あふれる涙暗闇に

第1話

 女を抱くと涙があふれてくる。

 涙にもいろいろあって嬉しかったり笑ったり感動したりしたときにでるものだけど、女を抱くときにある感情はたぶん涙が普通にでてくるその感情と同じだ。眠いわけじゃなく。

 抱きながら思うことは、おそらくもうこの人とは二度と会うことはないし声を聞くこともなくなってしまうということだった。その存在もいつしか記憶から消されていくだろう、それはお互いに。

 僕はそういう男だ。

 舌をはわせながら相手の体液を掬いとっていく行為の中に僕はなにを吸収しようとしているのか。栄養分はすぐに溶けてなくなっていき、それがなんの影響をもたらしているのか実感をもてないまま生活を続けていく。

 昨日食べた食事と一年前に食べた食事が自分のなにをつくっているのか実感がない。それは女を抱いているのも同じだ。

 僕は息が乱れない。体は火照り紅く染めていくが呼吸はいつもと変わらない。深く息を吸い込み吐くということを繰り返す。息がはやくなってしまうことはない。ただ、相手の女は誰でも時々声を上げてしまう。これはみんなそうなのかはわからないが、自分の抱く女は大体が突然長い声を上げる。叫ぶとかいうような大きなものではない。か細くノイズが入ったような声をあげる。

 女の表情は読みづらい。それは恍惚なのか苦悶なのか判断がつかない。僕の体が離れるのを許さずに腕を首か背中にまわしてきて密着させようとする。しかしその力は弱くて、引き剥がそうと思えば引き剥がせるが、そうはできない。いくら離れようとしても、その腕は諦めずに何度も捕らえてくる。

 今もこうして抱いている女もそうだ。ふたりでベッドに入ったときは流暢にしゃべっていて、ああしたいこうされたいと要望を口にしていたのだが、いつしか言語不明になっていった。

 僕は自分の体臭を気にしたことはないが女は僕の胸の匂いを嗅いでくる。これは本能なのかわからない。僕の胸板を愛撫しては匂いを嗅ぐ。女は接吻の位置を徐々に下半身に移行させていく。僕がそうしろと言った覚えはない。ただ僕に了解を得てから陰茎を舐めていく。

 相手に十分に舐めてもらったら今度は僕の番である。決まっているわけではない。ただそのような気がするだけである。僕が指で誘導していくと女は股を開いていく。その姿はとても美しいものだ。薄らと湿った太もものさらに奥にあるものは僕を誘わずにいられない。

 膣というのは神秘的でありながら頼りなさげだ。その柔らかさをあらわにすると、どこまでも無防備で脆くて壊れそうだ。指で触れると女は声を生暖かい息をだす。舌を入れると小刻みに痙攣する。女は僕の手を探して、探し当てると強く握ってくる。女は全身を湿らせていく。毛穴からふつふつと水分を浮かばせる。舌を激しく動かしたり口で吸ったり、股下まで伝う体液を舌でまた掬うと、女は完全に力を失ってしまう。僕がこのままでいると、ずっとこのままになっていく。

 僕が起き上がると女はすっかり弱くなった力を振り絞って僕の顔に手を伸ばす。

 舌と舌とが重なりお互いの唾液が絡まりあって女の体にしたたり落ちる。

 女は股を広げて僕を待つ。

 このとき僕はどういう顔をしているのだろうか。女は目を閉じていているし、部屋は真っ暗だ。誰もそれを窺い知ることはできない。

 女の体に僕のものが入っていく。それはなにかをこじ開けていく感覚だ。あの脆くて弱々しい口に僕の猛々しいものが入っていくのは生物的に正しいことなのかどうなのかわからない。

 体を重ねてしまうとその様子を見ることができない。総てが感覚だけに頼っている。自分のものがさらに膨張していく。女は足を僕の腰に巻き付けて腕は首をしっかりと固定する。僕はその制御された中でも上下に体を動かす。

 女の体は柔らかく華奢だ。僕が上に乗っていて浮遊したような気持ちになる。暗闇の中で息を間近に感じる、この行為。

 僕は一体なにをしているのだろう。

 現代において男というものはどれだけ必要性があるのだろうか。力が強いということも什器機械の前ではほぼ無力である。統率も仕組みも男でならなければならない理由はほぼなくなってしまった。

 僕が僕でなければならない理由というものも当然なくなる。遺伝子も資産も今は一代で築けるし崩壊する世の中だ。女は子供を産むことができる。物語を継承することができる。世界を継続させるのには女は必要不可欠だ。しかし男はそれほどの数がいなくても成立するし一定数さえ残っていればいい。

 女はその判断を見誤らないように生きればいい。男は選別されていくものだ。

 だから僕はこの女のもとから一刻も早く去るべきなのだ。男の一生はその男の一生のままであるが、女の一生は世界と託生だ。

 弱くなった力で健気にも僕に手を伸ばしても無駄なことだ。僕にはかけがえのないものなんて無縁だ。

 生きるということは永遠ではない。一瞬一瞬の積み重ねだ。数珠繋ぎで連なっていると思い込んでもいつか突然切られてしまうものだ。どれだけ予定、目標、希望があっても途中で切られては儚くも黒ずんで崩れて落ちていくだけだ。それは神様でさえも止められない無情なものだ。

 その一瞬の中で奇跡的に遭うことができてこうして抱き合うまでに至ったのは本当に素晴らしく美しいものであるが、これ以上を求めるには、おこがましいというより報いを受けてしまうというもの。

 射精すると僕の性格は豹変する。女というものは神聖で高貴なものだ。その崇高なる存在に暴力を振るうことはない。それは本能である。

 どのように豹変するかははっきりとはいえない。自分の中のおぞましさの箱の蓋が開けられるということだ。その蓋が開けられてしまうのを僕はわかっている。

 女はなんで泣いているのと僕を見つめて言ってくる。

「小学校の給食でサイコロステーキが食べられなくて、それがでるといつも残されて食べさせられていた。掃除の時間になって友達にからかわれながらも、がんばってサイコロステーキをかみ砕いている。だけどなかなか飲み込めない。それを思い出して」

 女は「ふふっ」と笑って僕を抱き寄せる。

 もうこの女からは二度と抱き寄せられないことをまた本能的にわかっている。

 涙があふれてきてとまらない。

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