第36話『奴隷の少女』



 少女は被災した街を走る。



 フェイタウンの裏路地を亜人の少女が駆け抜けていた。彼女の名は、エリシア。獣の耳と尻尾を持つラクーン種の亜人である。



 彼女は、人として当たり前である 人権はない――奴隷なのだ。



 エリシアはフェイタウンに住む奴隷ではない。そもそもこのオルガン島全域において、奴隷制度はなく、奴隷の売買は違法なのだ。つまりエリシアはこの島の出身ではない。



 エリシアは、セイマン帝国の勇者――氷室伸之によって保護され、買い取られた奴隷だった。



 そして今、彼女は御主人様である氷室のために、フェイタウンを疾走する。その胸には数枚ではあるが、ビラが抱えられていた。




『今ある偽りの宗教を、すべて捨てましょう! 


   貴方に寄り添い、世界を救う宗教は唯一つ!


       『翼人の集い』こそ本物の宗教です!


            未来と平和のために改宗を!』




 ビラには、他の宗教への侮辱とも取れる、過激な文言が書かれていた。



 少なくとも創世の魔王を崇拝するフェイタウンで、あらゆる既存の宗教を根底から否定する行為は、原則禁止されている。



 他の宗教を口にする時は、慎重に、かつ、内にある偏見や感情と距離を置いて話す――それが最低限の礼儀だった。



 軽々しくそれを口にすれば、宗教的対立を煽りかねない。



 人や種族、文化的なものもあるが、宗教と人との繋がりは深い。下手な批判は、それを崇拝する人の人格否定にも繋がってしまう。だからこそ、自分と異なる宗教を語る時は、絶対に軽率な物言いはできないのだ。



 しかし、『翼人の集い』の信者であるエリシアには、そうなる危険性を孕んでいても尚、ビラを配ろうとしていた。




 彼女をそこまでさせるのには、明確な理由がある。




 御主人様である、氷室 伸之を救うためだった。




 彼をより強く――創世の魔王ゼノ・オルディオスを斃すため、エリシアを始めとするセイマン帝国の亜人たちは、フェイタウン中にビラを配り、既存の宗教を棄てさせようとしていた。



 勇者 氷室 伸之の強さは、信仰の力に比例している。



 とくに周囲の人間が、翼人の集いの信奉者であり、その神を尊べば尊ぶほど、勇者の力が増大していく。



 そして亜人の少女たちは、なぜ勇者が負けた理由を考え、この結論に行き着いた。



――勇者の敗因は、魔王を崇拝するフェイタウンにあり。




 魔王を斃すには、一人でもフェイタウン市民を翼人の集いに勧誘する事。魔王を崇拝する彼等の信仰を棄てさせる事こそ、天使と神の与えた使命なのだ。




 セイマン帝国が連れてきた亜人たちは、枢機卿が用意した布教用のビラを手に取り、無許可の布教活動を実施した。




 広場での無断な布教活動。



 だがフェイタウン側の対応は迅速だった。



 アスモデ・ウッサーが指揮を執る、亜人保護部隊である。



 特筆すべきは、彼等、彼女たちは武器を持たない。最大の武器は話術。そして相手の仕草や魔力の流れから、心を読み取るコールドリーディングだ。



 セイマン帝国の布教部隊は、問題を起こす前に、巧みな話術で鎮圧されてしまう。



 違法な布教活動だからといって、気分を害し、怒鳴りつけたりはしない。亜人保護部隊は、奴隷の立場と、心情を理解する者で編成されているからだ。



 保護部隊は聞きに徹し、丁重かつ優しく、そして思いやりで接しながら、セイマン帝国の船まで彼女たちを誘導する。



 時に強行な姿勢も大事であるが、宗教に目が眩んだ者は、正常な者と比べて見ている世界が違う。半ばカルト化しつつある信者は、己が正しく、社会やそれを取り巻く世界そのものが間違っている――そういった考えで動く者が多い。



 つまり強行な姿勢は、彼女たちの不信感をいたずらに煽るだけなのだ。加えて彼女たちの拠り所である、宗教という巣で塞ぎ込んでしまう最悪のオマケ付きである。良いことは なに一つない。



 聞き、優しさで包み、互いに理解し合う。


 そして少しづつ、気づかせてあげるのだ。



 他の宗教を無下に否定する行為こそ、自分たちの信仰する宗教の否定へと繋がる。目的は果たせないどころか、今している行為こそ、状況を悪化させる悪手である――と。



 亜人保護部隊は、急場しのぎではあるが、なんとか彼女たちとの信頼を築きあげる。そして無事、セイマン帝国の船へ送り届ける事ができた。




――だがエリシアはそれに続かなかった。




 彼女は保護部隊に気づかれないよう、人影に紛れ、この裏路地まで逃げてきたのだ。




 エリシアにとって、この布教活動はなんとしても、成功させなければならない使命だった。



 どれだけフェイタウン市民に嫌われようとも。


 どれだけ罵られ、後ろ指をさされようとも……――。



 エリシアをそこまで駆り立てたのは、愛する御主人様の命に関わるからだ。



 一人でも多くのフェイタウン市民を改宗しなければ、勇者がゼノ・オルディオス

に斃されてしまう。




 自分の御主人様である、至高の勇者 伸之様を救いたい――奴隷から救ってくれた恩を、ここで返すんだ! その一心で、街を走り抜けていた。




 エリシアが裏路地を曲がろうとした時、誰かとぶつかってしまう。



「きゃ?!」



 彼女が抱えていたビラの束が散乱する。


 エリシアがぶつかった人は、女性だった。その女性は「大丈夫?!」と心配そうな声を上げ、エリシアに手を差し伸べる。


 しかしエリシアは手をとらない。ビラを拾うのも忘れ、恐怖で硬直してしまう。まるで腰が抜けたかのように、すぐ側の壁まで後退りしてしまう。



「私は薬剤師のレミー・マルタンよ。貴女あなたのお名前は?」


「エリシア……です」


「ほら、どうしたの。そんなに怖がらないでいいのよ。あら? このビラ……あなた、セイマン国から来たの?! ごめんなさいね、遠路はるばる来てもらったのに、こんな騒動に巻き込んじゃって。きっとあの魔獣を見て、怖く――」



「あ! あの! あの魔王を斃す方法があるんです!」




 エリシアはレミーの会話を遮り、自分の要望を口にする。


 レミーの会話を、故意に遮ろうとしたのではない。焦燥感と伝えなければならない一心で、言葉を切り出すタイミングを見誤ったのだ。状況が見えなくなるほど、エリシアは怯え、焦っていた。


 しかしレミーは不快感どころか、興味深げに、エリシアの放った言葉を復唱してしまう。



「ゼノ・オルディオスを……斃す方法?」



「は、ハイッ! このビラを見てください! 魔王を斃すことのできるのは、神の力を持つ勇者! 氷室 伸之 様ただ一人なのです! そして勇者の力は、信仰力によって、より強くなるんです! どうか翼人の集いに、改宗してください! お願いします!!」



 エリシアのあまりの必死さに、レミーは驚き、思わずきょとんとしてしまう。そして優しく微笑みながら、地面に落ちていたビラを手にする。



「あ、えっと……いろんな意味で驚いちゃった。出会って数秒で改宗をお願いされるだなんて、人生なにが起こるか分からないわね」



 そしてレミーは、真剣な表情でビラに目を通す。



「なるほど……信仰が勝利の鍵なのね。魔王を崇拝するこの街の信仰が、それを阻害している――と」



「無理は承知の上なんです! でもこのままじゃ、このフェイタウンもオルガン島も、魔王の軍門に下ってしまいます! どうか力を貸してください! この街を――いえ、世界を救うために!!」




 レミーはエリシア聞こえないほどの小さな声で、独り言を呟く。その言葉は誰に言うでもない、ただ純粋にエリシアを評価する言葉だった。




「世界を救うために……か。そういう言葉を恥じらいもなく言えるのは、やはり若さゆえか……――」



 レミーはしゃがみこむ。そして石畳の上に散らばったビラを、一枚一枚丁寧に拾う。それをエリシアに手渡しながら、こんな提案を口にする。




「分かったわエリシアちゃん。私もこの街が、これ以上壊れていくのを見たくないの。翼人の集いの信仰者を増やしたいのよね? なら、うってつけの人材がいるわ」



「本当ですかぁ! あ、あの……誰ですか? うってつけの人材って?」



「森の番人にして 斥候のエキスパート、ヴェルフィ・コイルよ。彼なら、私の言葉に耳を傾けてくれるはず。彼の言葉があれば、他の重臣たちも無視はできない。だからこれから一緒に、地下訓練場まで来てくれる? 貴女あなたの説得が、最後の一押になるはずだから」



「嘘じゃ……ないですよね? 騙したりしてないですよね!」



「そんな事をしてなんになるの。貴女の大事な勇者様が、どうなってもいいの?」



「いいわけないです! なんとしてでも私達の声を――いいえ、神の声を届けたいです!!」



「なら今は、私を信じて。ね?」




 レミーの微笑みは慈愛に満ち、溢れんばかりの優しさがあった。




 エリシア感極まって、目に涙を浮かべてしまう。



 奴隷である自分を差別せず、勇者と同じように、優しく接してくれる。



 これもきっと神の思し召しに違いない。なにせ こんな親切な女性に巡り合えたのだから……。エリシアは心から神に感謝し、一筋の涙を流して頷いた。



 すべては親愛なる勇者を救うために――。




「は、ハイッ! 私も、地下訓練場に行きます!!」





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