最後に求めるもの

@yoda1027

第1話

 ここに男が一人いる。その男は肩に降り積もる雪を気にも留めずに緩やかな川の流れを橋の上から眺めていた。

 この男、笠原隆太はその川の流れに自分の憎しみを流し込もうとした。だが、到底できなかった。彼の中で暴れまわる憎しみはこんなちっぽけな川の流れでは流し去ることはできないからだ。

 笠原は東北有数の大企業のエースだった。二十代後半でありながら、その仕事ぶりは社内の尊敬を集めた。そのうえ、上司への気遣いも欠かさず、上役たちからも気に入られていた。彼の会社人生は自他共に認める薔薇色のものだった。

 しかし、その薔薇色の日々はもう笠原のもとにはない。あるのは会社の金を横領したという不名誉だけだった。

 肩に降り積もった雪を払いのけて、笠原は深いため息をついた。なぜ、こんなことになってしまったのか分からない。俺は誰よりも会社に尽くして、誰よりも優秀な結果を残してきたのに。笠原は会社への憎しみとは別に小さな疑問を抱えていた。それは数いる会社員の中でよりによってなぜ優秀な自分が会社の汚れを背負い込まなければならなかったのかという疑問だ。

 「君は会社だけではなく、私に対しても忠誠心はあるか?」

 笠原が会社から追放された日の数週間前、笠原を緊急の用だと言って呼び出したのは直属の上司である本田一郎であった。この時、専務まで上り詰めていた本田を支えていた勢力の中でも笠原が本田のお気に入りだということは会社の中の誰もが知っていることだった。自分は頼りにされているという優越感が笠原の中にも確かにあった。笠原自身、本田の部屋に呼び出されたときは昇進の話でもされるのではないかと胸が躍っていた。

 しかし、実際に聞かされたのは自分の横領の罪をかぶってくれというものだった。

 「この手紙にすべて記してある。死んでくれなんていうつもりはない。ただ今、俺のために死力を尽くしてくれれば悪いようにはしない。頼む」

 深々と頭を下げた本田を見下ろした笠原の頭の中には何もなかった。虚無、空白、目の前で頭を下げる上司にどうしても現実味を持つことができなかった。

 その日、笠原はうつろな目をしたまま本田の話にただただ頷き続けた。小一時間話を聞いた笠原は一筋の涙を流して家に帰った。

 次の日、出社した時にはもう自分が会社の金を使い込んでいたという噂が会社中に流れていた。その一週間後には社長室に呼び出され懲戒解雇を言い渡されていた。結局、あの話に乗っても乗らなくても本田は自分を切るつもりだったのだということにこの時、笠原は初めて気づいた。

 そこからは驚くほどあっという間にすべてを失った。根も葉もない噂が出始めたころは部下や同期であり親友でもある若松城介の力を借りて、笠原はなんとか自分の潔白を証明しようとした。しかし、その努力は徒労に終わった。部下たちは上司たちの顔色を見てすぐに逃げ出した。

 若松に関して言えば、実は彼が本田と組んで笠原を陥れた張本人だと笠原が知ったのは会社を追い出されたすぐ後だった。

 数時間、雪が降り積もる橋の上にいる笠原の体は震えている。東北の冬は寒い。コート一枚では心もとない。だが、憎しみの炎で頭の中が痛むほど熱い笠原にとっては体が感じる寒さなど関係なかった。

 笠原は復讐を望んでいた。しかし、彼は実行することが出来ずにいた。理由は簡単だ。今、あの会社の人間に報復すれば容疑者として真っ先に笠原の名前が挙がるからだ。今や東北で笠原が横領したという事実を知らない者はいなかった。元々東北出身の笠原は地元の友人たちにまで白い眼で見られていた。この状況では復讐しても逮捕という報復を受けるだけだ。それでは意味がない。

 ふと空を見上げる。どんよりとした雲の隙間からかすかな光が漏れている。ボロボロだった彼の心にその光は染みた。だが、その光に対する感激はすぐに警戒心に変わった。その光から何か生き物のようなものが出てきたのだ。その生き物のようなものは物凄い速さで笠原のほうに飛んできた。驚きと恐怖のあまり、逃げることも動くこともできなかった。かろうじて動く口を動かして笠原は呟いた。

 「悪魔・・」

 この世の極悪人たちの顔を結集したような凶悪な顔、背中から生える漆黒の翼、血の色に染まった銛の形をした尻尾。こんなものがこの世にいようとは、笠原の体はただただ震えた。

 「聞け、人間。俺はお前に呼びつけられた悪魔だ。早速、お前に復讐の力を与えてやる」

 「私が?呼んだ?私はお前を呼んだ覚えはないぞ」

 「気づいていないだけだ。お前の憎しみの強さが私を呼んだのだ」

 悪魔の一言で笠原の頭は一気に冷静になった。というより悪魔の言葉に納得してしまったのだ。こんな理不尽をまじめに働いてきた自分が味わうのは何かの間違いだ。きっと誰かが救いの手を差し伸べてくれる。この間違いを正してくれる。笠原は本気でそう思っていた。その救いの手が人外の輩から差し伸べられるとは。笠原は思わず笑ってしまった。

 「それでどのような力を授けてくださるのでしょうか?」

 「まあ、そう慌てるな。これは貴様の都合のいい世界を創り出す力だ」

 「どういうことですか?」

 「まあ実際に見た方が早いな。見てみろ」

 悪魔の向けた顔の先には笠原の中学校の時の同級生二人が汚いものでも見るような目を笠原に向けていた。悪魔は笠原の耳元で囁いた。

 「奴らに手のひらを向けろ。そして、奴らをこの世から消してやると強く念じろ」

 笠原は言われたとおりにした。橋の向こうの二人は笠原の動きを見て警戒した。しかし、そんな警戒の動きも笠原を蔑む眼もすぐに消えた。笠原を気にする様子もなく二人は町の方に歩いて行った。

 「何をしたのですか?」笠原は白い顔で悪魔に尋ねた。

 「あいつらはお前という人間を忘れた。そして世界もお前とあいつらの関係を忘れた。それがお前の力だ」悪魔は不敵な笑みを浮かべた。

 「なるほど、この力を使えば俺は復讐したい人間たちの人間関係の外に立つことが出来るという訳ですね。これなら物理的に失敗しない限り警察も世間も俺と会社の関係を見抜くことは出来ないということですか」

 「そういうことだ。この力でお前が何をするか。空の上から楽しく見させてもらうよ」

 その言葉と共に悪魔は天に帰っていった。

 口をぽかんと開けたまま空を見上げた。本当に現実なのか、笠原自身まだ現実味を感じることができなかったが、あの同級生二人の自分に興味を失った目を思い出すとこの力が本物だという確信を持つことができた。

 笠原は早速、復讐に動き出した。笠原の内心はもう悪魔に成り下がっていた。

 まずは俺を馬鹿にした地元の同級生たちからだ。俺を見るたびに馬鹿にするような眼をして、何も知らず人を蔑む傍観者も会社の奴らと同罪だ。

 しかし、笠原は思いとどまる。いくら世間的に関係を断つことができても、憎い人々を全員殺すことはできない。殺すのは俺を陥れた張本人たちだけでいい。この力は本当に殺すべき相手に憎しみをぶつけるための力だ。目的のためにはある程度の我慢は必要だ。

 自分のアパートに帰ってきた笠原は靴をさっさと脱いでから、ソファにドスンと座り込んだ。まず笠原が行うべきことは世界からあの会社と自分の関係を完全に抹消すること。不思議と悪魔の力の使い方は教えられたわけでもないのに自然と理解できた。これもまた悪魔の力の一つだろうと笠原は考えていた。その理解した内容からすれば、この力は多少大雑把でも対象者を頭の中に思い浮かべればその対象者に力を行使できるらしい。やろうと思えばこの世界すべての人の記憶からあの会社と自分との関係を忘却させることもできるだろう。

 しかし、笠原の中にもまだ友人たちに未練を感じる心があった。

 扉の向こうで何かが叩きつけられた音が笠原の部屋に響いた。笠原は慌てて扉を開ける。外の廊下には誰もいなかったが、誰かいた痕跡は扉に書かれていた文字として確かに残されていた。町の恥さらしという赤いペイントの文字として。

 「またか!くそ!」

 笠原は廊下を走り、階段を駆け下り、一階まで降りた。既に日が沈み闇で満ちていた路上では相手の後ろ姿しか見えなかったが、笠原は誰かすぐに分かった。

 「佐原・・・今度はあいつか・・・・」

 佐原紘一、笠原の高校の時の同級生だった男であり、家が近いこともあり、社会人になってからも友人として付き合っていった。だが、今では嫌がらせの主犯格だ。

 笠原はゆっくりと歩いて自分の部屋に戻った。笠原は決して落ち込んでいたわけではない。この卑劣な仕打ちは今日に始まったことではなかった。会社を辞めたその日から様々な嫌がらせを友人だと思っていた人たちから受けてきた。最初の頃は一人泣く夜もあるほど辛いと感じていた。しかし、今、笠原が感じているのは悲しみでも切なさでもない。虚無感だ。幼いころに家族を失い天涯孤独だった。笠原は寂しさを紛らわせるために他者との良好な関係を築いてきた。しかし、結局自分が友人だと思っていた人たちも友人ではなかった。これもまやかしだった。

 誰もいない静かな部屋に笠原は一人立ち尽くした。拳を強く握りしめる。血がにじむほど。

 

 昼の十二時過ぎ、塾講師佐原紘一は昼休みを使って、地元のスーパーに昼ご飯を買いに来た。職場から最も近いスーパーであることから佐原はこのスーパーを愛用していた。いつものように気分に合わせて弁当を選ぶ。その筈だった。しかし、今日の佐原は何を買うべきか決められずにいた。その原因は佐原自身にも分からなかった。ただ何かひっかかる。何かを忘れている気がする。そんなねっとりとした感情が佐原に張り付いていた。

 悶々とした気持ちのまま昼ご飯を買った。スーパーを出てからもその感情は消えなかった。何を忘れたか分からないという気分は次第に忘れていることが重要なことだったらどうしようという焦燥感に変わっていった。佐原は記憶の糸を手繰り寄せながら、雪の積もる大通りを歩いた。

 他所事を考えながら歩いていたせいか、佐原は向かいから歩いてきた人とぶつかってしまった。その男のやつれた姿と凍えるほど寒い中、コート一枚でいることに違和感を覚えたが、とりあえず自分の不注意を詫び、その場をすぐに立ち去った。

 あれ?この時、佐原は異変に気が付いた。さっきまでの焦燥感が嘘だったかのように消えていた。思わず男のほうを振り返る。

 笑っている。その男は笑っていた。狂人のような顔で笑っていた。佐原は背筋が一気に凍っていくのを感じた。その足はほとんど無意識のうちに職場のほうまで走り出していた。

 

 あの態度、あの顔、どうやら本当に俺の事を忘れているらしい。笠原の育ったこの町で彼のことを覚えている者は誰もいなかった。周りから見れば笠原は初めてこの町にやってきた浮浪者だった。笠原は軽い足取りで近所の公園まで歩いてきた。ベンチに積もった雪を手でのぞいてからベンチに座り、大きく、大きく体を伸ばす。両足でリズムをとる。人目を気にしなくてもいいという解放感が笠原の心を昂らせていた。見上げる空はいつも以上に深く、外の空気はいつも以上に自分を包み込んでいるような気がしていた。

 そんな伸び伸びとした笠原に対して通行人たちはいろいろな反応を示した。微笑む人、気味悪そうに見てくる人、そして、一瞬で興味をなくして黙々と歩く人。そんな人々の反応が今の笠原には心地の良いものだった。

 笠原の目が大きく開かれる。通行人たちの顔に見覚えのある顔が何人か現れたからだ。彼らは談笑しながら笠原の顔をちらと見てきたが、すぐに興味をなくしたのか、すぐに談笑を再開した。そんな友人たちが笠原にとっては滑稽だった。今まで、散々自分を馬鹿にしてきた人間たちが自分のことを忘れている。今この瞬間に彼らをナイフで刺し殺した場合、彼らはなぜ自分が殺されるのか理解できないまま死んでいく。それも悪くない。下卑た笑いをぶら下げてベンチから腰を浮かせる。だがすぐにその腰を心と共にもう一度ベンチに落ち着かせる。今はまだ下準備の段階だ。復讐の対象はあの会社だ。それ以外は放っておけばいい。あいつら如きのために計画に支障をきたすことはできない。

 軽く深呼吸して談笑を続ける彼らの後姿を遠い目で見つめる。過去の自分は確かにあの輪の中にいた。しかし、それを証明する者はもうどこにもいない。

 

 会議室の扉が開いて血相を変えた部下が入ってきた。汗でぬれた顔をスーツで拭いてから部下は消え入りそうな声で言った。

 「すみません。今日の会議の資料は見つかりませんでした」

 白い壁に囲われた小さな会議室にはあるプロジェクトのために召集された優秀な会社員たちが集められていた。その中の一人が机をたたき、静かに立ち上がった。

 「見つかりませんでしたなんて言葉で済むと思っているのか!!資料はきちんと保管しておけと言っただろう!」

 若松城介は苛立っていた。笠原をこの会社から追い出してからあまりいい結果を出すことが出来ずにいたからだ。このままでは昇進の道を断たれるどころか、笠原のようにみじめな最期を迎えることになってしまう。それでは友人でもあった笠原を裏切ってまで上司たちに媚び売った意味がなくなってしまう。なんとかして結果を・・

 若松は申し訳なさそうに部屋の隅で小さくなっている部下を睨みつけた。こんな時に余計なミスをしやがって。お前のミスが俺の昇進の妨げになったらどうしてくれる?このチームの失敗になったらどうしてくれる?このチームの責任者である俺が飛ばされればお前も含めて全員無傷ではいられない。何らかの形で経歴に傷がつく。それが分かっているのか?

 青い顔をした部下がもじもじしながら

 「ですが、若松さん。私は確かに本日の資料をきちんと保管しました。決してなくしたわけではありません」と弁明を始めた。

 無能であるばかりか、自らの失敗から学ぶことも出来ない。使えない部下だ。聞き苦しい部下の言い訳は若松の怒りの火に油を注いだ。

 「もういい!どのみち資料はここにない。そんな言い訳をしている暇があるのなら、何か画期的なアイデアの一つでも提示してくれないか?迷惑をかけたチームの皆のためにも!」

 若松が眉間にしわを寄せるのを見てから部下は泣きそうな顔で反論してきた。

 「私は厳重に保管していました。誰かが盗んだに違いありません!」

 「それこそあり得ないことだろう。あの資料なんて盗んで何の得がある?今日の会議内容をまとめてあるだけの資料だぞ。俺たちに嫌がらせを」

 そこで若松の言葉が途切れた。頭の中に笠原の顔が突然思い浮かんだからだ。こんなちっぽけな復讐をするはずない。しかし・・・・

 「若松さん?大丈夫ですか?」

 隣に座っていた女子行員が心配そうな顔をして若松の顔を覗き込んでいる。若松はその顔が本当に心配している顔だとすぐに分かった。手で大丈夫のサインを出して、若松は軽く深呼吸をする。

 「お前のデスクまで案内しろ。盗まれた痕跡があるかどうか見てやる」

 

 書類を年数、分野、重要度で分けてあるその部下のデスクはいい見本だと言わざるを得なかった。そして確かに鍵付きのロッカーをこじ開けた痕跡がある。間違いなく誰かあの資料を盗んだ証拠だ。

 「確かにお前の言うとおりだったな。一応この件はすぐに部長に報告しておく必要がある。目的はどうであれ会社のものが盗まれたことに変わりはないからな」

 少しずつ押し寄せてくる動揺の波をかき消しながら淡々と若松は言った。部下が先に部長のデスクまで走っていった。若松も後を追おうとしたがその場で足が止まってしまっていた。壊されたロッカーが自分に何かを語りかけてくる。

 人を踏み台にして見る景色は美しいか?俺がいなくなったことで見える景色は変わったのか?どうだ?教えてくれよ?

 これは自分の中の罪悪感が作り出した幻聴だ。若松は自分にそう言い聞かせて部長のデスクまで走っていった。

 

 「お前たちも被害にあったのか!一体どうなっている!」

 デスクに深く腰を掛けている部長は苛立ちのあまり髪を掻きむしる。余程のことが起きたというのは一目瞭然だった。

 「私達も?他にもこのような被害があったのですか?」若松は遠慮がちに聞いてみた。

 「あったどころの話じゃない!今日一日だけでこの会社の機密データが流失し、社員たちのロッカーは無残に壊され、上役のスキャンダルまで暴かれた。今、うちも警察も調査しているが犯人は相当うちの内部情報を知っている人間らしく、それを全ての犯罪を痕跡が残らないように実行している。忌々しい限りだ!これでは犯人は捕まらないかもしれない」

 ガタガタと震えだした身体を押さえつけて若松は言葉を探す。間違いない。あいつが帰ってきたのだ。俺たちに復讐するために。

 「笠原隆太。犯人はあいつ以外にいないでしょう?しっかりしてくださいよ!」

 何とか言葉を絞り出した若松だったが、部長の反応は予想していないものだった。

 「笠原?誰だ、それは?お前犯人に心当たりがあるのか?」

 「え?」

 「今、上役たちが緊急対策会議を開いている。今日のところはもう帰っていいぞ」

 何が起きているのかまだ把握できていない部下はおろおろとしながら頭を下げた。そのまま言われた通り帰ろうとする部下の腹を笠原は肘で軽く叩いた。

 「なんですか?」

 笠原は部下の耳元で自分の単純な疑問を口にした。

 「なんで部長は笠原のことを知らないふりをする?お前何か知っているか?」

 「若松さんこそさっきから何を言っているのですか?笠原って誰ですか?」

 顔をこわばらせて答える部下の顔に嘘はない。直感的に若松は把握した。

 「俺と同期のエリート、先月横領の疑いで会社を去った男だ。本当に思い出せないのか?」

 「横領?若松さん、本当に大丈夫ですか?突然の会社の危機に動揺するのは分かりますけど落ち着いてください。」

 「俺は落ち着いている!!」

怒りと共に吐き出した言葉を残して若松はこの会社から逃げるために走り出した。


 おかしいのは俺なのか?笠原なんて人間は存在しないのか?

 日差しが差し込むデパートのフードコート、ここのコーヒーを飲むことが若松の日課だった。ほろ苦いコーヒーを少しずつ飲みながら頭の中で何度も何度も自問した。ここで座って考えても出るはずのない答えを探す。やっぱりおかしいのは俺なのか?それとも周りの人間たちなのか?

 「お前も周りもおかしくなんてないよ」

 隣に座っていた男が話しかけてきた。その男は最も会いたくて会いたくない男だった。

 「笠原・・・・・」

 「久しぶりだな、随分顔色が悪いぞ」

 デパートの汚れた床を見つめたまま、か細い声で若松は問いかけた。

 「何しに来た?いや、何をした?」若松は一気にコーヒーを飲み干して聞いた。

 「いいよ、知りたいなら教えてあげるよ。信じられない話だとは思うけどね」

 笠原は自分が与えられた力について掻い摘んで話した。とてもじゃないが信じられない話だった。しかし、この一日で体験した恐怖はその力がなければ説明できない。

 一通り話を終え、落ち着きを取り戻した若松はじっと笠原の顔を見た。

 「今日の騒ぎもお前の仕業か?」

 「そのためにもらった力だからな」

 二人の間に微かな沈黙が流れる。怯え切った顔で俯く若松に笠原は子供をあやすような優しい声で語りかけた。

 「俺はあの日、なんで自分がこんな仕打ちを受けなければならないのかわからなかった。なんで何の罪もない俺が会社を去らなければならなかった?どうしてだ、若松?」

 透き通るような眼の前にして、若松は偽り続けるのは不可能だと判断した。

 「俺が上司の計画に加担して、お前に濡れ衣を着せたからだ」

 「なぜ、本田に手を貸した。自分の昇進のためか?」

 一筋の涙が若松の頬に流れた。彼は自分の本音をずっと吐き出したかった。そして、それは今しかないと思った。

 「違う。俺はただお前が憎かっただけだ。同期として入社した時からずっとお前に対して劣等感を抱いていた。周りからも俺はお前の付属品としてしか見てもらえなかった。お前がいなくなれば俺は付属品ではないと証明できる気がした。それがお前を裏切った理由だ」

 この場で殴り殺されるかもしれない。その覚悟で若松は笠原の顔を見た。しかし、その顔は憎しみを一切帯びていなかった。それどころか、微かな微笑を浮かべていた。

 「何がおかしい」

 「ああ、すまない。久しぶりに人と話した気がしたな」

 その言葉とその微笑が何を語っているのか。一瞬の間に若松は頭の中で考えを巡らせた。そうだ、もし俺がそんな力を持ったとしたら

 「淋しくないのか?」

 「は?」

 「お前は周りから忘れられていく。お前は本当の意味で一人になってしまう。それでいいのか?」

 「どいつもこいつも俺を軽蔑と恐怖の目でしか俺を見ない。そんな奴らとの関係なんてあってもなくても同じだろう」

 「それでも!相手がお前のことをどう思っていようが忘れられるよりましだろう!お前さっき言ったよな?久しぶりに感情をぶつけられて面白かったって!お前も本当はわかっているはずだ!」

 若松の怒鳴り声も子供たちの甲高い声が響き渡るデパートの中では誰も気に留める者はいなかった。

 体が熱い。若松は胸に手を当てた。体が燃えているようだ。全身に激痛が走る。まさかあのコーヒーに・・・体勢を保つことができず、テーブルに体を突っ伏した若松は無機質な目をしている笠原を見上げた。激痛のあまり笠原の顔がゆがんで見える。しかし、笠原の声は確かに聞こえた。「悪く思うなよ」

 笠原はその場を何事もなかったかのように去っていった。若松は笠原の後ろ姿に手を伸ばそうとした。まだ、笠原に伝えたいことがあったから。しかし、その時若松はふと気づいた。

 あれ?俺は必死に何を伝えようとしている?なんでこんな必死に・・・・

 笠原は自分の後ろで若松が絶命したことを確かに感じた。だが、世界から見れば彼らはもう何のつながりもない赤の他人だった。

 

 市内から少し離れた廃ビルで本田一郎はある男を待っていた。自分以外の誰も知らない男を。自分の家のポストにここに来てほしいと書いてある手紙が届いたのは若松が殺害された次の日だった。若松が殺されたこと、自分の会社が標的とされていること、全てが一つの解を導いていた。

 だが、犯人は笠原だという意見に耳を貸す者はいなかった。しまいには完全に変人扱いされる始末だった。

 仕方なく、本田は一人で笠原を待った。懐にナイフを忍ばせて。若松が殺された以上、笠原が本気だということは十分すぎるほど分かった。そっちがその気ならこっちだってしかるべき処置をするしかない。本田は頭のなかで何度も笠原を殺す光景を思い浮かべた。    

 あんな若造に俺の人生を狂わされてたまるか。胸の中で渦巻く感情はもはや恐怖ではなく怒りだった。

 本田一郎の人生は邪魔者を排除することで成功を得てきた人生だった。今、笠原は本田の中で最大の邪魔者になっていた。しかもその邪魔者は自分が始末するしかない。緊張の汗でぬれた手を握りしめた。

 その瞬間、背後から近づいて来る影を本田は察知した。その影にナイフを突き刺そうと懐をあさった。その影は流れるような動きで本田の腕を止め、逆に本田の脇腹を刺した。本田の叫び声が廃ビルに響き渡る。そのまま白い床に倒れこんだ本田は笠原を見上げた。

 「笠原、貴様!こんなことしてただで済むと思うなよ。殺してやる。絶対に殺してやる。お前が会社の奴らに何をしたか知らないが、とにかく殺してやる。俺の邪魔をする奴はみんな殺してやる!」

 

「あんたはもう助からない」本田の腹から蛇口から流れ出ているような血を眺めながら言った。

 これでようやく一人になれる。その幸せを噛み締めようとした。しかし、頭の中に若松の顔がよぎる。俺の本心・・・・・・?

 笠原は静かに目を閉じる。誰も自分を知らない世界を思い浮かべる。誰も自分を軽蔑や恐怖のまなざしで見ることはない。だが、誰も自分に何の関心も示さない。好きも嫌いも言われない世界。

 怖い・‥嫌だ

 笠原の中に忘れかけていた感情が沸き上がってきた。床でのたうち回りながら醜い言葉を叫んでいる本田を見てみる。自分に親の仇でも見るような目を向けている本田に笠原は希望のようなものを感じた。

 そうだ、今、俺の存在を証明してくれているのはこの人だけだ。この人の憎しみこそが俺を救ってくれる光だ。とめどなく溢れ出る涙を拭きとって笠原は暴れる本田を押さえつけて応急処置をした。応急処置自体は簡単なもので済まし、警察と救急車を呼んだ。

 本田は訳が分からないという顔で笠原を見ていたが、救急車が来るまでその目から憎しみの色が消えることはなかった。

 しかし、その色が笠原の世界に残された唯一の色だった。その憎しみという色がある限り俺はどこにいたとしても一人じゃない。俺をこれほどまで憎んでくれる相手がいるのだから。




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