『しのばずエレジイ』(改稿版)
坂東太郎
【1】
四月、上野公園は桜の時期だ。
池の向こう、木々の隙間から薄紅色が見えて、それ以上に、満開の桜めあての人々が目に入る。
「これが広小路まで流れてくれればいいのに」
桜を見にきたわけじゃないし、好き好んで人混みに突っ込みたくない。
どうするかな、とりあえず不忍通り側を見てみるか、と遊歩道を歩く。
池のほとりのベンチに一人座るジジイが見えた。
お爺さんでもなく上品なお爺様でもなく。
色あせた薄ピンクのジャンバーにゴム長をはいたジジイが、ベンチに新聞紙を敷いてぼんやり池を眺めている。
すぐそこに満開の桜があるのに、蓮の葉が浮かぶ不忍池を。
華やかな世間の賑わいから取り残されたように見えて。
俺はジジイに声をかけた。
「何を見てるんですか? 蓮は
「あン? なんだ兄ちゃん、俺ァ何も買わねえぞ?」
べらんめえな、けど明るくハキハキした喋りに驚く。
よく通る声は、俺の耳にすうっと入ってきた。
「押し売りじゃねェんだったら兄ちゃんも座れよ。どうせ俺ァひまだからな」
ジジイがガサガサと新聞紙を広げる。
ためらいが頭をよぎったけど、俺はおとなしくベンチに座った。もとい、ベンチに敷かれた新聞紙の上に座った。
見える景色は変わらない。
ただ不忍池と蓮、それに弁天堂があるだけだ。
おのぼりさんでもないジジイが見惚れる景色じゃない。
「新聞、朝日ですね。お好きなんですか?」
「キレェだよ。キレェだから読むんだ、好きなことだけやったンじゃ勉強にならねェだろ?」
「立派な心がけですね」
……耳が痛い。
嫌いなことから逃げ続けて、ふらふら生きてきたから。
話の糸口にってベンチに敷いた新聞に触れたら、予想外のダメージすぎる。
「受け売りだけどな。兄ちゃんは花見か? それともアレか、昼間っからふらふらして『にーと』ってヤツか?」
「ニートじゃなくて、俺は作家……物書きなんです。本を出せたのはつい最近ですけどね」
「兄ちゃん、作家先生なのか。大変だよなあ、水物の人気商売ってヤツァ」
「すごく実感がこもってますね」
「そりゃそうよ、俺ァ店をやってんだ。長いこと上野でやってる板前よ」
「え? 板前さん? もう仕込みの時間じゃないんですか?」
「はっ、兄ちゃん、物を知らねえな。市場が休む日曜にやってる店ァ行くもんじゃねえぞ? いい店ァ日曜に休むって決まってンだよ」
こもって執筆してると曜日感覚がなくなる。
今日は日曜だったらしい。
上野公園に花見客や家族連れが多いのも当然だ。
「まァ休みってももうすぐ店ァ畳むから、休みだらけになンだけどな」
「『水物の人気商売は大変』って言ってましたし、お店を畳むって、商売が厳しいんですか?」
「へっ、俺ァ調子悪ィけど店は人気なんだぜ? けどもう歳だかンな、祭り、この花見の時期が終わったら区切りにすンのよ」
「そう、ですか。誰かに譲らないんですか?」
「ちっと訳ありでアイツと子供は作らなかったかンな。いいじゃねえか、俺の城は俺が始めて俺が畳むんだよ。アイツももう死んだしな」
「奥様と二人三脚でやってこられたんですか? 亡くなられて、だから」
「関係ねェって。ンなことでクヨクヨしてたらアイツに怒られちまう」
「尻に敷かれてたんですね。なんか意外です」
「どうだか。兄ちゃんどうせひまなんだろ? 年寄りの繰り言でも聞いてくか?」
「ぜひ聞かせてください」
「はっ、作家先生ってのは物好きだねェ」
不忍の、池のほとりのベンチで。
ジジイはニカッと口を歪めた。
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