ソドム 悪徳と頽廃の都
1-4-1 ソドム 悪徳と頽廃の都
ソドム 悪徳と
MCG機関内で『R-92地区』と称される街に、
歳は十七、高校三年生。みてくれは、遊びも知らぬ艷やかな濡鴉色のショートヘアーに、軽い素材の眼鏡をかけ、肉の付いていない手足も含めて、如何にも「文化系女子」といった風。
近所の進学校に通う、思春期まっ盛りの彼女は、見た目に違わず、勉学優秀なれど事運動に於いては幾ばくの遅れを取る様な、ごく普通の一般人である。
書面上は。
朝、定刻通りに家を出た椛は、何もない通学路を遅足に辿る。
彼女の姿を目撃した者は、まず遠目に、その髪先に目を奪われるであろう。艷やかな髪先に揺れる、老いの白でなく、薬品に脱色されたかの様に色素を失い、白白とぱさついた髪先に。
だが、次に彼女の顔貌を拝む段になると、脱色された髪先の事などさっぱり忘れて、こう思う筈だ。
『なんという、なんという生気の薄さだ』と。
度の強いレンズに歪む眼は、
まるで、重度の精神病患者の様相である。
事実、井手下椛は病んでいた。この顔は、友人、親兄弟といった身内を巻き込めず、責任感と無力感に苛まれ、途方に暮れ、自死を試みるも仕損じ、遂に崩壊する寸前の顔なのである。
それもこれも、全ては、彼女が
椛は、定刻通りに行われる先進的で有意義な授業を聞き流し、文科省から賞を授与される程に優秀な成績を残していた化学部を無断欠席した。
そして、とぼとぼと遅足で帰路に就く。
彼女の幽鬼じみた変貌を前にして、教師、学友たちは何の対策も講じず、それどころか関わろうともしなかった。
自殺未遂は暗黙の内に知る所である。それでもだ。
一方、周りの非干渉を余所に、椛の意識は、教室から遠ざかるに連れて自己の裡に潜っていった。段階的に全ての物事が消え失せ、やがて、自分だけになってゆく。それは、ストレスから編み出した、彼女にできる唯一の現実逃避だった。
しかし、その歩みも、校門付近にて途絶した。ドン、と。けして小さくない衝撃が椛の華奢な身体を襲ったからだ。
急激な訪れた現実を前に、椛は、ぶつかった額と、尻もちを付いた臀部に手をやりながら、水底に引きずり込まれるカナヅチの様な気分で、焦点を合わせてゆく。
そうして、前方に広がる一面の茶色が、ダンボールの茶色だという事を知った。
一歩、身を引く。
そうせねば全体を捉えられぬほどに、大きな、大きな箱が、いつの間にか前方に出現していた。
取り敢えず、進路を塞がれている故に、椛は問わねばならなかった。
「なに、それ……」
すると、その影から馬鹿みたいに明るい顔がひょっこりと覗いた。
「『なに』って椛! プラネタリウムだよ!」
にこやかに笑む怪力少女は、何でもないかの様にそう言ったが、その常識外れなサイズからしても、所謂、家庭で楽しむ様なチャチで可愛いものではないのだろう。金を取る施設に置かれている様な、『業務用』と称されるべき物々しい雰囲気が、箱越しにも伝わって来る。だというのに、その重量を一切感じさせぬ怪力少女は、「よいしょ!」と、肩に軽く乗せ直して続けた。
「
そう言って、天を見上げた
「それじゃ! 私は、学校にこれを置けないか相談しに行くから! またね!」
すっ、と持ち上がった箱が、校舎へ向かって軽やかに駆けてゆく。
その背を見送り、緊張を弛緩させた椛は、制服の内ポケットに仕舞っていた携帯の震動を察知した。彼女の携帯のバイブは、ある同級生からのメッセージのみに設定している。だから、彼女はその内容を確認する前から知っていた。
今年度二回目となる、短い呼び出しの文言を。
溜め息を零して校門を出た椛は、何もない通学路を背にし、ゴミとホコリだけが待つ街へ、遅足に歩を進め始めた。
陰湿なる地下の一室に若々しい声が響く。
「山川さん、あの話はもう聞いてるか?」
親しみと敬意を込めて「山川さん」と呼び掛けたのは、硬質な短髪の側頭部に毛筆風の漢数字「七」を剃り込んだ、生気溌剌とした若者である。彼は、所謂“半グレ”で、半年ほど前に少年院から出てきたばかりという身の上だ。
名を
へへへ、と下品な笑いを含み、溢れ出る喜びを隠しきれないといった様子の伊秩は、耳元のピアスをじゃらじゃらと揺らしながら、話し出す前から楽しそうに破顔していた。
「なんだよ、勿体ぶんな」
山川と呼ばれた大男が先を促すと、伊秩は嬉々として語り始める。
「山岸組の奴等がね、何と謀叛を企ててたのよ」
「それマジの話か? ヤベーじゃねぇか。仕事しなきゃなんねー」
興味なさげに適当な相槌を打ちながら緑茶を啜る山川。だが、その様子に気付かない伊秩の語りには更に力がこもる。
「それが、事が起こる前に知らせてくれた密告者が居たんよ。で、俺と――そこの
「ほ~ん」
「これ、昨日の話ね」
伊秩の話を聞き流して、高級品である湯呑を乱暴に置いた山川は、パンパンに張ったTシャツの下から主張するヘビー級ボクサーもかくやという巨躯を下品な革張りソファへ沈め、ちらと、ひとり離れて読書にふける制服の陣場――
この無口な新入りは、事あるごとに自ら孤立を選ぶ傾向にあった。現在も、高校から帰ってきてからというもの、全身から不機嫌そうなオーラを発しながら、自分の世界に閉じこもり続けている。
コミュニケーション能力に問題があると言うよりは、そもそも、歩み寄る気概を持っていないのだ、と山川は見抜いていた。より卑俗に言えば「不貞腐れている」のである。「俺はお前らとは違うのだ」と、常識人の立場と感性を以て見下して、そのささやかな意思表示を、意識的にか、無意識的にか、行っているのだ。
危険だと山川は思う。
陣馬の態度は、ややもすれば、自身の生命どころか組織の存続そのものに関わる。だが、山川は自身の口下手を自覚していた。故に、彼の取った行動は、こっそりと
「――そんで俺がぶっ飛ばしてやったんよ!」
「そりゃすげぇ。大手柄だな」
「でしょ!」
せんべいを齧る山川の口から放たれた、全く持って感情のこもっていない称賛を受けて、伊秩は大袈裟に喜ぶ。世辞というか、あしらわれているだけなのだが、彼は本当に気付いていない。
暫くの間、そうして喜び続けていた伊秩だったが、ふと、顔を曇らせて、今度は強い怒りを滲ませた。
「だってのに、艶島の奴は『……そう』ってな具合でね!? 信じられるかい! ちょっとしたボーナスぐらい欲しいってもんよ!」
「はっ、そう言うな」
艶島に不満を抱いているのは山川も同様である。だが、伊秩と違って、艶島あっての麻薬カルテル『MUL.APIN』であると理解していた。
土台、彼女が全てを作り上げた様なものだ。多少の横暴も仕方ない。
そんな思いから、山川は、猛る伊秩を諌めたのだが、言葉にしなければ伝わるわけもなく、更に語調が強まる結果を引き出してしまった。
「俺達みてぇなモンがでかい買いモンをしたら、金の動きでバレかねないってのは理解できる! だからといって、欲しいモンがある度にお伺いを立てなきゃならんのは納得いかんのよ! まるで、小遣いをせびるガキだぁ!」
「つっても、俺らに金の事は分かんねぇだろうが。金の管理なんて七面倒臭い事は、出来る奴にやらせときゃ良いんだよ。手に入らねぇ訳じゃあるめぇし、我慢しろや」
燃え上がる伊秩に、山川も少し熱をこめて諌める。
普段であれば、この辺りで気勢を引っ込めるが、今日に限って妙に食い下がる。 それが、不幸を呼び込んだ。
「山川さん、あの女は性根が腐りきっとるんよ。いや、“イカレ”なんよ。
――ガチャ。
ぬるり、と湿っぽい温風の様に粘っこく入室して来たのは、件の女、
その一挙手一投足ごとに、情欲を掻き立てる様な香水が部屋に蔓延してゆく。
伊秩が遠慮もなしに舌打ちをし、山川と、陣場でさえも僅かに顔を顰めた。
「もしかして、私の悪口で盛り上がってたぁ?」
目を逸らし、何も答えない男達へ、「一週間、小遣い無しね……」という囁やきが、ボソッと宣告された。
艶島は、背後にずらずらと付いて来ていた集団を振り返った。
老いも若きも入りまじる集団は、皆一様に、椛とは別ベクトルの生気を失った顔で、窪んだ目を肉欲に輝かせていた。
「待機!」
大きく胸を膨らませた艶島がそう宣言すると、集団は薄っすらと反応を示したものの、声も上げずに一斉に振り返り、何処ぞへ向かってふらふらと去っていった。
艶島の事情が片付いたのを見て、山川が重い腰を持ち上げる。
「艶島、回収した金だ。今週の分」
「あぁ、ありがと、後で確認するわ」
山川が懐から取り出した茶封筒は、内容物の厚みで醜く歪んでいた。中には、相当な大金が収められている事だろう。それを、学生身分の艶島は、眉一つ動かさず無造作に受け取った。
その様に神経を逆なでされた伊秩は、胸中のムカつきを素直に舌打ちで表現した。今度は、艶島も反応を示す。
「あら、何かご不満?」
「何もねぇよぉ。ただ、いつもより早いじゃねぇかって思っただけだ」
「べつに良いじゃない。ひーちゃんが居るんだから、私も来るでしょう、同じ学校なんだから」
艶島は、「ね、ひーちゃん」と熱に浮かれた恋人の様に呟き、右手に封筒を掴んだまま、ソファに座る
背に押し付けらる豊満な胸の感触、しかし、この時の陣馬が胸裡に覚えたのは、言い知れぬ怖気であった。この怖気は、女性恐怖症、男色家、或いは性に対する潔癖、そういった物事とは一切関係がない。
誰に対しても、こうなのだ。
艶島は。
深入りすれば――文字通り、取って食われる事となる。
柔肌の拘束を振り解いたのは、それを意識の奥底に理解しているからこその、本能的な危機回避反応だった。
露骨に拒否され、おまけに距離まで取られてしまったが、艶島は「いずれ事が済めば」と、湧き上がって来たじれる肉欲さえ愉しんだ。
と、その時である。ややもすれば、聞き逃しかねない小さな開扉の音に、室内の人物は過敏にも思える反応を見せた。
山川、伊秩、陣場は、揃いも揃って直立、黙礼した。
扉を開いた姿勢で固まったのは、艶島と同じ制服を着た小柄な少女――
艶島は、希死念慮の塊じみた猛獣の前に、身を差し出すが如く踏み込んだ。
「もみちゃん、話は私の部屋で」
「……分かった」
くるりと身を反転させた椛は、艶島の部屋へ向けて歩き始める。
その突けば崩れてしまいそうな小さな背に、艶島は「すぐ行くから待ってて~」と、軽薄に取られかねない気安さを心掛けながら呼び掛けた。そして、十分なほどに背が移動したのを見るや、未だ礼を続ける男たちへ振り返った。
「これは単なる噂だけど――」
前置きを言ってから、艶島は少しだけ沈黙を作った。
この間に、伊秩が、次に陣場が、最後に遅れて山川が頭を上げる。そして、彼らが「痴女」と見下していた女の、初めて見る真剣な表情に怯んだ。
「――最近、妙な連中が嗅ぎ回っているみたいだから、どうかお気を付けて~」
柄にもない警告は、最後こそ軽い調子を装って発されたが、その内容を軽んじる者はこの場に於いて誰一人として居なかった。
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