零章 とある青年の呼び出し
両サイドは腕を伸ばすことも出来やしない。
それほどまでに近い距離に壁がある。すぐ後ろは出入口だが、扉の閉まった現在は、ある種、壁に違いない。その三面と比べると、前方はやや遠くに壁があるものの、幅を左右の側面丁度に合わせた机が迫り出し、狭く息の詰まりそうな空間を作り上げている。
けれど、その圧迫感の責任は、何も壁だけのせいというわけではない。原因は貴重なスペースである机にあった。
例えば、棒付きキャンディ。例えば、古びた書物。例えば、口の開いた栄養ドリンク。例えば、大量のボールペン。例えば、光沢のない黒で縁取られた手のひら大の透明な板。
そして、その場所がどのような場所なのかを如実に表す旧世代のモニターが、部屋の息苦しさを助長していた。
かつてネットカフェと呼ばれた場所の個室スペース。
そこに陣取った青年は、限界を迎えた照明器具の下、モニターを光源とし、顔ほどの大きさの板へと指を這わせていた。
時々、何かを考えるようにこめかみへと指を置くが、またすぐに透明な板かモニターへと視線を落とす。繰り返す都度、眉間には皺が寄り、背中は丸くなっていく。
青年が持つやや大きな板は、机の上の透明な板と見た目こそ良く似ていた。大きくしただけと言われても、納得できてしまう。
ただ一つ違ったのは、大きい板は完全な透明ではなく、写真や書類を氷で挟んだように、板の中には何処かの景色や文字の羅列が浮かび上がっていた。
青年は指を動かすことで、その写真や書類を別のものに変えたり、消したり、また表したりしていた。
しばらくして、板をモニターの横へ置くと、青年は額に手を当て、大きくため息を吐いた。何かを諦めるようでもあり、疲労によるもののようでもあり、そのどちらも含まれているようでもあった。
目を閉じ、数度、深い呼吸をした後、青年は机の上から電子煙草のような棒状の物体を探り出した。
中指と薬指の付け根で挟み、口元を覆うように手を運ぶ。やはり電子煙草と同様に吸い込んでいるのだろうか、青年の胸が膨らむと指の間から伸びた端が光り、口元からその手ごと離せば輝きが消える。息を吐くとやはり白く空を濁した。
何度も白い息を吐き出しながら、青年は空いていた反対の手で小さい方の板を取った。
瞬間、透明だったはずの小さい板に、四角いマークが現れ始め、縁から内側が埋め尽くされた。内容が違うだけで、表示のされ方は大きい板を思わせる。
青年が板の表面を指でなぞると、板に浮かぶマークが一新される。現れるマークを次々に変えて、中から『コ』の字の上辺と下辺を左右に押し潰し、全体的に丸みを帯びさせたマークに触れた。
すると、全てのマークが板から消え去り、数本の線が等間隔を開けて左右に走る。区画された一つ一つには、単語と思しきものが一つずつ入っており、青年は目当ての単語が出るまで、下から上へと指を滑らせた。
ようやく見つけた単語に触れると、透明な板全体に、初めの『コ』の字のような形が大きく現れ、その下には青年が触れた単語と、十数個の記号が並ぶ。断続的に刻まれるリズムが、狭い個室に響いていた。
僅かな間を置き、リズムが止まる。
板には『コ』の上辺の端から、数本のジグザグの線が扇状に出ているよう表示されていた。
「あ、出た出た。ファーグ?」
板を見たまま、誰もいないのに──されど、誰かに話しかけるように青年は声を発した。
「良かった。まだ使えるもんだね、これ。え? いやあ、寝不足でさ、足りないんだよ。そう」
安心したのか、息を吐いて、再び指に挟んだ棒状のものを口へ運ぶ。
「これも何だかんだ言って相当エネルギー喰うしね。だから、そろそろ、本題に入っても良いかな? ……うん。いや、頼むよ。ええ? そうか……」
明らかに気落ちししたような声を出した青年だったが、モニターの光が照らし出す目は、むしろ意地悪く輝いている。
「ところでさ、アレーは元気? 君らはセットだろ。どうせ今もいるんだろ? 何だったらレコもいるかな?」
話を切る度、電子煙草のようなものをくわえて、目の前を白くくゆらせる。
「何って、たまには昔話でもしようかなって。それとも何だい? まだ、君が昔いた場所のこと、話していないのかい? それで本当に恋人、もしくは友達なのかい?」
端をつり上げた口に電子煙草もどきをくわえると、今まではただ白く光っていた場所が点滅を始めた。
「……そうか。ありがとう。じゃあ、本題に入りたいんだけど、残念ながら時間切れだ。……そう、魔力切れ」
今度は本当に残念そうに背もたれへと体を預けた青年は、それでもなお棒状の物体を吸い続けた。
「だから、久しぶりに会おうよ。……嫌なら、仕方ないな。アレーに……」
吐き出される白煙の量は、毎回、少なくなっていた。
「ありがとう。日時はまた連絡するよ。場所は……、まあ、決まってるよね?」
ほとんど色を失った最後の煙を吐き出し、青年は最後の言葉を飾る。
「ああ、じゃあ、『豆と甘味料』で」
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