第16話
「国務省の記録から判断すると、この大統領との会談にも野村は単独で臨んだと思われる。野村が大統領の真意を理解しなかったか、あるいは軍部がこれを受けるとは考えられない、としたのか、この大統領の提案を野村が積極的に本省に訴えた形跡がない」
「大統領の提案を豊田外相が知ったのはワシントンからではなくグルー駐日大使からだったというエピソードね。グルー大使の手記に記載されている」
「そうだ」塚堀が外交資料のページを繰りながら、「二十四日夕刻は日本時間二十五日午前のことで、ウェルズは野村との会談が終わった直後と考えられるワシントン時間夕刻七時にグルー宛に電報を発電している。野村のホワイトハウスでのルーズベルト、スターク、ウェルズとの面談は五時に始まり、ウェルズが国務省に戻って発電したのが七時。この日は木曜日で、週末を自宅で過ごすためにルーズベルトは野村との会談後汽車でニューヨーク州に向かっていた。ホワイトハウスの会談は小一時間程度のものだったと見受けられるね」
「グルー手記によれば、中立化案の連絡を受けたグルー大使が協議のために豊田外相を訪れている。ところが豊田は中立化案の存在を知らず、その場で外務省に確認の電話を入れたことをグルーが記しているわ」
「これは野村が中立化案を本省に直ちに報告しなかったか、あるいは報告内容が重要性を示唆するものでなかったからと考えられる」
「グルー大使は、この中立化案は現状を打破する良案だと歓喜したと手記に記しているわね。日本は懸案であった南方からの資源を手に入れることができることになるわ」
「野村はどうも誤まった判断を下してしまったようだ。重要性を認識していれば、海軍兵学校では後輩に当る海軍大将の豊田外相を動かす努力をしたはずだが、豊田はグルーの勧めにも耳を傾けず、この中立化案は幻となってしまった」
「大統領との会談にだれかが随行していれば、意見交換をしてことの重要性を理解した野村大使が前向きに取組むこともできたはずだわね」
エリザベスが図書館から借り出した小冊子を塚堀の前に広げた。
「ジム、この大統領の提案に触れたものに、当時国務省で経済担当官を務めたハーバート・ファイスが戦後の一九五〇年に刊行したこの小冊子があるわ。図書館で見付けたの。二十四日の会談にはファイスは同席していないから、ウェルズ次官からの伝聞でしょうが、大統領は日本政府が受け入れ易いように中立化案は極秘に扱うように付言したとあるわ。それに、ルーズベルトが中立化案をチャーチルの耳に入れたことも記している」
このファイス書によると、日本資産凍結令の声明発表があった翌日の二十六日午後に、自宅にいたルーズベルトが大統領特使として欧州に滞在中のハリー・ホプキンスに電報を打っている。ホプキンスは八月九日から十二日の間にカナダ沖の大西洋上で持たれ、その結果が大西洋憲章として知られるルーズベルトとチャーチルの初会談の根回しのためにロンドンに滞在中だった。
ルーズベルトはホプキンスに、前夜の声明に対する米国内の反響は肯定的であること、一方、日本政府は対応に狼狽しており凍結令の効果が出ているとチャーチルに伝えよとし、その際に、中立化案への日本政府の回答は未入手だが恐らく受けないであろう、と付け加えている。
「資産凍結令だけでなく中立化案も日本時間の二十六日には日本政府に伝わったものと大統領は思い込んでいたことを暗に示唆しているわね」
「すでにインドシナ南部への侵攻を決めていた日本がこの中立化案を受け入れる余地は少なかったと考えられる。しかし、受け入れていれば、その後に日本が苦しむことになる日本資産の凍結令を撤回させ、南方からの資源の入手もできたのだ。真珠湾攻撃を回避できたかもしれない」
「実現していれば、野村大使がルーズベルトから引き出した最大の譲歩として歴史上に記憶されたかもしれないわね。そして、グルー大使が豊田外相にアピールしたように、その後の日米関係は異なった軌跡をたどることになったでしょうね」
「ジム、ところでこれは野村大使への弁護になるかもしれないけど、この大統領の中立化案の連絡が日本に伝わる際に不可思議なことが起きていたことをグルー駐日大使の手記で発見したわ」
エリザベスが指摘した不可思議なこととは次のようになる。
グルーが戦中の一九四四年に出版した“滞日十年間”と題した手記は、日誌風になっていて文の書き出しに日付けが挿入されている。外交上の出来事を正確に知るには好都合だ。
その一九四一年七月二十七日の項に、その朝ルーズベルト大統領のインドシナ中立化案を記した電報を受取ったと記している。この日は日曜日でグルーは昼前の十一時半に豊田外相を訪れた。ところが豊田は中立化案の情報を得ておらず、豊田は五分間ほど席を外して外務省に確認をしたようだとある。豊田はそれでも中立化案の受電を確認できなかったようだ。
グルーによれば、その二日後の二十九日に、野村大使が大統領との会見後に本省に打電したものはごく短い電文だったために、グルー・豊田会談後に詳細の報告をワシントンに要請したと寺崎アメリカ局長から告げられたとある。
これは野村からの第一報が大統領の真意を詳細に報告していなかったことを示唆している。しかし、戦後になって、野村は報告をしたが外務省内の枢軸派が野村の電報を差し押さえていたという説が出ている。グルーに連絡した寺崎局長とは、ワシントンに駐在中の寺崎英成一等書記官の兄の寺崎太郎のことだ。この兄は東条首相の外交政策に抗議して外務省を去った骨太の外交官であった。戦後になって外務省に復帰している。その寺崎がグルーに粉飾した情報を伝えたとは考え難いが、真実は闇に埋もれたままである。
エリザベスはそれだけでなくグルーが中立化案の電報を手にしたのが二十七日の日曜日だったことにも注目していた。
大統領が野村に中立化案を伝えたのは、米国が在米日本資産の凍結を決定した二十四日の木曜日だった。ウェルズ次官がその夕刻の七時にグルー宛に電報を発電している。これは日本時間では翌日の金曜日午前九時に相当する。
この発電は国務省外交資料にも記録されている。ただ、不思議なことに、詳細な記録を収録したこの資料集だが、ウェルズ電の発電番号や発電時刻は記録されているものの、電文を含めないという短い注記が付記されている。この外交資料は戦中の一九四三年(昭和十八年)に公刊された。戦中のために開示できない機密事項が電文に含まれていたのだろうか。
このように金曜日の午後にはグルーはこのウェルズ電を受取るはずだったのが、実際は手記にあるように日曜日の朝のことで、電報は二日の間どこかで留保されていたことになる。几帳面なグルー大使がこの二日間の時間差を知らなかったはずはない。しかし、手記の別の項に米国からの受電が遅れることが常態化していたという記述があり、この時も格別気にかけなかったのか手記ではこの遅滞に触れていない。
この事実を指摘した文献も見当たらないが、当時の緊迫した日米関係で二日の遅れは大きい。中立化案の伝達に際しても軍部や外務省内の反米派による画策があった可能性がある。そうであれば和平の可能性を自ら潰してしまったその行為は罪深い。
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