1-5-3 エピローグ その3



 俺の外出許可は瞳さんが取っておいてくれたらしい。有り難く思うと同時に、REDを誘うなんて酔狂の代価としては当たり前の事だとも不躾に思った。

 他職員の眼を避け、比較的人通りの少ない裏口から東京支部を出た。

 タクシーを拾った時に傾いていた日は、数十分後、レストランに付いた時に沈んだ。

 幼子が親に手を引かれる様に懇切丁寧に案内されたのは夜景の良いビルの高層階、読めない妙な字体の看板を掲げる薄暗いレストランだった。その薄暗さの所為で良く見えないが、店内は随分と空いている様に見えた。

 中に入ると案内は小奇麗なウェイターが引き継ぐ。促されるまま、窓際の席に瞳さんと向かい合って座ると、忽ちに薄っぺらなメニューを渡され注文を迫られる。一応、中身を確認したが、こちらも気取った妙な字体で埋め尽くされていたので、瞳さんにオススメされたものをそのまま頼んだ。

 その後、会話をするほどの間もなく、気色悪い緑色のソースがかかった野菜が出てきた。俺は賞味せず、水と一緒に全てを呑み込んだ。


「ここね、パスタが美味しいんだって」

「……楽しみです」


 暫く、黙々と食事を続けていると、淡い黄色の安っぽい皿が運ばれてきた。その上には筒状パスタのペンネと透明なソースがささやかに乗っかっていた。

 適量をフォークに突き刺し口に含む。

 鼻に、オリーブオイルの香りがツーンと抜けた。

 マズイ。二、三回、申し訳程度に咀嚼して、後は強引に水で流し込んだ。


「匡人さん、パスタが好きなんだってね……知らなかった。折角、天海さんに教えてもらったからね、同僚の子にイタリアンの良いお店を聞いて――」

「あの時」


 今、過去から引き出してこれる記憶は相変わらず断片的で、曖昧だ。

 それでも、アレだけは……あの感触、あの光景、あの音、あの匂い、あの味だけは……今でも、自信を持って鮮明に思い起こせる。


「……あの時、瞳さんに食べさせてもらったパスタ。紛うことなきレトルトでしたけど……あの味が妙に脳裏に焼き付いて……その残滓を俺は追いかけていたのかもしれません」


 アレが俺に取って初めての“料理らしい料理”だった。

 時が経つに連れ、何時しかそれが「象徴的な存在」となった。だから無数の自由な選択肢を提示された時、俺は常に初体験のおもかげを無意識に追いかけた。

 そう考えると僅かに残っていた食欲も失せた。

 俺は、速やかに小奇麗なウェイターを呼びつけて皿を下げさせた。


「匡人さん、なんか……変わったね」


 正面に座す人物が目と眉をたれ下げ、頬と口をつり上げて世間で言う所の「笑顔」らしき表情を作った。

 なんて、顔だ。腹立たしい。

 東京支部を発った時から抱いていた不満が、多少の変化を伴って口を衝いた。


「瞳さんこそ! 昔はもっと病的で、青白くて、人体骨格模型に服を着せた様な見た目でした、愛想笑いなんてしませんでした、それっぽくても常に影がさしていたのに、それが段々と、段々と――」


 そうまで言って、はたと気づく。

 或いは、もしかしたら、初めからそうだったのかもしれない。俺が、最近になって人を注意深くジロジロと見るようになっただけで……俺が見ていない所で人が何をシテいるかなんて、分かる訳がない。

 しかし、口ごもったのではない。その時、俄に全身の筋肉が弛緩し、暗闇の彼方へ急速に遠のいてゆく意識を自覚したのだ。それが、単なる精神的作用でないのは正面の人物の豹変に明らかだった。


「く、薬を……盛ったの、か……?」


 答えはなかった。あったかもしれないが聞こえなかった。

 音のない世界。視界の端っこで動いた影に立ち上がった気配を知る。しかし、白いテーブルクロスに突っ伏した姿勢だと、その表情までは窺い知れない。小奇麗なウェイターが、影が去っていった方へ向けて深々と頭を下げている。彼も、グルだったのだろうか。

 一体、何処から……?

 ウェイター、同僚の紹介……天海……?



    *



 電源スイッチのON/OFFをパチパチと切り替える様に、俺の意識は寸刻の暗転を挟んで覚醒した。その寸刻の間に、現実世界に於いてはかなりの長時間が経過していたらしく、既に夜は明け、昇った朝陽が未だ朦朧とする意識を刺激してきた。

 あまりの眩しさに俺は無意識に遮ろうとした。しかし、その試みは手、足、胴と厳重に施されたダクトテープの拘束によって阻まれる。

 縛り付けられるのはこれで二度目だな。

 と、考えていた所へ、不意打ちの声音が正面から響いた。


「目が醒めたか」


 目覚ましにしては剣呑すぎる冷えた声色。その中性的口調から俺は脳裏に天海を想起したが、すぐに、それにしては瑞々しさを欠いていると気づいた。

 その時、同時進行で思い返していた前後の状況が過り、寝ぼけていた意識がハッと急浮上する。神経インパルスが先触れ、次いで脳を発った鶏人が血中を駆け巡る。上下の臼歯がぶつかり合い、喉元が独りでに締まって息が詰まる。燻っていた眠気は吹っ飛んだ。

 そうして、一瞬の内に完全に覚醒した俺は、明確となった意識に対手を見留めるべく自由な首上を捻り上げ――驚愕した。


「手癖の悪さは聞き及んでいるのでな。僭越ながら、自由を封じさせて貰ったよ」

「お前は――ジ、ジェジレㇿ……っ!?」


 昨日、瞳さんが座っていた正面席には、かつて鹿刎番の折に邂逅した女――ジェジレㇿが、どっしりと腰を据えていた。全身を覆う黒装束、隙間から覗く黒肌、そして、其れ等に反発するが如く浮き、映える白髪……その名を聞いたのは一度きりだが、忘れようにも忘れられない。

 思わず、俺の唯一の取り柄である《異能》を用いんと右腕に力を込めたが、幾重にも巻かれたダクトテープは身体をピクリと身じろぎをさせる事すら許してくれなかった。


「何故、私の解名かいみょうを……ああ、あの時にネㇾクフが叫んだのを聞いていたか。どれ、これも何かの縁だ。ついでに自己紹介でもしてやろう」


 左掌上に探針プローブを浮遊廻転させながら、彼女は堂々たる名乗りを上げた。


肆句シノク――『無根むこんの/逸民いつみん/風向かざむく/益指いっし』、中旗、ジェジレㇿだ。よしなに」


 その分厚い唇が紡ぎ出しているのは日本語の筈だが、断片ひとつとして意味を汲み取れない。

 周囲には人っ子一人いない。瞳さんの姿もない、ウェイターも。全てを裏で画策し、糸を引いていそうな天海もいない。いるのは異文化情緒を漂わせる見知らぬ黒人の女だけ。

 何の繋がりだ、どこから、どこまで。

 やはり、天海は知っていたのか……?


「意味がわからない。状況について行けていない。どういうことだよ、何が目的なんだ……説明をくれ! 殺すなら殺せ! MCGとは、天海とは、瞳さんとは……貴様らは『蕃神が云々』と抜かしていたな」

「まあ、待て。私とて、コイツの指し示すモナドに導かれて来ただけだ。正直に言って、予期せぬ出会いに戸惑いを隠せないよ。その拘束とて、お誂え向きにダクトテープが置いてあったものだから、導かれるままにしただけの事」


 モナドやらが何を指すのかは分からないが、形状からして探針プローブは指針の様に見える。「導かれて」という言葉から推理するに、つまるところ『状況に前後の繋がりは無く偶然の出会いだ』って? 鵜呑みにする事はできない。そもそも、理解すら出来ていない。

 俺は、胸裡に渦巻く混乱を原動力に更なる問いを捲し立てようとしたが、ジェジレㇿがその黒い手で出鼻を制したのを機に、俺の生殺与奪は奴が握っている事実を思い出して黙った。


「少し、待て……今、ようやくお前のこんがらがったモナドを読み切れそうなんだ……あ、瞳さんとは、もしかして可愛川えのかわ……ああ、いや、それは今はいいか。読めたから本題に入ろう」


 ジェジレㇿは、先程から熱心に左掌上の針に視線を注ぎ続けていた。どうやら、その努力が遂に実ったらしい。


「これから、お前は私にひとつの質問をする。それに対して、私が淀みなく答える。いいか、ひとつだけだ」

「……何を言っているのか理解できない。……狂っているのか?」

「お前のしたい質問は、そんなものではない筈だ」


 相手のペースに乗っかるのも癪だが、それ以外に道は無いようにも思う。

 殺さず、生かして拘束するだけの理由が何処かにある筈だ。しかし、情報を吐かせようとか、痛めつけようとか、ジェジレㇿの言動には、そういう明確な目的意識が著しく欠けていた。

 挙句の果てに『質問をしろ』とは解せない。

 或いは、間接的な誘導尋問なのか……?

 舌打ちした。そして、幾許の逡巡の後、さっきは思うままに捲し立てた質問が空振りに終わった事も鑑みて趣向を変え、兼ねてから素直に知りたかった事を尋ねた。


「……鹿刎番しかばね つがいは――お前たちが、俺の眼前で連れ去った子供は覚えているな。あの子はどうした。何の目的で連れ去った?」


 一縷の希望を抱いて問う。せめて、あの憐れな虐待児の行き着いた先だけでも知りたかった。狂人の戯言でしかないのかもしれないが、それでも目の前の謎めいた黒人は「淀みなく答える」と宣言した。

 しかし、俺の心中に生まれかけていた道徳心、善性の萌芽は易易と踏みにじられる。


「知らん」

「……はあ?」

「私の管轄外だ。しかし、そいつの命が潰えるとしても無為にはならん。これでも、少なくない労力が掛かっているのでな。有効に使われるだろう」


 思わず閉口した。根本的価値観をことにする相手との対話とは、これ程までに噛み合わないものなのか。沸々と湧き上がるこの感情の名前を、俺はまだ知らない。


「ふ、ふざけるのも――!」

「さて、ちょいと体に触れるぞ」


 しかし、ジェジレㇿは全く意に介さない。既に質問と回答は済んだ、という事なのだろう。

 ぐいっと伸びた黒い右腕が俺の服裏をアチコチまさぐり、その奥底に眠っていた認識票ドッグタグを引きずり出した。


「ああ、あった……」

「何故、お前がそれを知っている……」

「全ては盤上の出来事に過ぎぬからだ」


 期待せず力なく漏らした疑問にも、漏れなく意味不明な言葉が返って来る。


「それにしても、懐かしいな……見ろ」


 抵抗する気力もなく言われた通りに見上げた先で、ジェジレㇿは俺から分捕った認識票ドッグタグを右手に掲げていた。そして、その黒い手の先は――


 ――空。


 より正確に言えば、天に投影されている別地球から降りる一筋の光柱こうちゅうを指していた。千年万年を生きる大樹の如き極太のそれは馥郁ふくいくたる暖かな香を伴っており、締め切られているであろう店内にまで蔓延してくる。

 北欧伝承に語られる神々の黄昏ラグナロクの様な、この世の滅亡を想起させる光景だが、直後に俺の鼓膜を震わせたのは終焉を告げる角笛ギャラルホルンの荘厳な音色ではなく、


「ポーン」


 という、小さな西洋銅鐘せいようどうしょう打打擲音うちちょうちゃくおんと、安っぽく柔らかい電子音のあいの子の様な音だった。

 視界の端で、浮遊の針が停止する。

 あの光柱こうちゅうは、何時の間にそこへ……しかし、次の段に至って、それは俺に取って最重要の情報ではなくなっていた。

 朝焼けの中、光柱が切り裂かれてゆく。そこから姿を現したのはカド、硬質にして宇宙の深淵たる黒瑪瑙ブラックオニキスを纏う――カドだった。

 圧倒的なまでの異質、異物感。それが宙空に静止している。

 訳の分からぬ非現実に唖然とせざるを得ない。

 しかし、そのカドすらも、文字通り氷山の一角に過ぎなかった。

 一時いっとき、宙空で静止した様に見えたのは、余りの情報量の多さに耐えかねた脳が短絡ショートして、時間間隔の崩壊を引き起こした事に起因する錯覚。絶対時間に於いて、その全容は既に白日の下に曝け出されている。

 それは――高さ、幅、奥行、全てを等しく定められた、一辺概算60メートルの『超巨大な立方体』だった。それ以外の形容は不可能。

 ――と、認識が時間に追いついた瞬間、立方体の背後の光柱が弾け、記憶の断片を擽る青紫色の華弁はなびらが舞った。


「あれは体制側の方舟はこぶねだ。中には纏骸皇てんがいおうの指図で、我々を討たんと喜び勇む『之許乃美多弖しこのみたて』が乗って――」


 捉えがたい説明を聞き流す。その内、窓に歩み寄っていたジェジレㇿが俺に向き直っていた。その手中に揺れる認識票ドッグタグがチラついて仕様がない。

 不意に、いつかに聞いた六道さんの言葉を思い出していた。


 認識票ドッグタグは一時的に封じた記憶を戻すための『鍵』……。


 認識した瞬間。俺の意識は、視覚から流し込まれた情報の濁流に呑み込まれ、再び暗闇の彼方へと消え去った。



    *



 第一次情報開示



《體》

 略。


《異能》

 前略。

 対象體と行使者の距離が遠くなる程に干渉は滞るが、対象體の位置する[3]を正確に認識している場合はその限りではない。恐らくは[数字]の持つ普遍性が、距離という第三次元宇宙的観点に留まらない概念であるからと思われる。また、正確には[3]は體ではない。


《十二次元宇宙論》

 無名の理論物理学者[sou sorxith (スー・ソークシス)]が、B30年7月2日に発表した仮説。宇宙は包括的な十二の次元からなるとされ、我々の住む宇宙は第三次元宇宙と呼称される。



 その別地球αに関する基礎知識

     ┠《体制側》

     ┠《蕃神信仰》

     ┗《武装励起》

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