夏の暑い日
「で、体育祭が面倒なのでサボって人気のない倉庫に隠れていたら、居眠りをしてしまって今に至ると……そういうことですか、神薙先輩」
慶は倉庫から取り出した、グラウンドへ線を引くためのラインパウダーの入った段ボール箱を、神薙先輩と呼ばれた寝ぐせのついた三年生に渡しながら聞いた。
「う、うん。つい……暇だしちょうど暖かくて……」
「正直ビビるんで、二度と止めてください」
「はい。すみません……」
神薙先輩と呼ばれた男子は申し訳なさそうに、そのラインパウダーを莉雄に渡し、莉雄がすこし錆の浮いた猫車、所謂手押し車に乗せていく。
「サボってたことは黙ってるんで、キリキリ働いてもらいますよ、先輩」
「いや、一応、僕が出る競技は全部終わった後だったんだけど……あ、いや、手伝う。手伝うよ。あと、君の部活とかの先輩じゃないし、先輩呼びしなくても良いよ。
「どっちでもなんでも良いんで、はい、次は倉庫奥のサッカーボール入れに用があるんで、手前のピッチャーマシンどかすの手伝って、刹那くん」
慶がわざとらしく刹那の名前を呼んで、倉庫の中に入っていく。
「あはは……って、あの一番奥の? それなら、ピッチャーマシンより先にこっちを動かさないと……」
刹那は苦笑いしながらも倉庫の中へ、慶を追って入っていく。
眼鏡二人が倉庫の中に入って行ったのを少し遠巻きに見て、手を貸すべきかと思ったその時、背後から誰かが走り抜け、倉庫の中へと飛び込む。後ろ姿からして女子の様だったが。
倉庫の中から声がする。
「ごめん! ちょっと匿って! 居ないって言っておいて!」
「は? なに? 誰? ってかなんだよ、誰に居ないって言えば良いんだ?」
「しっ! 静かに!」
慶とその女子が言い争うのが倉庫から聞こえ、直後倉庫の戸が閉まる。
外には、ラインパウダーを積んだ手押し車と莉雄一人。
「君! すまないが、娘を見なかったか?」
大柄のスーツ姿の男性が莉雄に声をかける。晩夏とはいえ、首元までネクタイをしめれば暑いであろう出で立ちの男性は、肩で息をしながら汗だくで莉雄に聞いた。
「二年二組の
「あ、ど、どうも……」
そういえば、莉雄には駆け込んだ女子の後ろ姿に何となく見覚えがある。
糸織 葵と言えば、大翔と一緒に居た女子生徒……親友の彼女だ。莉雄は彼女と特に親しいわけではなく、話したことも必要最低限だった。顔も朧げにしか覚えていないが、快活そうなスポーツ系女子であることは覚えている。健康的に日焼けした、少し小柄で華奢な少女であったはずだ。
「学園祭は父兄も応援席は入退場自由というから来てみたんだが……その、娘は父親が来るのは恥ずかしいようでね……はっはっは」
果たしてこれは言ってしまって良いものかどうか……
「数年前まで、一緒にお風呂にも入ってくれていたりしたのに。うなされた時とか夜中に布団の中に入ってきたりとかしてきてくれたのに。可愛かったのに……ここ何年か、娘の当たりがきつくて……だからこそ、父親として娘の晴れ姿を見ようと思ってきたのに!」
すぐそこの倉庫に逃げ隠れてます、と莉雄が口を開こうとした時、繁が莉雄に質問をする。
「ところで君、同時に、源口 大翔くんを知っているかね? ちょうど、体育委員の仕事はこの倉庫で行われていると聞いたんだが? ちょうど娘も逃げ込むならここかとも思っていたんだが……」
一転して、繁の態度が威圧感を放ち始める。
「うちの娘と交際を認めたわけではないんだが……そのことに関しても問いたださないといけないなぁ、と……君、なにか、知っているかい?」
繁の大きな手が、優しくも重く莉雄の肩を叩いた。
はい。どちらも知っています。とは言い難い。まして娘の居場所は解っても、サボってる体育委員の居場所は見当もつかない。言えなくて庇っていると誤解されても困りものである。どっちに転んでも後々が怖い。
「うちの、可愛い娘の三歳の誕生日と四歳の誕生日の時に、あの子はパパのお嫁さんになるって言ってくれてるんだぞ! それを最近は、最近のあの子は……」
突如、繁がうずくまっていじけ始める。
「洗濯物を……一緒に、しないで……って、言い始めて……うぅっく」
めちゃくちゃ反応に困る。
「昔はパパのお髭とか大好きだったでしょう! 葵ちゃーん!」
「うるさいわ! この馬鹿オヤジ!」
叫びだした繁に呼応するように、突如倉庫の扉が勢いよく開け放たれる。
そして地面を踏みしめながら怒りを露にしながら、先ほど倉庫に駆け込んだ女子生徒、葵が父親の傍まで来る。
「お、やっぱり居たか。いやぁ、これで出てこなかったらどうしようかと。あとは六歳のころのおねしょの」
「だから黙れ!」
それは、獲物を狩るかのような、流麗なる一撃であった。吸い込まれるように水月を抉ったその拳は、女子の放つそれとは思えないほど鋭利に、かつ力強く、大の男を地面に伏せさせるには十分な威力であった。
正直、莉雄は目の前のことについていけなくなっていた。
「待って、葵ちゃん、パパ、流石にやり過ぎた。謝るから、暴力は……」
「やかましい! 仮にも
「でも出てきてくれてパパは嬉しい。キレッキレの拳も師範としては嬉しい」
「OK、追撃をくれてやるよ変態オヤジ」
と、ここで葵は莉雄に気付いたようにハッとする。
「あ、えーっと、あれ、言世くんだよね。大翔の友達の。あたし、ほら、大翔の……彼女の糸織 葵。君、体育委員じゃ無かったよね? 確か。それに、大翔居ないみたいだし」
さっきの今でかわいらしい女子として振舞えるのだから、女子って怖い。
咄嗟に莉雄は倉庫の方へ眼をやると、倉庫の扉から覗くように、慶と刹那の二人が「自分は関わり合いたくない」という視線を返してきたのを、莉雄は見た。
莉雄は言葉を絞り出した。
「あ、えーっと、大翔は、その、どっかに用事があるみたいで……」
「ええ!? あー……もしかして、代わりに体育委員の仕事してる?」
莉雄は葵のその問いかけに対して黙ってしまった。同時に、葵の視線が突き刺さり、その沈黙が意図しない肯定であることが伝わる。
葵は大きなため息をついて言う。申し訳なさそうに言う。
「ごめん。そういうことなら、あたしも体育委員の仕事手伝うわ」
「父さん男だらけの中で活動するなんて許しませんよ!」
「黙って帰れ」
突如飛び起きた父に対して辛辣な娘である。
「大翔の事だから、どうせどこ行くか言わずに居なくなってるんでしょ? まったく……あとで叱っとくね」
「あ、う、うん……」
莉雄は親友のみぞおちの心配を思わずしてしまった。
「なに、人員か! 人手不足なんだ助かるぞ!」
唐突に倉庫から慶が出てきて葵に声をかける。倉庫から出てきて莉雄達の傍に駆け寄ってくる。
そんな最中、鐘の音が響く。学校のチャイムの音ではない。低く響くような、何かを警告する警鐘に似た音が響く。
その時、莉雄は視界の端に奇妙なものを捕らえた。
鈍く光る、黒い影のような、金属質な反射をしながら浮かぶ塊。表面が水面のように波うち、小刻み震えて音もなく変形し、鋭利に尖る。その切っ先には駆けだした慶が居る。それは一人でに宙を駆け、慶へ迫る。
慶が直後押し飛ばされる。慶が居た場所には葵の父、繁が立っており、金属のかち合う音と火花が散る。少し離れたところにその飛来物は弾き飛ばされて地面のアスファルトへ刺さる。
何が起きたのか事態を知ろうとするより早く、繁が大声で怒鳴る。
「逃げろ! ここから離れろ! 今のお前たちじゃ対処できない!」
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