零章 とある少女の変化 2
「どうかした?」
「……いえ」
思い返せば、気になる点がいくつも浮かぶ。
森の中にも関わらず、近隣からの通報とは、どういうことなのだろう。
今は闇に呑まれてしまっている頭に、ちゃんと警察官の帽子は乗っていただろうか。
灯りも無いない
彼は──本当に警察官なのだろうか。
急速に違和感が戻って来た。
いや、違和感など通り越している。
気味が悪い。
逃げようと決めた時には、全てが手遅れだった。
彼は言っていた。
もう少しだと。
「着きましたよ」
辿り着いてしまったのは、町でも川でもなく、小さな開けた場所だった。森を切り取ったように植物が無く、地面は砂利で白く染められている。
中央には明かりの漏れるビルが建っていた。高さは周囲の木と同じか少し低いくらいで、まず町からは見つからないだろう。窓ガラスは割れてしまったのか、元から無いのか──どちらにせよ存在しない。
「……ここは」
明かに不穏な場所だった。
それでも何かにすがるように、聞かずにはいられなかった。
「ここはね……、俺たちのアジトだよ。お嬢ちゃん」
一人、ビルの方へ歩を進める警官──いや、警官だった男から、今までの雰囲気が剥がれ落ちる。
振り返って嫌な笑みを浮かべる彼の後ろから、さらに数人の男たちが現れた。明かりの下の暗い場所にいたのだろう。
後退ると、肩に生暖かいものが触れる。
「こんばんは、小鳥ちゃん。かわいいね」
警官服と同じ笑みを浮かべる男に、私は全てをあきらめた。
捕まってしまっては逃げようがない。
うなだれた私に、背後の男が仲間たちへ話しかける。
「おい、どうした?」
「あきらめたんじゃねえの?」
「なんだよ、つまらねえな。泣き叫ぶところ見たいってのに」
男たちが話す声も、今は理解できずに流れていく。後ろの男が歩き出すのに合わせて、私も足を前に出す。
「最低だな、お前」
「お前が言うか! 似合ってねえぞ、その警官コスプレ」
この後、私はどうなるのだろう。
会話から察するに、やはり愛も意味もない情事を演じさせられるのだろうか。使い捨てのティッシュ代わりにさせられるのだろうか。
「そんなことねえだろ! お前らも何とか言えよ」
「あ? あいつらどこ行った?」
私の初めてはこんな場所で、こんな盛りのついた雄犬どもに捧げるのか。
最悪だ。
少なくともこれが最悪だというのは分かる。
「お仲間なら、ちょっと、邪魔だったんで、沈んで貰ってますよ」
新しい声が聞こえた。男たちよりはやや重みがある男声だ。
彼も男たちの仲間だろうか。一体、何人いるというのだ。
「なんだ、お前」
「うーん……。『お前』って単語は、その昔、敬語だったらしいから、許せるけどさ……、『なんだ』って言うのはよろしくないかな。一応、君らより一回り以上、年は喰っているんでね。こっちが割かし丁寧に話しているのに、その態度はいかがなもんかね」
なんだか様子がおかしい。仲間では無さそうだ。
なら、突如現れた声の主はいったい何者なのか。
「はあ? 何、ごちゃごちゃ言ってんだよ。さっさと帰れ!」
顔を上げると、目の前にいる警官服が拳を振るっていた。
相手はビルを背に佇む人影──おそらくは声の主だろう。ビルの明かりが届かぬ暗がりに胸元から上を隠しているが、かなりの長身と思われ、警官服よりも頭一つは高そうだ。
警官服の拳は当然のように男の顔のある場所を狙って放たれていた。
男は避けるそぶりも見せず、拳はそのまま男の頬を貫くと思われたし、恐らく背後の男もそう思っていたに違いない。
けれど、結果的に砂利の上に倒れ伏したのは、警官服の男の方だった。
警官服の拳が暗闇の中に消える寸前、男の腕がにわかに動き、手を顔のあたりまで持って来ていた。
直後、警官服の男からは勢いが消え、苦痛の表情をあらわにする。
「これで、正当防衛ってね」
男が腕を頭上へ振り上げるのに合わせて、警官服の体が宙へ投げられた。
何が起きているのか彼自身も分かっていないように、大きく開いた目がビルの明かりに照らされる。
重力に従い落下を始め、警官服はビルの裾に広がる闇の中へと、吸い込まれていった。
砂利の上に質量あるものが落ちる音が聞こえる。同時に、低い呻き声が聞こえた。それを最後に、警官服の声は完全に途絶えた。
「さて、後は君だけだね。どうする? 仲間の敵を討つか、その子を人質に逃げるか、はたまた別の手段をとるのか……」
だんだんと近づいてくる男に、私の背後の男は下がっていく。
「逃げる方をとるのかい。それもいいだろう。俺は小さい頃から追いかけっこが得意なんだ」
一定の距離を保ち続けるうち、私を引っ張る男は雲の切れ間へ踏み込んだ。
当然、男も追って来る。
月明かりによって、男の顔が徐々に照らしだされる。
長く突き出た口元に、頭の上の尖った耳殻。大きく裂けた口の端からは鋭い牙が覗き、爛々と輝く瞳には、ある種、宝石のような気高さが宿っていた。そして、それら全てを包み込む月が如き銀色の体毛──
「……はっ! なんだよ、脅かすなよ……。あんたも半獣かよ……」
背後の男は安心したように足を止めた。
「そうですよ? 別に最初から隠してなんかいなかったし」
「だったら、見逃してくれよ……。俺ら、同じ犬の半獣だろ?」
自らも腕の体毛を見せながら頼み込む犬の半獣に、目の前の男は朗らかに笑ってみせた。
「ダメ」
たった一言で、場から温度というものが消えていく。
「その一。ここはうちのシマで、別に最近は使ってないビルなんだけど、だからといって勝手に使われるのは──特に女の子に乱暴するために使われるのは気分が良くない」
目の前の男が私の横を通り過ぎ、硬直する半獣へと近づく。
それは旧時代の死刑執行人が、罪人へと近付いて行くようなもの。
「その二。俺は犬じゃない。狼だ。そのことには譲れない誇りがある」
完全に詰め寄った狼の半獣は、犬の肩に手をかけた。
その恐怖がどれほどのものか、また少し違うだろうが、私にも少し分かる気がする。
「その三。年上には敬語を使えっていったよね?」
尻尾を丸め口を半開きにする犬の半獣に、狼は正面から首に腕を回す。
縄が首にかけられた。
「おまけのその四。俺は面白いと思うよ? 犬のお巡りさん」
笑顔を完全に消した狼が、肩を持つ手とは反対の手を犬の背中に当てた。一見すると、久しぶりの再会を懐かしむ抱擁のよう。
しかし、実際は、罪人の足元を無くすレバーに手が掛けられた。
「だから君と俺は合わないってことさ」
冷たく言い放った狼は、犬の背中の服を掴み上げた。狼の眼前に、犬の男が浮かんでいる。何故だか子供を運ぶ親動物を思い出した。
けれど、犬の男は子供という年ではない。
狼が犬を投げ飛ばす。力を込められた犬の肩から、鈍い音が聞こえた。悲鳴もないまま、犬は仲間が伏せる暗中へと落ちていった。
刑は、何の躊躇もないまま執行された。
「もう大丈夫だよ。嬢ちゃん」
月に照らされた狼の半獣は、私に向かって微笑んだ。
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