第57話『海辺にて……【後編】』
男は、ふと海へ視線を向ける。誰かに呼ばれたような気がしたのだ。
だがそこには誰もいない。ただ波が打ち寄せては引き、新しい魚や蟹などの死骸を砂浜へと無造作に置いていく……
まるで黄昏れているような男。そんな彼に、金髪碧眼の幼女は尋ねる。
「どうしたの?」
「あ、いや……――今、誰かに呼ばれたような気がしたんだ」
その言葉に対し、少女はなにも告げない。海を見つめる男の横顔を、どこか淋しそうに見つめていた。
すると曇天から雷鳴がゴロゴロと轟き、一筋の稲妻が海面へと落ちる。
数秒の間を置き、炸裂音が浜辺へと届く。
そして再び雷が天を裂き、閃光が眩い光を放った瞬間―――男の脳裏に、映像の断片が去来し、頭痛に襲われる。
周囲の音を掻き消すほどの耳鳴りが、男の聴覚を占領した。
キィイィイイィイイイ――――――――ン………
頭痛によって併発した目眩いが、男の足を絡め取る。
男は片膝を地に付け、苦痛に顔を歪ませてしまう。
幼女は心配そうに――それでいて悲しげな表情で、男に歩み寄って訪ねる。
「大丈夫?」
「今のはなんだ? 一瞬だったが……
見えたといっても、それはほんの
男は、その刹那の情景を可能なかぎり思い起こし、自分が目にしたものを幼女に伝えた。
「女の子が透明な壁? ……いや、ガラスを何度も叩いて叫び、なにかを訴えかけていた。だがその後すぐ、何者かに……角の生えた女性に殴られて――」
男はそう言いながら、殴られた頬を確認する。まるで頭に過ぎった映像が現実であったかのように、頬に痛みの残滓があり、仄かに火照っていた。
すると彼の口端から、つぅと、血が流れ落ちた。男は親指でそれを拭い取り、自分の目で確認する。
「血? あれは幻のはずじゃ――」
疑問を口にした男。それを遮るかのように、幼女は海に視線を向けつつ、語りかけた。
「少し……休んだら? もうずっと歩き詰めだったのよ。宛もなく、ただひたすらに終わりの見えない道のりを歩き続けた。休んだって……誰も文句は言わないわ」
療養を提案されたが、男は上の空だった。
殴られたせいだろうか。どこか現実味のない夢のような感覚だったものが、次第に鮮明さを取り戻し、思考が整えられていく。曖昧な世界――ぼんやりとした意識が覚醒し、目の前の世界を正確に捉え始めたのだ。
夢の中――それは、どれだけ滑稽で怪しいものでも、まずは現実として受け入れる傾向にある。
この世界もそうだ。
積み木で遊んでいた黒髪の幼女。それと入れ替わるように現れた金髪碧眼の娘。そして海岸に流れ着いている大量の海洋生物。
この世界のなにもかもが、不自然かつ奇っ怪で、何一つとっても現実味がない。現実にとって欠かせない、生々しい汚らしさがないのだ。
誇張された現実に佇む、漠然とした空虚さ。
男は金髪碧眼の幼女に、この世界の本質――核心に触れる質問を口にしようとした――しかしその問いは、投げられることはなかった。その幼女が忽然と姿を消したのである。
それが始まりだった。
地鳴りと共に空が赤く燃え、海が荒れ狂う。まるで世界そのものが断末魔を
男は海岸から離れ、陸地に向かって走る――ほどなくして、多くの海洋生物が横たわる沿岸は、津波に呑まれてしまう。徐々に水かさが増し、海面の水位が上昇していった。
荒れているのは海だけではない。大気は戦慄き、先程とは比べ物にならない雷鳴が、大地へと次々に突き刺さっている。
その光景に、男は思わずこんな言葉を口走ってしまう。
「まるで この世の終わりじゃないか……」
それを象徴するかのように、空から鳥が落ちてくる―― 一羽や二羽どころではない。海岸同様、夥しい量の鳥が雨のように降り注いだ。
「うっ?!? さっきまで鳥なんて飛んでいなかったじゃないか!!」
男は鳥の雨と津波から逃れるため、海から離れ、より内地に向かって走る。
目指すは小高い丘だ。
それが正しい選択だったのだろうか。鳥の雨は止み、荒れた大気もほんの僅かであるが穏やかになった。
丘の最頂部に差し掛かる前に、何者かを声を耳にする。
「危険です!」
「姫様!」
「行ってはなりません!」
――女性や男性の発っした警告。やまびこのように響いて来た ただならぬ声。男は何事かと、丘の頂上を目指して走る。緩やかな丘とはいえ、とても長く、不穏に感じた。
そして彼が丘の頂上で見たもの――それは、紅蓮のナイフで胸を貫かれた、幼女の姿だった。
膝をついていた幼女は、今まさに、黄金の髪を靡かせながら倒れようとしている。
男は幼女に向かって走り出したが、距離が遠すぎたため、彼女を受け止めること叶わず、間に合わなかった。
トサッ!
荒れ地に倒れる幼女。男は仰向けに倒れた彼女を抱き起こし、その名を叫ぼうとする――だが彼にそれはできなかった。なぜなら、彼女の名を知らなかったからだ。
男は、幼女に突き立てられた、赤き灼熱の短剣に手を伸ばす。そしてそれを、慎重に引き抜こうとする。
本来なら この行為は、大量の出血を伴うため医療設備のない場所では厳禁だ。しかしそれ以上に、短剣から放たれる禍々しい
ただならぬ
――直感とは違う。まるで別の誰かの思考が流れてくるかのように、彼の心へ訴えかける。
男はその意志に従い、慎重に、ナイフのグリップへ手を伸ばそうとした。
その時だった。
仰向けで横たわっていた幼女――その手が男の手首をガシッ!と掴んだのである。
「――――ッ?!」
まるでホラー映画のワンシーンのように、男は喫驚と共に息を呑む。
突如として腕を掴まれたのにも驚かされたが、それ以上に、何事もないようにクスクスと笑っている幼女は、純粋にホラーだった。
金髪碧眼の幼女は、口端から血を流しながらも『安心して』と笑顔で告げる。
「大丈夫。なにも心配はいらないわ」
「だ、大丈夫?! 冗談を言っている場合ではないだろう! 君の胸にはナイフが刺さっているんだぞ!」
「ええそうね。このナイフは、本当に厄介なものよ。でも物理的な痛みなんて些細なもの。
それよりも厄介なのは、ナイフに施されたパッシブスキル……いいえ、スキルなんて生優しいものなんかじゃない、か。
“呪い”……そう、怨念と憎悪を縫い合わせて造られたかのような、灼熱のナイフ――それに施された殺意は、刺した対象の魂を蝕み、確実に崩壊させていく。こればかりは本当に厄介極まりないものなの」
「そんな危険なものなら早く抜かないと!!」
焦る男とは対象的に、幼女は諦めと懐かしさを孕んだ瞳で、優しくこう告げた。
「それはね、無理なのよ……。やろうとはしたけど、この呪いは解呪することはできなかった。このナイフはね、勇者にしか抜けない
幼女はナイフを胸に刺したまま、平然と、まるで他人事のように「やれやれ困ったものね」と語る。
そんな姿を目にしつつ、男はこの世界の本質を口にする。
「やはりこの世界は……現実ではない。おそらくここは、
「そういうあなたは? 自分の名前、ちゃんと思い出せた?」
「名前は……残念ながら未だ思い出すことはできない――だが一つだけ、思い出したことがある」
「なに?」
「由来人の神話――いいや、あれは神話や伝承ではなく、おそらく実際にあった紀元前の歴史なのだろう。
魔王と勇者の戦いの末、世界は崩壊。死に満たされた。
最後の勝利者となった魔王たちは、すべての叡智を結集させ、死んだ世界を再生させた。自らのすべてを生贄として捧げて……」
「う~ん、おしい。ちょっと違うけど、まぁ、だいたいそんな感じね。これだけ年月が経っていても、それだけの誤差で済んでいるのは上々ね。みんな優秀でほんと助かった」
「やはり
金髪碧眼の少女は、問いに答えることなく、誤魔化すように「たいへん!忘れてた!」と叫び、早口でこう捲し立てた。
「ああそれと! ここは理の世界でも、誰かの記憶の中でもないの。もっとお喋りしたかったけど、もう……時間がないみたい。だから要点だけ手短に伝えておくわね。今、向こうの世界で戦っているあの娘、泳ぎが苦手みたいよ。そこを突けば、膠着状態をなった盤上を、ドカン!とひっくり返せるかも!」
「あの娘? 泳ぎ? 待ってくれ、なんの話だ。そもそも君は、私の質問になに一つ答――」
金髪碧眼の少女が、指をパチンと鳴らす――次の瞬間、小高い丘も鳥の死骸も、海も、空さえも一瞬で消え失せた。
残されたのは満天の星空――遊色効果を綺羅びやかに披露する星雲。そして正装に身を包んだ、在りし日の創世の魔王だった。
そして彼女の足元に、一際巨大な魔法陣が展開する。
魔王は慈しみを持った瞳で、男に別れの言葉を告げた。
「私はこの世界から出れない。もう戻ることはできないの。みんなのこと……そしてルーシーをよろしくね。わたしはここで
男の意識が白転する。すべてが真っ白に染まり、気がつくと地下闘技場と思われる場所にいた。
突然の出来事に、男はわけも分からず、ただただ困惑する。
「ここは? いや待て、見覚えが……」
男は周囲を見渡すために、顔を上げた。すると視線の先に、一人の少女がいたのだ。黒髪の少女は透明な壁を叩き、しきりに、なにかを訴えかけている。
「デジャブ? いや違う。もしかして これは――」
男は左頬めがけて飛んできた拳を、間一髪で受け止める。そして彼は近接戦を挑んできた女性を、キッと睨みつけた。
その鋭い視線に、角の生えた女性は楽しげに笑いつつ、見下すような視線を浴びせ返す。
「どうやら、意識が戻ったようだな。 ジーニアス・クレイドル!!」
男は放たれた名を重く受け止め、しっかりと噛み締める。それは間違いなく、自分の名前だった。そして自らの名を耳にした途端、すべての記憶が鮮明に蘇る。
自分が何者で、なんのためにここに居るのかを……
そして角の生えた女性こと、ゼノ・オルディオスに謝罪を叩きつける。ほんの少し捻りを加えて。
「これは大変 失礼しました。お待たせして申し訳ありません。どうやら
ほんの少しの捻り――それは、ジーニアスがこれまで口にすることのなかった、“皮肉と嫌味”であった。
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