十六・A

 今頃はあの七階の開かずの部屋の中で援軍に情報を送っている頃だろう。もしくは救援の催促でもしているだろうか。「早く援軍を!」みたいな調子で。忍逆の殺害に失敗した瞬間のあの表情が忘れられない。加虐趣味があるわけじゃないが、不思議と俺の表情は綻んだ気がしたし、希望が湧いた瞬間でもあった。

 俺たちは外に出る。日差しは少し傾いていた。だが直射日光をもろに受けることに変わりはない。俺の部屋は蒸籠のように蒸し暑かったが、外は風が吹いているだけまだ涼しかった。

「コ」の上辺部にある俺の部屋の前から、下辺部にあるAの部屋のあるところを見る。この地点から見上げるだけで、Aの部屋のドアは見ることができる。

 そのドアは開いていた。

 俺はおかしいと思った。

「ドアが開いてるって事はさ」忍逆が口を開く。

「なあ、忍逆……確認なんだが、俺たちはもう、あの背中の札みたいなのを作動させた時点で、次元の変わった世界にいるんだよな?」

「そうだよ、私達が今いる世界の次元はもう、元の世界のそれからは、ずれてるよ……」忍逆も、開け放たれたドアを見上げたままつぶやくように応答する。

 今更の回想になるが。

 確か、次元を変えて彫元さんの部屋に入った際、ドアに触れることはなかった。それは単純に、俺たちがドアをすり抜けたからではない。元いた世界における彫元さんの部屋のドアが、警察の捜査によって開いたままだったからだ。

 だから次元のずれたこの世界であのドアが開いているということは、つまり、元の世界でのあのドアも開いている状態になる。

 俺はそれをおかしいと直感で思った。

 Aは霊体として忍逆の身体から抜け出た。霊体。人体の外部を極めた結果、幽体離脱も容易なのだろうと考えるが、それはともかく。物体をすり抜ける霊体としてのAが、わざわざ開かずのドアを開けて家の中に入るだろうか?

「部屋にはいない……よね。そうなると」忍逆は俺の背中に触れる。札をいじっているらしい。各種設定機能付き。便利な札だ。ハイテクな札だ。何をしているのか問うと、「次元の数値を調整してる。今いる世界の次元から、元の世界に次元の数値を少しずつ戻してるところだよ」次元の数値。最初からそう表現してくれたら、「次元を変える・ずらす」という表現にも早めに納得できていたのかもしれないな。

 俺は嫌な予感がした。Aの部屋のドアの位置から視線を下に向ける。ちょうど三階の辺り。そのまま目線を通路に沿って滑らせ階段部分を通り過ぎる。Aが何をやらかすか予測がつく。それが嫌な予感につながる。俺は炉幡さんの部屋のドアの前を見つめる。

 一体どういう理屈なんだろうかと俺は思いながら、この現象について考える。元の世界でのあの開いたドアが、次元の「数値」のずれた世界においても開いているという現象について考えてみる。もっと早くに気付くべきだった。考えれば考えるほど不思議だ。彼らビヨンドは「次元の数値の違う、しかし俺たちの世界に近しい場所にある」という世界からやってきたと言った。それは彼らも言っていたとおり平行世界である。彼らにとって平行世界とは、次元の数値が自分たちのそれとは違う世界のことを指しているのだろう。

 その定義に倣うならば、数値が変わればそこは既に平行世界である。実際にその数値を、忍逆は調節しているのだ。調節する度に、俺達は数値の数だけ存在する無数の平行世界を行き来しているわけで。彼女はまだ背中の札をいじっている辺り、かなり細かい数値の調整なのだろうし。

「いた」忍逆が言う。だが見えない。どこを見回してもいない。またか。彼女に見えて俺には見えない。次元の数値は忍逆と同じはずなのに。

「忍逆」

「見えない? 多分、光学迷彩だよ」そうか。人体の外側を極めた技術力だった。そういう機能だって備えているはずだ。

 だがそうじゃない。俺の違和感は消えていない。次元。数値。平行世界。炉幡さんがAに殺されるかもしれないという危惧とともに、どんどん疑問が膨らんでいく。訳が分からなくなってくる。

 突然、そいつは俺の視界に現れた。彫元さんもどきの着ていたスーツとはまるで違った。肉体美とも言える完璧な体つきをしていた。彫元さんもどきのあれが宇宙服ならば、AのそれはSF物で見るようなかっこよさを秘めた戦闘スーツ。腰や脇の下、脚・腕に取り付けられたポーチのようなもの、ホルスター。視界が開けているかわからないような造形のヘルメット。デザイン先行で作られたような代物を、Aは身につけていた。

 三階の通路。ドアの前。炉幡さんの部屋のドアの前に立っていた。

 Aは俺たちを、俺たちはAを、お互いに見合っている。忍逆はもう俺の背中から手を離している。

「こんな状況で申し訳ないんだけどさ」

「……どうしたの」Aのヘルメットを見据えながら、俺たちは小さな声で会話をする。

「ビヨンドの言ってる平行世界の概念は正しいのか?」

「まさに「こんな状況」で話すような事じゃないよね」

「気になってしょうがないんだよ。あいつらは平行世界の人間だろ? 次元の数値が違う世界の人間なんだろ? 何で忍逆はあいつらに簡単に干渉できるんだよ?」どうにも納得がいかない。本当に、忍逆がそういう能力を持っているから、というだけの話なのか?

「……エレベーターの話をしたよね」お互い睨み合う中、忍逆が口を開く。次元の移動の話になった時にその喩えは聞いた。世界を一つの建物とすると、単純に一階が一次元、二階が二次元、という風に無数の階層で世界が成り立っている、という話。厳密には無数の数の階層があって、この世界もまたその一つに過ぎない、という話。エレベーターとは要するに、次元間を移動する役であり、忍逆はエレベーターそのものを担っているのだ。

 という話だったか。

「私そこまで細かく説明したっけ?」俺が頭の中で考えていたことを彼女は勝手に読みとってコメントする。忍逆の説明を額面通り受け取って解釈したら、そういう風になっただけだ。

 まあいいけど、と彼女は続ける。「まず、ビヨンドの平行世界の解釈は私達のそれとは少し違う。ハッキリ言うけど、次元と平行世界を混同してる……と言うよりは、両者を同じ物として、彼らは解釈してる」

「違うのか」

「建物とエレベーターの話を思い出して……エレベーターよりは階段って考えた方がいいのかな……まずは次元を階層と捉える。三次元は三十階、四次元は四十階。五次元は五十階。次元の数値っていうのは建物の高さの位置を表してる。私達は三十階にいる。次元の解釈如何によってはこの辺も変わってくるけどね。でもそれはいいや……彫元さんの殺人現場を見た時に私達がやった次元の移動っていうのは、三十階から三十一階に上がったってだけなの。四十階に向けて、四次元に向けて、一階分近づいたってだけ」

「じゃああいつらは結局何を言ってる事になるんだ?」

「あいつらは平行世界をも階層として捉えてしまってるのよ。一つの世界につき一つの階って感じでね。だから齟齬が生じてる。実際はね、平行世界は同じ三十階にも存在してる。デパートの三十階に色んなお店があるとして、平行世界は言うなればそのお店なの。同じ階にあるお店」

 Aは長い説明の終わりを律儀に待っているようだが、実際は違う。ただ膠着状態にあるだけだ。お互いに手を出せばどうなることやら。

 でもね、と忍逆は続ける。

「あいつらは同じ階のお店じゃないの」

「どういう意味だ?」

「三十階が三次元、四十階が四次元って説明したよね。あれは只の単純化の結果であって、実際は三次元と四次元の間に数え切れないくらいの階がある。だから三階、四階、とは表現しなかったんだけど……要するにあいつらは、三十二階の別のお店からやってきた存在。わかる?」

「……わかってきた」同時に俺が抱いていた疑問も明確になった。「じゃあ、次元が変わってるのに、彫元さんの部屋のドアやAのドアが開いていたのはどういう理屈なんだ」

「それを説明しようと思って、あいつらの世界を三十二階に例えたんだけど……近しい次元はある程度吹き抜けで繋がってるからだよ。三十階の窓と三十一階の窓が吹き抜けで繋がってると考えてみて。三十一階から三十階にかけて大きなカーテンがある。三十階でそのカーテンを閉めたら、三十一階の窓もカーテンで覆われる。カーテンが繋がってるからね」

「密接になってる次元同士はお互いに干渉するってこと?」

「そういうこと……でも、私達が次元を移動したときどうだった? 誰もいなかったでしょう? それはね、三十一階がまるまる空きテナント状態になってるから」

「……じゃあ、あれか? あいつらは、三十二階から、空きテナントの三十一階を過ぎて、三十階の店に来たって事か?」

「そうだよ、それで合ってる」

 マンションの停電を思い出す。彫元さんもどきがマンションを停電させた。三十階の世界にあるこのマンションを、三十一階の世界でぶっ壊した。だから三十階のマンションも停電した。

「そういう感じ」

「じゃあ、忍逆があの彫元さんもどきと戦った時は? 俺の目には忍逆が見えてた。だけど相手は見えなかった。俺の部屋で殺した時もそうだった。忍逆は見えてて、相手は見えなかった。あれはどういう原理だ」

「それは、単純に私が三十階と三十一階の吹き抜け部分にいたからだよ。どっちの階からも私は見えてる状態にあったの。相手が見えなかったのは、三十一階に相手がいたからってだけ」

 さも当然かのように説明をする。俺はそれに対して簡単に納得してしまった。タネさえわかれば単純だった。

 俺たちはまだ睨み合っていた。というか、全く向こうは動かない。仁王立ちをしてこちらに身体を向けているだけで、

「言い忘れたけど」忍逆がふと口を開く。「多分、私達まともに戦えるよ。真刈君ならあの相手は楽勝でしょ」

 と、視界から忍逆が消える。

 忍逆は俺の背後に立ったらしく、背中を思いきり押された。

 当然俺はつんのめる。

 だけど転ぶことはなく。

 左手が前に出て床に着く。

 何か変な自信が湧いてきた。

 着いた左手と足で身体を前に。

 勢いが付いて俺は一瞬で敵へと。

 右手の拳を振り下ろし叩き込んだ。

 だがAは両腕を組んで防いでいた。

 俺は咄嗟に右手でAの腕を掴む。

 Aの腕は微動だにしなかった。

 それこそがチャンスだった。

 俺は掴んだ腕を引っぱる。

 そうやって敵に近づく。

 両腕は防御に使った。

 胴体はガラ空きだ。

 反動を利用して。

 自らの左膝を。

 全力で以て。

 叩き込む。

 右手に。

 腕は。

 無い。

 Aは飛んでいった。

 俺の蹴りで飛んでいった。

 だがAは持ちこたえた。体勢を整え、無事に着地した。

 札の力は計り知れないが、やはり人体の外側を極めた戦闘スーツというだけはある。

 俺はまた考える。三十二階にある自分たちの店舗は、そんなにも狭かったのかと。三十階にある俺たちの店舗がそんなにも羨ましいくらいに広かったのかと。彼らがこの世界を乗っ取る本当の意図があるような気がしてきた。狭い世界。宇宙に進出しても尚狭い世界。ビヨンド達は世界の果てまでたどり着いたという事か。これ以上進めない。これ以上進歩しない。

 これ以上は。

 人類が宇宙に進出して自らの生存領域を広げたとして、そこで必ず争いが発生するはずだ。世界史を学校で習ったが、あれは結局争いを積み重ねた結果を教えられたようなものだった。狭い世界の中で、領地を争うなんて目に見えている。実際、こうしてビヨンドは領地を求めて別の世界に争いを仕掛けてきたのだ。

 自分たちの世界で争うだけでは飽き足らなくなったのか? 本当にそうか? 平和的に人口の問題を解決すべく、彼らは平行世界に目を付けたのか? 取って代わる? 本当にそれだけで解決するのか?

 文明が俺たちの世界より発達しているのならば、シンギュラリティに達したのであれば、人の寿命も延びているだろうし何なら寿命という概念すらなくなっているのでは……彫元さんもどきが死んだことを考えると、不死身になれたわけでもなさそうだが。この世界を乗っ取ったところで一時しのぎにしかならないだろうに。彼らはそれを延々と続けるつもりか?

 人工知能が人類の知能を追い抜くポイント、それがシンギュラリティ。その地点に達すると、機械が機械を作ったり、人間の寿命が延びたりというように、人類の文明が大きく進歩すると言われている。「言われている」というのは、つまり俺たちの世界では、シンギュラリティにはまだ到達していない、ということである。

 ビヨンド達の世界ではそれをとうに通り越したと言った。つまりあいつらの狭い世界では機械の方が頭が良くて、技術力も勝っている、と。

 ほぼ全てにおいて人間よりも勝っているのならば、人間に対して容易に干渉することだって可能なはずだ。俺たちの動きを予測することだってできたはずだ。咄嗟の膝蹴りすらも予測できただろうに。幸か不幸か、膝蹴りはヒットした。その速さに対応できなかったのか? 演算処理が追いつかなかった? 幾らでも言い訳はできる。

 Aのスーツに人工知能が搭載されていると仮定しても、恐らくそいつのバージョンはかなり古いんじゃないだろうか。人間がスーツで戦うのではなくて、人間がスーツに操られているとしたら、恐ろしい話だ。だが、そもそもそんなリスクを人間に負わせる必要があるのか? 機械が機械を作れるほどの知能を持っているなら、機械が侵略してきたっておかしくはない。その方が合理的だろう。機械と人間じゃ、どう考えても生産効率は前者の方が桁違いなレベルで良いはずだ。

 Aは立ち上がり俺を向く。拳を構える。何も武器を持っていない。奇妙だとは思ったが、武器を使用しないでいてくれる方がこちらとしては助かる。

 あれこれと疑問が浮かぶけど、それは目の前にいるこのAに直接訊けば解決するだろうか。何でもかんでも真実として認めてしまう、信用ならない奴に訊けば、解決するだろうか。俺は単純に、俺の推測に対して肯定の意を示してほしいわけじゃない。正誤くらいはハッキリさせてほしい。

 Aはボクシングの要領で間合いを詰めてくる。避けられるスピードではない。片腕でガードするのが精一杯。札の力は俺の反射神経までも強化しているらしく、俺の背中に一体何枚の札を貼ったのだろうかと。

 ガードしながらもう片方の腕でボディを打つ。膝蹴りの時はそうも感じなかったが、Aの戦闘スーツはとても硬い。札の効果がなかったら、俺の手の骨は砕け散っている頃だ。Aは俺のパンチを食らった素振りを全く見せない辺り、食らってもいないのだろう。あの膝蹴りは本当に、只の不意打ちで終わってしまった。

 Aは一旦俺から距離を置く。その方がいい。助かる。

 俺は言う。

「あんたらの意図が何となくわかってきた……本当の意図ってやつだ」

「ほう?」声がくぐもっていない。ヘルメット越しに話しているとは思えないくらい。そしてその声はやはり炉幡さんそのものだった。

「人工知能から逃げてきたんだろ」

「ははは」Aはまた乾いた笑い声をあげる。俺が彼女をAだろと推測したときと同じ反応だった。「君は一体、頭の中で何を考えてそういう結論に至ったんだ。忍逆深令というあの女も不思議だが、君も大概だな、真刈卓」

「そうだろ?」俺は念を押す。Aはまだ認めていない。

「ある意味ではそうかもしれないな」

「ある意味では、か」含みのある返答だ。「逃亡ではなく追放、だとか」

「いや、逃亡の方がニュアンスとしては正しいね」戦闘体勢を完全に解いている。俺と話すだけの余裕はあるらしい。あるいは、救援が来るまでの時間稼ぎをしている、とか?「なぜそう思ったか聞かせてくれないか」

 と、嬉々として訊ねてくる。またこのパターンか。

「その前に、俺の言ったこと全てを真実として認めようとするのは一旦やめろ。話が通じなくなる」

「まあ、いいだろう……」ため息がはっきりと聞こえる。この期に及んでも俺と推理ゲームを楽しみたいらしい。何でもかんでも真実と認めて楽しいのだろうか……楽しいのだろうな。「ミステリにおける推理パートはもう終わったんだ。今から君が披露するのは推理ではなく推測だ。そこはしっかり区別していこう。それくらいの制約はつけてもいいだろう?」推理と推測。今まで同じような意味合いで使ってきたが、それを区別するとなっても、あまりメリットデメリットは出ないような気がするが。俺はその条件を認めるべく頷く。

「確かあんたは自分たちの世界が飽和状態にあるとか言ったっけ? よく考えるとおかしくないか? 幾ら世界が狭いからって、宇宙まで進出しておきながら飽和状態か。どれだけ狭いんだって話にもなるが、次元としての距離が比較的近いからこの世界を選んだんだろ。少なくともあんたらの世界には地球があって月があって、その他諸々太陽系を始め、この世界と同じような構成をしてるんだろ? だったら世界が狭いなんてそんな理由でわざわざ」

「感情的になっているね」俺の言葉を遮りAは告げる。「一旦、頭を冷やして考えてみよう。考え直してみよう」思ったことを口に出しただけだが、口調からそう判断されたのならば仕方がない。推測を披露しろと言っておきながらあれこれと口を出してくる。テンポが悪くなるにも程がある。だがそれに反論していては更にテンポが悪くなるだろうから、仕方なく一旦話をやめる。

 何となく辺りを見回すが、俺達以外には誰もいない。忍逆もどこに行ったんだ?

「さっき君たちが何を話していたのか、私はしっかりと聞いていたよ。その話が興味深いと感じたからこそ、こちらから攻撃することはしなかったんだけど」

「単なる睨み合いではなかったわけだ」このマンションの階段は特殊だから、一階と三階とじゃ当たり前だがだいぶ距離がある。俺たちは小声で話していたわけだが、流石、技術力が遙かに長けているだけはある。

「そうさ。忍逆深令は建物に例えて話をしたね。我々の解釈が間違っているとも言ったね。我々の世界と君たちの世界とでは、どうやら世界の構成に関する考え方すらも違っているらしい……建物の例に沿って話すとさ。店舗ごとの面積が違う事なんてよくあることだとは思わないかい。同じ帽子屋でも、例えその二つが同じフランチャイズの店であっても、広さが全く違うことはよくあるだろう……それに関して言えば、我々の世界も君たちの世界も似通っていることに変わりはない。何せ同じ人間が存在しているくらいなのだからね」

 Aは淡々と話す。そのヘルメットを脱ぐことはせずに。この真夏でヘルメットをかぶっていて暑くないのか……暑くないんだろうな。何しろ技術力は遙かに発展しているのだし。

「次元が違おうと、平行世界としてのお互いの距離が近ければこのような事態は簡単に起こりうる。実際そうだろう? こうして私と君は出会っている」

 汗が頬を伝う。「何が言いたい」

「いや。単純に、我々の考える「次元」と「平行世界」についての解釈を説明したまでさ」

「じゃあ、あんたらの世界は人口増加で飽和状態ってわけではないんだな」

「人類の繁栄という観点から見れば滅びかけているね。機械が我々の管理を始めた。機械が我々の知能を越えてからというもの、この事態を危惧するよりも早く彼らは我々を飼育し始めた。人類が増えないようにね。あの世界の住人の殆どは、その体制に疑問を抱いていない。正しい意味でのディストピアだ」

 察しがついた。

 その管理から解放されるべく新天地を求めてやってきたのだろう。彼らが宇宙まで進出しておきながら、その宇宙の管理権限まで許してしまったのはいかにも間抜けな話でいて杜撰極まりない話ではある。これ以上進出できないとなって、最終的に苦肉の策として目が向けられたのが平行世界。そしてこの世界に白羽の矢が立ったのは偶然だろうか。

 なんにせよ、彼らは世界という単位のレベルで亡命をしてきたのだ。

「まるでノアの方舟が徒党を組んでやってきたみたいな感じだな」彼らは移住先を乗っ取ろうとしている。Aも彫元さんもどきも、その最前線でこうして活動しているという事になる。この世界の人類は、遙か昔に、とある「新大陸」を乗っ取ったわけだが、それを世界レベルで企んでいるのだ。

「……救援は後どれくらいでやってくるんだっけ?」

 ため息が聞こえた。それは果たして何に対するため息なのか?

「もう来てる。だから本当はこんなことしている場合じゃないんだよ。くだらない推理で終わったね。君に時間を与えたこと、本当に後悔してる」

「……なんとしても炉幡さんを殺す、と?」

「そうさ。私は炉幡亜矢として生まれ変わるんだ」

 炉幡亜矢として、か。

「……あんた、本当の名前はやっぱり「炉幡亜矢」なのか?」

「名前なんて無い。あるのは記号だけだ」

 俺たちが詳細不明の人物として名付けた記号としての「A」という名前は、案外間違っていなかったのかもしれない。彼女の言い方からして、産まれた時点で既に機械に支配されていたのかもしれないと考えても良さそうだ。そうでなければ、人間が人間に記号を「命名」するもんか。

 俺は拳を構える。

「……時間がない」

 Aも拳を構える。

 どうしても彫元さんもどきの着ていたスーツとAのスーツの圧倒的な違いが気になるが……この状況じゃそんな質問もできないだろう。

 後ろに気配を感じた。殺気だ。

「伏せて」忍逆が静かに叫ぶ。俺は伏せる。目線だけはAに止めたまま。頭上を何かが通り過ぎる。

 Aが倒れた。

 伏せた俺の上を忍逆が飛び越える。Aのもとに駆け寄る。

「どこ行ってたんだ」俺を背後から突き飛ばして以来の再会だ。

「再会の台詞がそれ?」Aの身体に深々と突き刺さった矢を抜きながら、忍逆が口を尖らせる。矢? 確かに、右手には大きな弓が握られている。弓道部が使ってそうな大弓。彼女は弓道部なのか? 家から弓を持ってきたのか? わざわざ家に戻って弓矢を取ってきたのか?

「そこまで準備悪いと思ってたの? 心外ですよ真刈君」

「弓矢使うとか考えられるわけないだろ」

「神道には弓がつきものでしょ。神事にも弓は使う」

「巫女だったときの名残か?」

「厳密に言うと、違う」

「じゃあその弓は何なんだ」

「単純明快。護符を使って取り出したの」

「本っ当に何でもありだな、札ってのは」

 彼女は笑うだけ。今の笑うポイントか?

 Aは死んだらしい。札を貼って身体強化した俺でさえまともなパンチが通らなかったのに、彼女の放った矢が簡単に刺さるとはいったいどういう原理なのか。

「武器でなら攻撃が通るってことだね」

 肩透かしを食らうレベルの原理だ。素手ではダメで、物なら良い、と。

「物、というか……私が巫術の原理で作った物に限るけどね」

 彼女はどこから取り出したか、長い槍を俺に渡す。棒の先に両刃が付いただけの言ってしまえば簡素な造りだが……。

「さ、倒しに行くよ」

「誰をだ?」

「あいつら」彼女が指を指したその先。

 ……彼女にはずっとこれが見えていたのか?

 俺は忍逆の記憶が流入したときのことを思い出す。魑魅魍魎と俺が表現したそのものが、荒れ地の中を蠢いている。Aが着ていたスーツと似たようなものを着て、しかも彼らは武器を持っている。

 空を見れば、いつのまにやら変な物が浮かんでいる。入道雲のような灰色をした岩石みたいなそれはただ宙に浮いている。地面に影すら落とさない。日光はあの飛来物を無視して地面に降り注いでいる。雨雲よりも低い位置に浮いているのに。どうして影ができないのか? やはり次元が違うからか?

「……俺も忍逆も、建物の吹き抜けに浮いた状態なのか」

「言わなかったっけ」

「……言ってない」

 その言葉は果たして届いただろうか。彼女は三階の通路を飛び越えて、グライダーのように滑空しながらダッフルコートを翻らせて宙を舞う。舞いながら弓を引き矢を射る。何か舞台装置があって、彼女はそれに吊られているのではないかと考えそうになる。

 矢は見事に百発百中。荒れ地から出てくる敵が次々に倒れていく。

 その向こう側で、あの忌々しい岩石から何かが降ってくるのが見える。

 敵はまだまだいるらしい。

 俺は通路を飛び越えることはせず、三階の階段から駆け下りる。

 忍逆も一階に着地し、尚も矢を射る。矢は尽きることがないらしい。巫術で出せる。巫術の続く限り。

 マンションにたどり着いてきた敵に槍を振るう。

 敵は簡単に死んだ。血を吹き出しながら倒れる。真っ白なマンションの床に鮮血。あまりにも目に悪い配色。

 直後、水滴が頭に落ちるのを感じ取る。それに気づいて上を見る。雨雲だと気づく前に雨が降ってきた。夕立、あるいはゲリラ豪雨。入道雲には気づかなかった。マンションに隠れてここまでやってきたらしい。雨音と雷がマンション周辺に響く。階段の上に屋根はない。つまり「コ」の字の空白部分、階段の全域に雨は降り注ぐ。おかげで階段はあっという間に、滝のようなオブジェに早変わりする。

 全身に服が張り付く。札がふやけて剥がれないか心配だが彼女のことだ。要らぬ心配と言うものだろう。そう信じる。

 とうとう俺はマンションの敷地から飛び出して、荒れ地へと進撃する。槍を振り回して草を薙ぎ払う。敵は目の前に突然現れる。草を薙ぎ払えば敵が現れる。いくらでも現れる。全方位からやってくる。

 槍を振るうと敵が死ぬ。簡単に死ぬ。

 槍が敵を切り裂く。敵は死ぬ。簡単に死ぬ。

 弱い。

 弱すぎる。

 これが「人体の外側」を極めた強さなのかと。何が技術力かと。どうか忍逆の能力が圧倒的に優れているだけなのだと信じたい。この武器の殺傷力が強すぎるだけのなのだと信じたい。同情したくなるまでに弱い。完膚無きまでに弱い。弱い。弱い。

 俺を援護するように矢が飛んでくる。俺の死角にいる敵を射抜く。貫通すらする。

 何が世界レベルでの乗っ取りだ。こんな弱い奴に、簡単に、彫元さんは殺されたのだ。首を切られ、首を持ち去られ、生首でマンションを悪戯に脅かした。怒りが湧く。俺はそれを槍に込める。敵は豆腐を切るように簡単に切れる。草と一緒に真っ二つになる。何が世界レベルで戦う、だ。

 ふざけた造形をした灰色の岩からはまだ敵が降りてくる。雨もまた岩を通り抜けて降り注ぐ。別の世界に喧嘩を売るには早すぎたのだ。早くそれに気づいてほしい。着地と同時に敵を切る。それでも敵は降りてくる。

 ふざけやがって。

 彼女の矢はどこからでも飛んでくる。どこまでも飛んでいく。射程距離に限界はないらしい。

 返り血が付く。雨が洗い流す。だが若干残る。服が少しずつ血を吸い取っている。切る度に奴らは盛大に血を吹き出す。それを浴びる。雨が洗い流す。服が吸い取る。

 雨がまばらになってきた。呼応するように、敵の降ってくる数もまばらになってきた。まばらになるに連れて、敵が強くなっていっているように感じたが、槍を振るえば簡単に切れてしまうことに変わりはなかった。

 槍の刃先を掴んだ敵の手が切れる。弱い上に頭も悪いのか。雨がまばらになってきたおかげで、血の雨の量が比率を増す。血を浴びても雨が洗い流してくれなくなる。それでも俺は槍を振るう。

 地面が揺れる。振り返ると、俺よりも一周りか二周りほど大きな敵が俺の目の前に立ち塞がる。バカか。木偶の坊であることに変わりはない。動きは鈍いし、攻撃だって容易に防げる。

 忍逆は一体どんな術を使ってこんな槍を作ったんだと不思議になる。今更ではあるが。首を切ったら、敵は倒れてしまった。当たり前のことだが、だがあっけなさ過ぎる。余りにも。余りある強さだ。この槍はどうなってるんだ。

 雨は止んだ。

 敵も止んだ。

 岩はまだ浮いている。手を尽くしたか。

 一旦、俺は退散して忍逆の元へ戻る。

 彼女は弓をまだ引いている。

 矢は、あの岩を向いている。

 彼女が弓を離す。

 矢は光の尾を引いて飛んでいく。

 そして岩を貫いた。岩の向こう側で、まだ矢が飛んでいたのが見えた。

 あっけない。何らかの制御を失ったのが一目見てわかるくらいに、岩は落ちていく。地響きがする。地が揺れる。岩は思ったよりも大きかった。低い位置に飛んでいたはずなのに、地に落ちてみればマンションの目の前にまで岩の先がやってきて、向こう側は……どうなっているのかわからないが、おそらく荒れ地の先の道路にまで岩は達していることだろう。それでも、次元そのものは違うのだし、元いた俺たちの世界の次元には何ら影響しないらしい。彼女が言うのだから間違いない。

 自分でも妙だと思っていたが、不思議な安堵感がある。敵を倒したからだろうけど、世界を救った実感があるから、というのもあるだろう。

「あの矢はどこに行くんだ?」

「多分地球一周か二周くらいはするんじゃないかな」無茶苦茶だ。そんなにも強力なのか。

 世界中でこのことが起きているとAは言った。つまりここだけで対処してもダメなのだということでもある。意味がないのだ。その場しのぎでしかない。

 なのにこの安堵。事態は解決していないというのに。

「考えたって無駄だよ。考えるだけ無駄」忍逆が口を開く。だろうね。俺はそう返す。「私みたいな人間が、私しかいないと思う?」

「どういう意味だ?」

「彼女の言ってた「人体の内側」を極めた私のような人間が、私以外にいるわけがない、という意味ですよ真刈君」

 世界中で誰かがこの事態を察知して今も戦ってる、ということだろうか。あの忌々しい岩を落とすべく奮闘している、と。

「……俺たちは一番乗りかな」

「多分」その一言には喜びが満ちていた。

 忍逆が背中の札に触る。同時に目の前の岩が消えていく。服に付いた赤い染みまで一緒に消えていく。あくまでも別次元の代物、ということらしい。

 元の次元に戻っても、豪雨が降り注いだ状態は変わらなかった。次元を貫いて降り注ぐ雨。聴こえは良い。

 俺が槍で薙いだ草は、何事も無かったように荒れたまま生い茂っていた。俺はそれに違和を感じる。おかしくないか? 次元同士が吹き抜けで繋がっていたなら、草だってその影響を受けるはず。

「違うよ。よく考えてみて」忍逆が答える。俺に疑問をぶつけられる前に、彼女は俺の頭の中を覗き見している。声は若干震えていた。ということは雨で凍えたのか。「草が何事もないように生い茂ったままということは……」その先を言うようにと促してくる。

「吹き抜けにある存在じゃなかった……?」つまり、あれらの植物自体が別の次元の存在だった。

「正解です」

「……何が吹き抜けにある存在で、何がそうでないかってのはわからないのか」

「次元の数値を変えて移動してから検証しないとわからないかな。そういう部分はあやふやみたいなんだよね」

 あるいは、無生物であることが吹き抜けにいられる条件の一つかもしれない、と俺は考えてみる。建物の柱だってそうだ。階を突き抜けて存在している。建物を支えている。つまりある程度の次元を越えて存在して、なおかつ影響も受けやすい無生物は、次元の層を貫いて存在し、世界を支えている、ということか……?

「……もしかしたら、そうなのかもね」

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