小春

村上 ガラ

第1話

 小春はたもとをまさぐった。さっき廊下で聡一郎とすれ違ったとき、彼が小春の袂に何か投げ込んでいったのだ。


 今は昭和の初め、まだ街の往来に人力車が行きかう頃の話である。


 小春はこの春、高等小学校を卒業してまもなくの15歳で、色白の丸顔に大きな瞳をした小柄な娘で、田舎の実家から此処、横浜に奉公に出されていた。奉公先は貿易商社「大沢」で、たな付き女中という位置づけであった。大沢は元々江戸で元禄のころより営んでいた唐物問屋を祖とし、金港の開港とともにこの横浜に拠点を移した老舗中の老舗であった。よって、大沢は小春のような端の女中にまでとてもしつけの厳しいおたなであった。何より取り扱っている品々は大変珍しい高級なものばかり、お買い上げいただく方々もまたしかり、上流の皆様ばかり、いつも身だしなみを整え、見苦しいことのないように、と上女中からやかましく言われていた。仕事は大変厳しく、朝早くから夜遅くまで休みなく、一日中くるくるとこまねずみのように働いた。だが、そんなつらい労働の毎日でも、大沢で働くことは小春に取って大きな喜びでもあった。日々商う舶来の品々、絨毯、絹地、レエス、香水、万年筆、金時計・・・。小春は山村育ちで、いままで目にする美しいものといえばせいぜい四季折々の花々くらいのものであった。大沢は小春にとって夢のような世界であった。大沢で働くことがなければ、一生縁のない美しい品々をたとえ自分のものにできなくても、目にし手に触れることができた。小春は大沢を愛し、少しでもお店の役に立てるようにと日夜努力した。


 そして、それらの品々と同等か、それ以上にあこがれるものが大沢にはあった。大沢家の一人息子、聡一郎である。聡一郎は帝大の学生で頭脳優秀、眉目秀麗を絵に描いたような男であった。本妻の子ではなかったが、そちらには子がおらず、だれもがいずれ大沢の後を継ぐともくしていた。


 袂に放り込まれたものは、大学ノオトの切れ端で「遊園地の象に十時」とだけ書いてあった。


 遊園地とは、先ごろ、街はずれに突如として現れた遊戯施設のことだった。美しいヨーロッパ風の門があり、中にある建物もみな洒落ていた。中でも目を引くのは、カルウセルという木製の馬や馬車のかごが円形の台座にたくさん並んでおり、人々がその馬や馬車に乗り込んで、円形の台座ごと、クルクル回る夢のように美しい乗り物であった。その木製の馬や馬車に混じって一つだけ白い象のかごがあった。象の背中がくりぬかれた形のかごになっており、三人ほどが腰掛けられるようになっていた。だがそれはなぜかいつもしっかりと網がかけられ、誰も乗ることができなかった。どんなに混雑してもその網が外され、白い象がその背に誰かを乗せることはなかった。そこで人々の間にある噂が広まった。「白い象に乗って祈ればその人の願いはいつか叶う。」と。


 聡一郎が書いているのは、その白い象のことだと小春は理解した。小春は大沢に来てまだ日も浅く立場も一番下だった。信頼して相談できるような友人もいなかった。小春は一人で考え、聡一郎の呼び出しに応じることにした。


 その日も夜遅くまで仕事は続き、やっと抜けることができたのは、もう時計の針が十時にかかろうとするころだった。小春は大急ぎで遊園地に向かった。遊園地につくと門はしっかり施錠されて、中に入ることができなかった。小春が門の前で迷っていると、「こっち。」と声がした。見ると薄暗がりの中、聡一郎が立っていた。「遅れてしまって・・・。」小春は聡一郎にわびた。聡一郎は何も言わず小春の手を取り遊園地の塀に沿ってあるいた。そして「ここ。」と言った。見ると塀に一か所穴があり中に入れるようになっていた。小春は薄暗い二日月の明かりの中、導かれるまま中に入り遊園地の中をカルウセルまで進んだ。そして白い象にたどり着き、網を上げて中に入り込んだ。


 「坊ちゃま、いいんですか、こんなこと。此処の人に叱られるんじゃ…。」「誰も見てない。」網をもとのようにかぶせるとすっぽりと空間が覆われ、薄明かりの中、誰に見られる心配もなかった。








 すでにアメリカとの戦争が始まっており、贅沢品を扱う大沢の家業は少しづつ傾いていった。何より貿易という業種は他国と通じているということでスパイ容疑をかけられかねなかった。商売替えを余儀なくされて、酒造や株に手を出してみたがうまくいかなかった。そんな中、学生であり、一家の長男であると言う理由で兵役免除の対象であった聡一郎にも召集令状が届いた。小春はカルウセルの象の中で、聡一郎に逢うたびに「坊ちゃまと離れませんように、ずっと一緒にいられますように。」と祈ったが、無駄だったということだ。「お国のため命を捨てる覚悟であります!」そう言って聡一郎は出征していった。小春が奉公に来てから二年が過ぎた頃であった。


 聡一郎が出征して間もなく、小春は自分の身体の変化に気が付いた。身体がだるく食欲がなく、何をするにも億劫で・・・そして月の障りが来なくなっていた。


 間もなくそのことは周囲の目にも明らかなこととなり、上女中から進言があり、奥によばれ、暇をだされた。ふしだらな女は大沢にはおけぬとのことであった。相手は誰かなどと尋ねられることもなかった。


 風呂敷包みひとつで大沢を出された小春は、それでも必死に生きた。それは聡一郎と交わした約束があったから。・・・・・・この先、生きて戻ることができれば、必ず毎月初めの一日ついたち朔日さくじつにあの遊園地の門の前で待っている。何年でも何十年先でも・・・・・・。聡一郎は出征前にそう言ってくれた。無口で、逢瀬を重ねてもあまり語り合うことのなかった聡一郎が・・・。








 遊園地はすでに閉ざされており、遊具も無くなっていた。金属供出に出されたのだという噂だった。それでも、毎月の朔日、そこに残された門扉のまえで小春は待った。


 そんなある朔日、小春が門扉の前に来た時、サイレンが鳴り響いた。空襲警報である。爆弾は空から降り注ぎ遊園地の門番小屋に火が付いた。そして遊園地の周りの建物に次々燃え移っていった。小春は炎の中を必死に逃げ惑った。もう一度坊ちゃまにお会いしたい、その一念で・・・。








 何度この場所に来ただろう。もう何年たったのだろう。小春は今日も今月の朔日ということで、遊園地の焼け落ちた門の前に来た。金属の部分はほとんど供出され、木製の部分は焼け落ち、コンクリート製や石造りの部分が残っているだけだった。辛うじて、ここにかつては遊園地があったということがわかる状態だった。


 戦争は終わっていた。だが聡一郎はなかなか戻ってこなかった。大沢はとっくにつぶれ、空襲で焼け落ち、跡形もなかった。聡一郎につながるよすがはもうこの場所だけだった。


 あの戦火の中で産んだ子は小春の腕の中でよく眠っていた。


 その時、向こうから小さな子どもを連れた夫婦らしき男女がやってくるのが見えた。妻は小春と同じくらいか、ほんの一、二歳ほど年かさに見えた。夫のほうがこどもを肩車していた。


 二人が目の前を通り過ぎる時、小春は飛び上がらんばかりに驚いた。その夫の顔が聡一郎だったのだ。小春はあまりに驚いたためか身体が動かなかった。そのとき妻のほうが立ち止まり、ふと口にした。「ここって、昔、遊園地があったんですのよね。」


 「ああ、ずいぶん昔の事だけどね。」聡一郎が答えた。それから「あの頃は実家の家業も隆盛で、僕は坊ちゃまなんてよばれていたなあ。」と言った。


 「あなたがですか?」妻が朗らかに言った。


 「ああ。」聡一郎は遠い目をして、「あの頃は世界が自分を中心に回っているように思っていたよ。世間知らずのくせに人を見下して、いやな男だった。」そして「母親が正妻で無かったので余計ひねくれていたのかもしれない。」と付け加えた。


 妻は思い過ごしをなさっているのでは?と笑顔を向けたが、「いや、」しばらく下を向いたのち「自分の立場を利用して、目下のものを、もて・・・。」そこで言葉を切って言い換えた。「目下のものに、ひどいことをしたこともあるんだ。口から出まかせのことも言ったな。」聡一郎は何かを思い出しているようで苦い顔をした。


 「まあ。」妻のほうは夫の様子に戸惑い、言葉をなかなか継ぐことができないようだった。が、しばらくしたのち「父が言っていました。」と話し始めた。


 「父が言っていました。あなたは大変な努力家でいらっしゃるって。それで戦後の大変な時代に大沢を株式会社として再興させることができたんだって。」夫を思いやって言っているようだった。聡一郎は、ふっと小さなため息をつき、「ありがたいことだな。何より戦前の外国との取引先とのつながりや、大沢の家名を覚えていてくださる方々がいらっしゃったからな。」と答えた。


 「それに、立派な学歴もおありになるわ。父が言うにはそれも努力家の証ですって。」


 「運もあったしな。」


 「ご謙遜。でも、自分を客観的に見ることができる人は強いそうよ。」


 聡一郎はやっと少し落ち着いた様子で、「それも、お父さんが言ったのかい?」と笑った。


 妻のほうは少し考え、「まあ、そうですけど。」いったん言葉を切ったのち、「今は全部、私がそう思っているんですのよ。」と言った。


 大変仲睦まじい様子の夫婦であった。小春は思った、坊ちゃま、大沢を再興なさったのですね。坊ちゃま、こんなにも優しく、賢く、美しい奥様を迎えられたのですね、と。


 もとより、戦前の女中である小春は自分が正式な聡一郎の妻になれるとは思っていなかった。それは身分違いというものだ。たとえ手に触れることができたとしても自分のものにならないのは聡一郎も大沢の商う商品も同じことだった。


とはいえ、小春の気持ちも完全に純粋というわけではなかった。聡一郎が貧しい農村の出身で、口減らしも同然で奉公にに出された小春にとって、聡一郎との関係は、貧しさから抜け出す、唯一のつなでもあった。生きていくために、何としても聡一郎を手離すわけにはいかなかった。聡一郎が大沢を再興したというのなら、戦前の習いからすれば、妾となり支店の一つも任せてもらえるかもしれなかった。大沢にいたころに、一号店、二号店と店を広げるたびに新しく妾をもち店を任せる他家の旦那の話が武勇伝のように語られていたのを覚えている。自分には店付き女中としてやってきた経験も知識もある。何より自分と聡一郎は子どもまでなした仲だ。この子のことを知ってもらおう。


 「坊ちゃま・・・。」小春は勇気を出して聡一郎に話しかけた。聡一郎はちらとこちらに目を向けたが何も答えてくれなかった。何度か試みたが同じであった。「奥様。」小春は今度は妻に話しかけてみた。美しい妻は全く自分のほうに目を向けてくれなかった。小春は自分の身なりがあまりにみすぼらしく警戒されたのかもしれないと思った。育ちのよさそうな美しい妻はきちんと着物を着、帯を締め、髪をまとめ、香水の香りもした。はめている指輪の石はルビーだろうか。それに引き換え自分の格好は戦火の中を逃げ延びたころと変わらず、着た切り雀のあわせにもんぺであった。もちろん大沢で厳しく身じまいをしつけられた小春は袷のえりを正し、もんぺも見苦しく下がらないよう、身だしなみには注意していたつもりだが、自分の姿はいくら戦後の混乱期といってもひどかった。


 このままでは置いて行かれる、と小春は焦った。聡一郎をつかまえなくては。「坊ちゃま。」小春はもう一度呼びかけた。「私です、ねえ、ねえ、見てください、この子はあなたの子どもです。」聡一郎に腕の中の赤ん坊をを差し出した。見てください、お願いです。あの遊園地のカルウセルで、白い象の中で授かった子です。


 聡一郎は小春を見ず、何か考えているようだった。小春は憤った。こんないわれはない。こんなこと許さない。わたしはすべてをささげたじゃないか。聡一郎にも。大沢にも。「坊ちゃま。」小春は子どもを片方の腕で抱き、もう一方の手で聡一郎の身体に手をかけ、ゆすった。「坊ちゃま、坊ちゃま、坊ちゃま。」その時聡一郎が妻に向かって晴れやかにいった。「もっと頑張るよ。君のためにも、子どものためにも。でないと、こんな年寄りに君を任せてくれた、君のご両親に申し訳ない。」


 何かが、おかしい・・・。小春は思った。おかしい、おかしい、なぜ、なんで?声をかけても気づいてもらえない。身体に手をかけてゆすっても振り向いてももらえない。なぜ、なんで?そう、そういえば、なぜ、私は坊ちゃまを見てすぐに気づかなかった?ずっと待っていたその人なのに。小春は聡一郎を見た。よく見た。すると聡一郎は髪に白いものが混ざり、顔には深いしわを刻んでいた。どういうこと・・・?なにがあった?・・・なにが、なにがおこった?


 その時、頭の中にゴオーッという音が響き、からだは熱風に包まれた。そうだ。思い出した。あの日、私は死んだのだ。








 あの日、遊園地の門の前で空襲に巻き込まれた小春は、臨月を迎えていた。炎の中逃げ惑いながら遊園地の門の前で産気づいたのだ。炎に包まれながら産み落とした赤ん坊は、へその緒を切ることもできず地面の上に転がっていた。泣き声も上げず、動くこともなかった。死んで生まれたのだと思った。自分ももう動くことができず子供を抱き上げる力さえなかった。が、炎が迫り、子供に火が付いたとき、死んでいると思っていた子がけいれんし小さく声を上げた。生きていたのだ。生きて産まれていたのだ。母に抱かれることもなく、父の顔を見ることもなく、いやその父にこの世に存在したことさえ知られず、今、燃えて死んでいこうとしているのだ。火がへその緒を伝って小春にも炎が移った。へその緒がつながったまま二人は死んだ。


 あの日のことがよみがえり怒りの嵐が吹き荒れた。小春の髪は逆立ち、周りの木々がざわざわと揺れ始めた。


 「おや、風が出てきたな。」聡一郎が言った。


 あれから何年過ぎたのか。・・・違う、十何年?いや、もっと?数十年?あれから何度、毎朔日を迎え、ここに立ったのだろうか。私は死んだ。死んでいるのだ。ふまれ、さげすまれ、もてあそばれ、捨てられ、私は死んだ。私の子は死んだ。だから、私の子はずっと生まれ落ちた赤ん坊のままだ。


 小春は聡一郎につかみかかった。こっちを見て。


 「あなた、どうなさいました?」


 「いや、肩がね、重くて。」


 「たけしを降ろしましょう。」


 妻が子どもを受け取り、手の空いた聡一郎は自分で肩をもんだ。


 「お疲れなのでしょう。帰ったら、おもみしますね。」妻が言った。


 -------わたしは死んだ。わたしは、もう、いないのだ-----------


 小春の思念は、激しい恨みの感情となり、燃え上がり、嵐を引き起こした。


 あたりはにわかに黒雲が立ち、強い風が吹き始めた。


 「雨になりそうね、急ぎましょう。」


 聡一郎の妻が、聡一郎を促した。


 小春はあいている片手で聡一郎に殴りかかり、髪をつかみ、暴れようとした。だが、今は握りこぶしは空をつかむようにすり抜けてしまう。小春は妻にも同じようにつかみかかった。だが健康な精神の妻は全く何も感じないようだった。


 妻の抱いている幼子が何かを感じて泣き声を上げた。「おお、よしよし。どうしたの。」妻がなだめても子どもはますます激しく泣き続けた。その泣き声は小春には拷問だった。子どもが泣き声を上げるたび身を引き裂かれるような苦しみを感じた。「うぅ・・ぐぅ・・・泣かないでぇ、お願いぃぃ・・・!なあーかあーなあイイィィィーーでェェー・・・・!」小春は渾身の力を振り絞って叫んだ。


 雷鳴が響いた。


 聡一郎にも、その妻にも見えなかったが、雷は小春の叫びをかき消すように小春の上に落ちた。


 まるで、神の罰か、あるいは仏の慈悲のように。


 「近かったですね。」妻が雷鳴におびえ、子供を片手で抱き直し、空いた片手で聡一郎にすがりつきながら言った。


 風が止んだ。


 子供も泣き止んだ。小春の怒りは鎮まった。


 小春の中の何かが抜け落ちていった。


 小春の目は静かに聡一郎のほうにむけられた。


 その目は今までの小春のものとは違っていた。


 小春はもう何かを考えるということはなかった。小春は今や袷の襟は緩み、乱れ、乳房が半分みえかかっている。もんぺのひももほどけ、だらしなく下がっていた。髪はそそけて逆立ち、皮膚は茶色く変色し、その目は落ちくぼんで鈍く底光りしていた。


 もう、身じまいを正すこともしなかった。小春はそういう、もの、になったのだ。


 小春は聡一郎のほうを向き、両腕で子どもを抱きなおした。そして、そんな状態でも、大沢でしこまれ、身についたしなやかな動作でスッと上に飛んだ。そして、きちんと正座して聡一郎の肩にストンと乗った。だが、腕には子供を抱えている。きちんと正座していては、やはり不安定で落っことされかねないと気付いたのか、膝を開き、聡一郎の首の付け根をしっかりと両脚の間に挟み込んだ。決して落とされないように。・・・もう二度と離れない、ずっと一緒・・・この一念だけのものに小春はなったのだった。





 「あなた、だいじょうぶですか?」妻が心配そうに聡一郎にきい聞いた。聡一郎は肩をもみ、首をもみ、肩を回した。


 「うん。まあ、大丈夫だろう。」聡一郎は妻に笑顔を向けた。そして、かつて多くの人を楽しませた遊園地の焼け跡の長い塀に沿って、小春を乗せたまま歩いて行った。


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小春 村上 ガラ @garamurakami

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