第77話『2+2=5』
特異点は満身創痍の状態で、その場に腰を下ろし、重い溜息と共にあぐらをかく。
ビジターの医療レベルは、特異点が産まれた世界の基準を、遥かに上回るものだった。
しかし受けた傷は癒やせても、心の傷は容易には治せない。特にビジターはナノマシン――つまりインターネサインに依存しているからだ。
ビジターは純粋な観測を行うため、そして社会を円滑に運用すべく、感情を切り離した者たちである。極論ではあるが、つまり彼らにとって感情とは、任務遂行において障害となる一要因であり、ある種の動物的な不順要素と捉えていた。
人と人との衝突を避け、論理的に考え、もっとも最適な効率で物事や社会を運用する者たち――ビジター。
感情を機械的に分析し、相手の行動パターンを読み解くことはできる。しかしその弊害として、心の奥にある感情の本質。その部分を理解できなくなっていた。
必要なものは発展するが、だれからも必要とされないものは衰退する。そのためビジターの世界にはメンタルヘルスという概念に希薄で、その類の医療分野は情報として残っているだけだ。
特異点の負った傷は癒せた。
しかし目に見えない心の傷からは、血が流れ、今も流血している。
とくにレオナの放った最後の言葉。その言葉のナイフは、特異点の心に、深く突き刺さっていた。
特異点は言葉のナイフを引き抜くため、
「あなたという存在が、誰からも必要とされていない――か。どギツイこと、サラリと言ってくれるぜ……」
深い沈黙の
特異点は不敵な笑みを浮かべる。
この笑みは強がりであり、偽物の笑みだ。
そんな偽りの笑みであっても、血まみれの心の傷ぐらいは、洗い流すことぐらいはできる。
過去の記憶が欠如しているが故に、大罪人かもしれないという恐怖を抱いてきた。そしてそれでも、善き人であろうと努力し、常に最善を尽くしてきた。
――大罪人と英雄。相反する2つの可能性の狭間。
明確な答えのない、正と負が入り交じる混沌とした状態。記憶のない空白の隙間に、まるで染み込むかのように疑念を抱かせ、心を腐敗させる。
彼自身が最悪の決断を下してしまう前に、特異点は自らを奮い立たせ、頭によぎった邪念を振り払う。
その決断をしてはならない。“ まだ自分にはやるべき事がある ” “ それは自分にしかできない事なのだ ” ――と。
「例え誰からも必要とされなくても、見棄てられ、疎まれ、嫌われ、いわれのない非難に晒されようとも……――。まだだ。まだ終わるわけにはいかない。為すべきことを、為すまでは……」
彼は悲しげな瞳で四脚型のUGVを見つめながら、レオナの言っていたセリフを呟いてしまう。
「オーウェリアン――……か。まさか このビジターの世界で、ビジターの口からディストピア系文学のワードが飛ぶとは思わなかったな。 ――ん? オーウェリアン?」
オーウェリアン
その言葉を耳にした途端、特異点の脳裏に、なにかの歯車が噛み合った感触が広がった。そのたった一つの感触が、瞬く間に全体へと広がる。
特異点は心の中で考えを張り巡らす。そして欠けていた部分に歯車を入れ、一つ、また一つと埋めていく……
小説家ジョージ・オーウェル。彼の本名は、たしか……アニメの名前を継ぎ接ぎしたような、スマートなネーミングだった。
あー、なんだったっけか。
エリオット?
いや違う……エリなんとかだったな。
エリ エリ…………――エリック!
そう! エリック・アーサー・ブレアだ! 待てよ待てよ待てよ。もしかしてメモに書かれていたアルファベット――
E .A. B 。
これってジョージ・オーウェルの本名エリック・アーサー・ブレアじゃないか?
だとするとメモに書かれていたあの文、『結局、悪神はその数値に等しいと宣言することができ、あなたはそれを信じなければならない』っていうのも……
――ああそうだ! 間違いない! 改変されてはいるが、著書の『1984』に似たような台詞があった! 共産主義や社会主義を揶揄した、あの一節じゃないか!
レオナの吐きかけた
特異点は原作に
「なるほど。2+2=5 か。
ジーニアス・クレイドル。
あんたすげぇよ。
ビジターでありながら、ビジターの弱点を理解している。
非合理性を嫌い、ガチガチの論理的思考で物事を判断するビジターには、仮にこのメモを見たとしても、解けないはずだ。思考のベースは論理であって、なにかの法則やアルゴリズムに当てはめようとする。機械的に、マニュアル通りに……
だから解こうとすればするほど、問題が難しくなって、かえって解けなくなる。ドツボにはまるんだ。
だがトリックアートのように、見方を変えれば、こうして単純な連想ゲームだと気付くことができる。ジーニアスは、これをすべて計算していたのか? 俺なら解けると信じて?」
職業柄なのだろう。特異点は『もしも俺が、オーウェリアンを知らなかったら?』『もしも1984 を、知らなかったら?』と最悪の事態を考えつつ、次の課題に思考を移す。手に入れた
「残る最大の課題は、このメモがなにを意味するかだ。おおよその憶測は着くが、こればっかりは実際に試してみないと、なんとも言えんな」
あぐらをかいていたジーニアスは、「よっこいしょ」と立ち上がる。
その時だった。
遠方でクラクションが鳴り響く。
特異点がその方向へ視線を移すと、彼の瞳に巨大な装輪装甲車の姿が映る。エイプリンクスが心配し、装甲車で迎えに来たのだ。
「わざわざ時空潜航車でお出迎えか。少々遅かったが、良い判断だよエイプス」
特異点は人知れず感謝を告げると、装甲車に向かって笑顔で手を降る。
時速100キロで走行する装甲車――その名はシャドーヴォルダー。ある時空の保障機関が、極秘裏に開発していた大型車輌。そのデータを元にデュプリケーターで複製し、独自の改良を施したものだ。
全長13.5メートル、全幅6メートル、全高4.5メートル。
平均的な装甲車の約二倍近いサイズを誇る、無骨な猛牛である。
鋼鉄の猛牛は軽くドリフトしながら停止し、拡声器を使って語りかけた。
『戦闘用多脚戦車の残骸?! ここで いったいなにが!?』
特異点は両腕を広げで自身の無事をアピールしつつ、転がっている多脚戦車を、足先でつんつんとツツく
「手術成功 祝いのサプライズだそうだ。まいっちまうよな」
『――まさか! 交渉調達局の……レオナか』
「大正解。まぁ、なんだ。本気で殺しに来なかっただけでも、ありがたいと思おう。ところでエイプス。そこのシャドーヴォルダーから、ジーニアスの個人ファイルへアクセスできるか?」
『できるが、肝心のパスワードが―― もしかして分かったのか!』
「目星はついた。しかしこれが 新たな謎か、それとも正解か、はたまた俺の勘違いか。そればかりは、試してみないと分からん」
『あのメモは君に宛てたものだ。君の趣味趣向を研究し、君にしかしか解けないよう細工を施した可能性が高い。正解であることを祈ろう』
「祈る? エイプリンクス、祈っても結果は変わらん。なぜなら神は死――」
『フリードリヒ・ニーチェのツァラトゥストラか? 確かにその意見は正しいのかもしれない。だが君からその言葉を聞く度に、末人へ片足を突っ込んでいうように思えてならんよ。私は本に書かれた知識や言葉ではなく、君が思う、君の意見が聞きたい』
「……すまない。あの出来事があって以来、どうもマイナス思考になっていてダメだな。ニーチェ著のツァラトゥストラは、そもそも悲観ではなく、読む者へ希望を授ける一冊 ――生の肯定だった。著者が訴えかける
『そうはさせんよ。例え神が君を見放そうとも、我々がいるからだ。末人になろうが超人になろうが、最後まで共に歩み、どんな状況でも救ってみせる。あの時 君が、私にしてくれたようにね』
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