第8話



「さて、シノくん」


 殺し屋は再び、シノに向き直った。

 ユウの振りをしているのが一体誰なのか、それは俺には皆目わからなかった。知的な会話をしているところを見ると、アヤセとかいう怪力殺人女の人格ではなさそうだったし、そもそも、俺はこの殺し屋の中に存在しているユウとアヤセ以外の人格なんて全く知らない。とにかく、今表に出ているのが誰であれ、そいつはせっかく体の主導権を得たというのに、自由を楽しむことや独り占めすることを考えるのではなく、なぜかユウを演じているだけで何もしない。それがどこか不気味だった。

「なん……ですか?」

「君は、何かを信じたことはある?」

「は?」

「いや、言わなくてもいい。僕にはわかる。君が君の人生において、もっとも信じているものは何かってことがね。僕ごときの力では、シノくんが具体的に誰から雇われた何者かまではわからない。でも、君がが何なのかは推測できる」

「一体全体何を言っているんですか?」

 シノは困惑し、助けを求めるような目で俺を見た。俺は肩をすくめて、目をそらした。ユウの体でユウを演じている誰かは、唇に指を当てて、シノを観察するようにじっと見つめている。

「君が信じているのは……お金じゃないね。君はどこか、そういう俗っぽいものを軽蔑している節がある。金とか権力とか名誉とか、そんなものは心底くだらないって思ってる」

「ど……どうして急に僕の話になってるんですか?」

「いいだろ? 君にとっては友達の友達の話みたいなものなんだし、他愛もない雑談だと思って聞いていたらいいじゃないか。誰だって、知人と心理テストで遊ぶことくらいするだろう」

 シノはまた、信じられない、と言わんばかりに俺にすがるような目を向けてきた。俺は澄まし顔で紅茶を飲み、諦めろ、という意味を込めて静かに首を振った。今のところの言い分としては、ユウ(を演じている奴)の方がまともだ。何も非がないのなら、本当に単なる雑談として聞き流していればいいのだ。そこまでうろたえる必要もない。

 ユウのふりをした誰かは、相変わらずシノを眺め、ふうん、と一人で頷いた。

「かといって、君は恋愛や、友達との絆に重きをおくタイプでもないみたいだ。元々興味がないというよりは、そういうものを作ったことがない、だから友情や男女間の愛情がどんなものかわかっていない……そんな感じだ。なぜ作れなかったんだろう? 君は容姿も頭も、そんなに悪くはないのに。ああ、そうか……病気だね?」

「え、」

 俺は驚いて、思わず彼の顔を見た。

 俺もリアも、ユウには以前「男友達ができた」と伝えただけで、シノの病気のことは何も言っていない。それなのに、目の前の男はそれを言い当てて見せた。シノの顔色も変わっていた。かすかに青ざめて、口は半開きのまま、一向に閉じられる気配がない。

「もし、君がリアちゃんの同情を引くために『自分は重病人だ』と言って近づいたのだとしても、君は多分、本当に病気だ。普通の人が理解できないような、難病を患ってる。それはおそらく精神的なものというよりは、肉体的なものだ。治療のために長期間拘束されて、自由な時間がほとんど与えられないような」

 シノは無言だった。が、そのこわばった顔はどんな言葉よりも雄弁に、それが正解だと語っていた。その様子を見て、正体不明の男は満足そうに頷いた。

「とすると、君の信じるものは簡単だ」

「やめろ」

「家族だね」

 シノの制止の言葉を黙殺して、男はさらりと告げた。

「病んで孤独な人間に、最後まで寄り添ってくれる存在がいるとしたら、どう考えたって家族だ。君は家族の絆を信じている。いや……正確に言えば、

「やめろって言ってるだろ」

 ガタン、と音を立てて、シノが椅子から立ち上がる。その拍子にカップが倒れ、紅茶がテーブルに溢れた。男は気にもとめずにクッキーを手にとってかじり、言葉を続けた。

「でも君は、裏切られた。どういうわけか知らないけど、君の家族は、君を最後まで守ってはくれなかった」

「お前なんかに何がわかる」

「でも、別に悲観することでもないでしょ? そんなことは、よくあることだよ。君くらいの歳なら、どのみち、そろそろ家族から自立しなきゃいけないと思うな」

 その瞬間、シノの手が男の首元に伸びて、襟首を思い切り掴んだ。クッキーをくわえたまま、ぽかんとした表情を浮かべた男の頭が、ぐいっと上を向く。シノの目は横から見ていてもわかるくらい、冷たい憎悪に燃えていた。

「お前は、何も、わかってないんだ」

「……」

 シノの低い声を聞くと、男は呆れた顔になり、くわえたクッキーを指で口の中へと押し込んで飲み込むと、どうでもよさげに尋ねた。

「僕が一体何を、わかっていないって?」

「何もかもだよ」

 シノの声は震えていた。

「殺し屋のあんたは、どうせ初めから幸せな家族なんて知らないんだ。初めから知らない幸せなら、失うこともない。失う痛みだって知らずに済む。でも……でも……」

 シノは感極まったように喉を詰まらせ、ゆっくりと深呼吸をしてから続けた。

「ボクは幸せだったんだ。10歳の頃、原因不明の病気のせいであと数年で死ぬって宣告を受けたけど、家族に愛されたまま死ねるなら、それでよかった。覚悟もできてた。でも、病気の進行を食い止める薬が外国にあるらしいって医者が噂しているのを聞いて、それでボクの家族は、死に物狂いでそれを手に入れようとした。でもそれはあまりに高額すぎて、保険を使っても全然お金が足りなかった。そんな時だったよ。知らない外国の金持ちの女がやってきて、取引を持ちかけてきたのは」

「それがSSMの会員だね」

 シノは答えたくなかったのか、それとも単純にそれについてはわからなかったのか、はっきりとした答えは言わないまま、続きを語った。

「そいつは、薬代を全額出してやる代わりに、ボクを家族から完全に引き離して自分のところに住まわせることを要求してきた。正直言って、頭おかしいと思ったよ。だって……そんなことをして何になるっていうんだ? 見ず知らずの他人なのに。ボランティア? 金持ちの慈善事業? ボクは『気味が悪いから断ってくれ』って言った。『最期の時まで家族と離れたくない』って。それなのに、それなのに……」

 シノは、男の襟首を握りしめたまま俯いた。テーブル中に溢れたアールグレイの上に、頬から雫がいくつか溢れ落ちる。かすかに揺らいだ水面に、噛み締めた唇が映っていた。

「それなのに君の家族は、君を手放したんだね」

 淡々とした口調で、ユウのふりをした男が言った。俯いたまま、シノは、喉から絞り出すような声を上げた。

「彼女が……いつもボクにどんな仕打ちをしていると思う? 犬以下だよ。しかもボクだけでは飽き足らず、日本にいるボクの家族も傷つけてやると脅してくる。生きている意味なんて、本当にどこにもないと思うには十分なくらい、惨めで、地獄の底までどうしようもない」

 ねえ。

 顔を上げたシノは、両目を見開いて笑っていた。不揃いな色の大きな瞳が、涙にキラキラと輝いていた。ボロボロと大粒の涙を頬に伝わせながら、シノは、初めて出会ったあの時のような、気さくな笑顔を浮かべていた。

「お願いだからさあ。死んでくれないかな。ボクが手柄を立てれば、彼女はボクの扱いを、少しは変えてくれるかもしれない」

 シノは泣きながら、これ以上ないほどの優しい笑顔になった。それはまるで、精一杯愛嬌を振りまいているような——愛嬌さえふりまけば全てどうにかなると信じずにはいられない哀れな生き物のようで、なぜかとても空虚だった。


「もう一度、だけでいいから。ボクを家族のところに、家に帰してくれ……」

 

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