葉の1人称はこうなっています。ごめんなさい。


設定31


痛かったらしく顔を手で押さえるルゥリィ。

「あたた」

「……ご、ごめんなさいっ」

でもお喋りには影響はない。

「つまり私たち仲良くできると思うの。別にシリンジが嫌なら、それは我慢することにしてもいいわ。とりあえず私たち2人に関することならね」

喋ること優先。

「でもシリンジを他の人にも使わないなんてのは論外よ」

「……どうして?」

「シリンジをしないとギーメやギメロットは生きていけないもの」

確かに。

私たちは何もしなくても、周囲にシリンジをばらまいているらしい。

無意識のうちに発動することがあるのだ。決して出力は大きくないとはいえ。

だから私たちのそばにノンギーメがいるのは、もうそれだけで。


私がリコのお母さんに罪悪感を抱く理由。

私は彼女を少しづつ殺してる訳で。


「私たちが身を隠すのではなく、彼らが私たちを恐れるべきだもの」

強気のルゥリィ。私には危ういと見える。

「……でも、それは」

この人が危険なことをすれば私まで巻き添えを食うことになる。

なぜなら、彼らはそんな甘い相手ではないからだ。私は知ってる。

だが説明がうまくできない。私と他の誰かの間には、いつも深い断崖があって、その向こうに言葉を届けることはいつもひどく難しい。

「大丈夫よ。実は対策もちゃんとあるもの。見てて」

彼女のかがやく瞳が小鹿みたいに見えるのは気のせいに違いない。

振り返り、

「さあ、どれにし・よ・う・か・な?」

屋上から眼下を見渡すルゥリィ。

「君に決めた」

適当に選んだらしいルゥリィの指さす先には。


楠本さ、あとお願いできるかなー。

私の頭の中にちょっと不良っぽい彼女の脅迫がリフレイン。


彼女か。うらみがないというわけではないが。

しかし一体なにをやるつもりだ。やる内容によっては止める必要も。

目立つようなことはとにかく止めさせないと。

「大丈夫よ。ちょっと保健室送りにするだけよ」

「……保健室?」

「全治3日くらいよ」


シリンジ起動。ぃぃぃぃぃぃぃぃいいいいいいいんんん。

何か、光るものがみえる。何?


その時の泊シスカは、はなはな不機嫌だった。

そもそも私はあっちには組してないのだ。まったく別の要件でここに来てるのに協力しろとか言われる義理はない。

それにそもそもあいつは、こっちをいらいらさせる。

常に他人のご機嫌取りをするような雰囲気。もう感情的に受け付けられない。そういうのが大嫌いだ。とはいえ限度があるけど。んなことは分かってる。

問題を起こしませんようにってか。冗談じゃねえ。

しかしどうしたもんかなどと考えていると。

なぜか強い”光”を感じた。

左手に違和感を覚えたのはその時のこと。

「げ、なんだこれ!」

鮮血が路面にぽたぽたと滴を落としている。

それは左手の甲の十字型の傷に由来している。

血が滲み出てるというレベルを超えて溢れてきている。ギャアアアナニコレ。

「やばやばやば! 保健室!」

慌てて駆けるのだった。


眼下の光景を見ながらうそぶくルゥリィ。

「聖痕現象って知ってる? 辺境のキリスト教徒なんかに多いそうなんだけど、人類は思い込みの強さによって自らの体を傷つけることができるの。もともとそういう能力を人は持っているのよね。だからね」

だからねって冷たく笑う。

「だからちょっと気持ちを押してあげれば、傷つけることできる。もっと即死に近いダメージも一瞬で与えることができる。どう? これなら敵に怯える必要はないでしょ。ちなみにこれは私にしかできないシリンジなのよね」

私は彼女を怯えた目つきで睨みつけるしかなかった。

「身に降りかかる火の粉は振り払うまで、よ」

彼女には交戦を避けるつもりがまったくない。

信じても大丈夫なのだろうか。

混乱してくる私。


「……じゃあ、そういうことで、その」

「ん?」ルゥリィ顔色。

「……帰る」

「え」

私は逃げた。

私は他の人といると落ち着かないのだ。なぜ?

それは誰でも私を憎むから。

「あの、あれー? ちょっとお」

なお、後に残されたルゥリィが呆然としたというか、怒ったという説があるが、確認はされていない。私はいつも逃げるのには自信がある。

迷った時はいつも逃げればいいよ。

どうせ悪いことはいつも替わることなく私に襲い掛かってくるのだから。


お母さん、リコママが用意してくれたお弁当を戻ってリカ実験室でこっそり大急ぎで食べる。

いつもクラス内では食べないようにしている。昼タイムが終わっているから空いているし。

そういえば生もの解禁がどうとか言っていたお母さん。

いやいや、まさか携帯食糧に鮮度のあるものは入れるはずがない。

蓋を開ける私。

ああ生卵。生卵ったらなまたまご。

ぐちゃぐちゃになった卵、保冷バッグにねっとりべったりした生卵を見つけて、いや生卵が潰れたのはお弁当箱武器化の副作用だけど、どんな気持ちになったかはコメントしないでおく。


食事を終えて教室に戻ると。

「ばかやろう。油で炒めた米が栄養源として最適に決まってる」

前の席の【*+*;*】くんと有村さんが話している。会話のほとんど聞き損ねた。

なに話してたんだろう。

「あんま周りに話しかけない方がいいのにね」

有村さんのいつもの相方の【++;*::】さんがなんと私に話しかけてきた。私にだよ。

目が合う。

えと、答えを待ってる。パニック。

「……えと、あの、ごめんなさい」

「ううん。別に気にしないで」

良かった。許してもらえた。

私は自分の席に戻る。


あの後は、もう再びルゥリィと話すこともなく家に帰る。


今日のお母さんの料理はあじのお刺身に厚揚げの焼いたの。

「うう。急に生ものOK(おけ)と言ってもピンと来ないなあ。でもこういうのは別に怒られなかったよね。これまでも」

いつもありがとう。お母さん。いただきます。

「ねえ、あの時のメロンジュースってリコはまだ覚えてる?」

覚えてないよ。

「……うん、覚えてるよ。美味しかった」

「やっぱ空腹は最良の調味料かああ。ええと、いまday400くらいだからあれは、えーっと」

お母さんはいま、架空の記憶ではなく実際の記憶を参照している。

本物のリコの記憶を思い出している。もちろんこの現実とは矛盾する。矛盾が発覚したら即介入しないと。私はシリンジの牙を砥ぐ。

「うーんと。よく思い出せないわねえ。まさか歳かしら?」

外れた。ほっと胸をなでおろした。余計な負荷はないに越したことはない。

「あんなに忙しかったのにねえ。まあ、いいことだ。これは」


夜。お布団いっしょ。今夜だけ。お母さんの強いお願いだ。

お母さんが髪の毛をいじってくるので眠れない。髪がきれいだとかなんとか。

「リコ、良かったね」

「……うん」

「リコ、うまく答えられなくてごめんね」

「……ん?」

「前に一生この箱の中で生きていくって泣き出したこと有ったでしょ。そんとき、お母さん逃げたんだ」

これもリコとお母さんの思い出だ。私に入る隙間はない。

「……ううん、気にしてないよう。もう忘れちゃった」

「でもね、今なら言えるよ。ごめんね」

そういって、お母さんは言葉に力を込めた。

「青い空はあるよ。ひょっとしたらもう外には出られないかもしれないけど。一生ここにいるのかも知れないけど、それでも青い空はあるよ。誰も見るひとがいなくても青い空はあるよ。それは誰にも変えられないの」

これはもちろんリコに言っている言葉なのだ。

でも私は涙を流してる。

「でもね。あなたはその青空を見れるのよ」

おやすみなさい。お母さん。


翌日、寝不足ぎみのぼんやり頭で新しいお弁当をもらう。よく眠れなかった。

「行ってらっしゃいっ。今日も自分らしくね!」

お母さんの余計な一言。この私に自分らしくなど。引きこもるだけ。これまたリコと私の違い。でもそんなに気にならなかった。「……行ってきます」


これで最後になるとは思わなかったので、このとき、2人とも互いの顔をよく見ないまま別れてしまった。


タバコを口にくわえた男がようやく戻ってきた。

「もう出してくれるのかい?」

命令違反で懲罰房に入れておいたのだが、さすがに明日をひかえてこの男を使わない訳にはいかない。

「現時刻をもってお前の懲罰刑を解除する。貴様には金が掛かっている。無駄にするわけにはいかん。役に立ってもらう」

「まだ微妙に完成してないぜ。あれは」

「いったい何時になったら完成するんだ、あれは。狙撃はもうできるのだろう?」

「司令官の解除キー待ちだ」

指揮官はかぶりをふった。

「明日、作戦に参加してもらう。そこでの功績によっては昨日のことは不問に付す」

「まあ、おれはこんなんだから偉そうなことは言わんが、ひとつ質問させてくれ。いつから敵を殺すのがルール違反になったんだ」

哀れなやつだとおもった。だが人のことは言えない。クローン同位体はみんなこうだ。

ここにいる自分がいつも消耗品だと知っている。

しかし、この男に比べれば、自分はまだマシだとも心の底で想っている。自覚している。

「まあ、そんな嘆くなよ」

タバコの男は我関せずとばかりにタバコの明かりをつける。

「ここは禁煙にしている」

「いや、これはニコチンじゃねえよ。まあ慣れてしまえば楽なもんさ。お前も受け入れちまえ。我ながら悲惨な人生とは想うが、これはこれで楽しくもある」

タバコからはかつての救済への希望は完全に消滅したようだ。俺は違う。

「人生とは楽しいものだったんだな。人を殺すのも悪くない」

タバコの声はすごく安らかだ。

「さりとて死ぬのも悪くない」


その日のはじまり、私は少し浮かれてた。

私が学校に来るまでの少しの間は、珍しく世界が輝いて見えた。嘘じゃない。

春は早くもすばらしい季節を約束してくれている。天気予報よし。

ただし午前中のみ。午後から天気は崩れまた冬並みの厳しさに戻るとのこと。

そんな怖ろしい未来予測を欠片も感じさせないひだまり。

というわけで私が学校に向かう間は、少しだけ気持ちが上向いていたので。私らしくもないことだけど悲観的な現実には目を背けてしまったのです。

しかし、思い出してみると、どうもその時すでに様子がおかしかったのである。

通学路を歩く途中でも、話し声が聞こえてこなかったし。

隣人同士が挨拶もしなかったし。

会話がなくて、みんなこっちを見ているみたいだったし。

でも私は違和感を無視したのです。


教室に到着すると、違和感は更に強くなっていく。


有村さんとその相方さんだけがいなかった。お休みかな。


クラスメイト達はお互いに会話もせずに、まれにくすくすと笑う声が聞こえるくらい。

みんなそろっているね。本を取り出したり、ペンを回したりしているけど、動きが何だかそろっているね。ような気がする。そこへ私を叱りつけたあの先生が来たのです。この人は担任でもなんでもないのに。というか担任が来ない。

代わりにクラス委員の子が近づいてくる。これはルゥリィだ。もちろん。

何のようなの? 手を振ってくる彼女に私は不機嫌な気持ち。

こっちを見るルゥリィは一言も言わず口に指を当てる、静かにのサイン、そのまま両手を指揮者のように振っただけ。さんはいっ。

前の席の彼が振り向く。

「考えがあるって言っただろ」彼。

噛み痕。

全クラスメイトが振り向く。

違和感の正体が分かる。


設定32


「上書きしちゃったよー。楠本さん」

お隣の女子が宣言した。

「つまりだな。全員に自分を送信したんだ。そうすると全員の自我が『私』に置き換わる。ある日突然に気がつくわけだ。俺たちは『私』なんだってな」

前席の彼が説明する。

「でも私たち、消えていなくなった訳じゃないのよ。ただひとつの魂の違う人格になったという状態かしら。死んでいるわけじゃないの。生まれ変わっただけ」

私を叱った先生が説明する。

みんな私1人に向かって話しかけてくる。そうだ、ここには2人しかいないのだ。

言うまでもなく私はギメロットの生理については知っている。けれどそれは必要性の範囲内においてだ。

「……ルゥリィ、あなた、これを元に戻せるの」

私は試しに質問してみる。

「楠本さん。あなたは混ざり合った砂糖とお塩を元に戻せるの?」

私を叱った先生、解答。


「……そう」そうなんだ。

私は舞い上がった春の気分を、絶対零度の冬という現実にたたき落とされて、ひしゃげて潰れた。そうなんだ、私にはどこに行ってもこういうのがついて回るのでした。

ここからはどこにも行けないのでした。忘れていました。分かっていたはずなのにな。

私には暖かいぬくもりを感じる資格なんてないと知っていたはずなのにな。どこで勘違いしたかな。あっというま。

私は視線を下方に落として、自分の影を見つめてしまう。


鏡の中にあの子がいる、黒い影の女のコ。

喋らないのはずっと昔に確認した。

怖かったのはずっと昔に卒業した。

今日も確認しただけ。ごくろうさま。


影絵はいつも何も話してくれなかった。


***


ルゥリィ近づいてくる。みんな視線そっち。視線のスポットライト主役って感じ。

ルゥリィ怒る。

「私の話を最後まで聞かずに途中で帰るからよ」

ルゥリィ喜ぶ。

「きゃはっ、でもこれであなたを守れるわ。そもそもこれが人類のあるべき姿とさえ想うわ。同じ存在になれば憎しみあうこともないし、信じられないとかもないわ。我ながらなんて完璧なイデアなのかしら。みんな1人になるべきよ」

さりげなく危険思想。

「ねえ、あなたも私になるべきよ。お互いに1人になりましょう。そうすればもう不安に脅えることもなくなるわ」

「……ルゥリィ、あなた、寿命のことはどうするの?」

「寿命、何のこと?」

「……ギメロットの寿命のことよ」

この生き物のデメリットは肉体を3ヶ月程度で使い潰してしまうこと。

「ああ、そういうこと。心配ないわ」

ルゥリィ、窓の外に向けて手を伸ばす。

「見て。世界には素体はまだまだたくさんある。もっと仲間を増やせばいいっ」

だめだ、これ。


「……そんなんでみんなをギメロットにしてしまったの?」

「つか、ギメロットってこういうものなの。知らないあなたじゃないでしょう」

ぎくりとする。

「まだ記憶までを消した訳じゃないわ。自我を統合しただけ。やろうと思えばできるのよ。でもあなたが嫌がると思って。あなたのためにこうしたの。本当は上書き消去する方が楽なんだけど。普通はそうするんだけど」

ルゥリィ嬉しがる。

「あなた他人と仲良くするのに困難を感じているのよね。これで治せるわ。これなら誰とでも仲良くなれるわ。もう仲間はずれにされる不安を感じる必要もないの。さあ、あなたも私たちの環の中に」入ろう。

とルゥリィは言いたかった。でも最後まで口にできなかった。

「……いやだっ、余計なことしないでっ」

伸ばされたルゥリィの手を振り払う私。

このとき、ルゥリィの瞳の中で何かが砕けた。ような気がする。

そういうわずかな気配に私はいつも恐怖に駆られるのだ。

「……ち、ちがうの。オレ、そういうつもりじゃ」

じゃあどういうつもりだったんだよ。自分でも自分の言い訳に突っ込みを入れてしまう。

しかし彼女は怒らなかった。ただ、にこり。

「あのね。人というのは自分と同じ存在にしか共感や同情を抱かないの。姿形が違っていれば、どんなに残酷なシーンを見ても心が痛むことはないわ。そして姿形が同じなら、自分がそれをされるのと同じ苦痛を感じる」

なんとなくルゥリィが遠ざかっていくような気がする。私には。

「私、あなたのことが好きよ。まるで自分のことのように思える。どうしてかしら。あなたの苦しみは私の苦しみ。私の喜びはだからあなたの喜びでもある」

私たちは別にどこも似てはいない。

「あなたにも同じように感じて欲しいの」

ルゥリィは両手を組んで祈りのポーズ。

「きっと私たち、幸せになれるわ」


周りのルゥリィもどきたちが一斉に私をのぞき込んだ。

ぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃんんんんんんんんんんん。

シリンジの音が聞こえる。

彼女は実力行使する気だっ。全シリンジが私に集中ターゲットの感じ。

青ざめるのは私? それとも。


ともかくこのようにして日常は壊れたのである。

しょせん壊れやすいまがいものだったけど、他人から盗んだ自分のものじゃない偽物だけど、その程度の日常だったけど、それが今はっきり壊れた。

床に堕ちたミルクは元にはもうもどらない。

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