いわし雲

和之

第1話

いわし雲


琵琶湖のほとりに在る志賀近くの寺で、石田の法要がおこなわれていた。いつだったか前もこうして長い時間突っ立ってた事があった。先刻別れて来た石田の母親には、あの時と同じ悲愴な顔が浮かんでいた。あの時は友人が死んだ時だった。

 今日はその友人の一周忌がおこなわれた。彼の墓は多くの人々に取り巻かれ、僧侶による読経が挙げられていた。その後親族はお寺の別室で会食の手はずになっていた。二宮は周りに居た親族と友人達とは早々に別れた。

 有りっきたりの飾り言葉や美句美礼に堪えきれず、一人勝手に法事が終わるのを待たずに飛び出してきた。みんなは黙って彼を見送った。牛島だけが追い着いて来た。

 彼は石田が二宮に掲載の是非を問うたあの「いわし雲」の原稿の行方を尋ねた。彼はあの文章と石田の死が、どう云う関係を持つのか知りたかったが、彼には今一歩の確信を与えず別れた。

 駅に着いてからもう一時間に成るだろうか。二宮は屋根の無いホームに立ち、強い陽射しに打ちのめされていた。握りしめた帰りの切符も汗と油にまみれて変色していた。

 訛りの強い人々が、私の前後に列を作り、彼らも私同様に何かへ向かって自らの意志を働かせているのだろう。だが目的が違うこの一団と私とは完全に同化することはない。それが証拠に彼らの言葉を私は深刻に受け止めず、上の空で聞き流していた。

遅れて到着した列車は満員だったが、それでも掻き分けて人々は我先にと乗り込んでゆく。彼は乗り損ねて何本かの列車をやり過ごしても長く此処に留まれない。法事が終わればさっき居た連中の大半が大挙してやってくる、その不安に押されて飛び乗った。

 周りは彼と違い長く待ちわびて、やっと来た列車に乗り込めた連中の安堵感と不安を抱える乗客の中で、彼一人がそんな状況になかった。

 遅延に踵を返す者もなく、ただひたすらに、やっと到着した列車に不信を抱きながら同乗している様に思われた。

 彼らは何を目的としてその同じ電車に乗り合わせたのだろう。彼らの多くがここから目的地へ向かう。二宮のようにここから逃げ出す者は一人もいなかった。

 彼らは到着した列車に罵声を浴びせた。あれ程待たされた者たちの列車への信頼は何処へ消えてしまったのだろう。

 長い間浴びた陽射しの為か、陽炎の様に先ほどから頭がかすみ、心臓の激しい鼓動も同時に起こっていた。

 発車予定時刻までの数十分間というものは、先刻別れた時の石田の母親の悲痛な顔を思い出していた。

 一年前とは云えど石田の死は、二宮にとって未だ重く心に残り、時折目頭が熱くなるのに困っていた。それが列車の遅延ですっかり成りを潜める。実に人間と云うものは突然襲ってくる新たな出来事に適応してしまう勝手な生き物だと思い知った。


二宮が初めて石田を知ったのは高校二年の時であった。しかしこの男と交際を始めたのは、二人とも入試に失敗した共通点から出発していた。その理由は短期間に志望校を変えた二宮に大いに関係していた。

 元来絵が好きだった二宮が、石田の影響で文学に関心を持った。文学で共通の友を得た二人はこの頃から同じ目標に向かったが、にわか受験の二宮と以前から決めていた石田とは差が有ったが、ほぼ埋められるまでの拮抗した実力だと過信した節も無きにしも非(あら)ずだが結果は二人とも落ちた。これが二人の絆を深めた。

 高校時代からの二宮は多くのクラスメートとは共通点を見出せなかった。それゆえ虚無に陶酔し自虐に呑めり込むと、自然と他人との交わりが遠のいた。

 この退廃主義の中で見いだしたのが石田の説く文学だが、これにすがりついた結果が生んだ受験の失敗。それと共ににわか仕立ての友を巻き込んでしまった憂鬱に、この頃の私の生活を一変させた。 精神面でのメンテナンスの為に、これまで阻害された多くの情報を取り込む事に躍起になった。その一つが予備校通いであった。友と同じようにここでも多くの情報がふるいにかけられた。この時に唯一のガールフレンド以外で残ったのが石田であった。

 高校時代も殺伐としていたが、すべてがライバルである予備校はもっと殺伐としいた。元来淋しがり屋の私は大学と云う希望の扉に掛かる圧力を、心の隅の寂しさと一緒に必死で押さえていた。やるせなさに一人で寝込ろんでいると、日々は空しく死が心の隙間に潜り込んでくる。それが心の逃避場である反面、身震いするほど怖い死から逃れて生き延びる為に、一筋の希望が必要であった。

 志を同じくするのが同志ならば、志望校を同じくする石田と唯一のガールフレンドの由稀乃だろう。この一年を乗り越えられたのもこの二人のお陰だった。

 没落する精神面を支えたのが由稀乃なら、そこから前へ進む力を得られたのは石田だった。だが二宮は由稀乃と石田が顔を合わせても三人一緒の行動は避け通した。

 三人揃っても由稀乃を先に帰すか、石田と別れるかその時々の状況に応じて二宮は使い分けていた。それは二人を特別視した訳でなく、どちらも気が合わないと感じ取っていたからに過ぎない。事実二人の会話は取って付けたようによそよそしく相容れないものだった。

 常に愛嬌を振りまいてクラスでは人気者の石田だが、こうして女の子と一対一になるとからっきしダメになるとは意外だった。彼は特定の女の子と付き合うのに馴れてない、云わいる奥手のタイプだったのだ。

 彼に気後れしていた二宮は、これが実証されると初めて彼に対して優越感を味わえた。今までろくな受け答えが出来ず、仲間外れにされて社会の底辺で生きてきた二宮にとって、これは唯一の特権になり得た。何しろクラスの委員長に指名されてもおかしくない石田に対しての、このゆとりが彼に慈愛の精神を目覚めさせた。

 友情の証しとして石田に異性に対する劣等感、コンプレックスを取り払う事に努力した。向こうも少しマセタ二宮が特定の女性の心を掴むのには、どうすべてを投げ出せば良いかと云う術に心得てる事に意外性を感じたらしく、お互いの欠点を補うと云う一点に於いて、急速に接近し友情の証しを見いだし始めた。

 元々二宮には自分より準備期間の長い石田が受験に失敗した事には腑に落ちなかった。志望校を変えさせてしまったと云う負い目を石田が持ったに違いない、それを自分の為に実行したと云う確信に近いものを感じ取りこの行動へと走らせた。  


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