Ascension / 次元上昇

塩麹 絢乃

第一章 選定世界のデジャヴ

プロローグ

1-1-1 四藏匡人



〝十万人に一人〟


 日本人口、約1億3000万人中――約1300人。

 世界人口、約70億人中――約7万人。

 率にして――0.001%


 この数字は若者を中心に広がる次世代型変異ジェネレイトのおおよその罹患率である。変異は伝染せず、遺伝もしない。

 が、罹患者の誰しもが素質とも称される『因子』を持って生まれ、平均して第二次性徴期前後の頃に、身の回りで起こっていた超自然的現象は自らに起因していたのだと自覚する。


 ――ひとつ、この変異に関して言及しておかねばならない事がある。

 実はこの変異、世間一般の人々には全く認知されていないのだ。それは〝十万人に一人〟などという難病まがいの罹患率を差し引いても不自然な程に。


 存在自体が、隠匿の壁に、薄暗闇の奥底に押し込められてしまっているのだ。

 の思惑によって――



    *



 第一章 選定世界のデジャヴ



    *



 寒風吹き付けるビルの屋上に偉躯いく長身の影があった。

 暫くの間、金属を編んだフェンスに四方を囲まれた中心で、影は水面みなもに映る枝葉の如く風に揺れていたが、折からに吹いた一陣の風を契機に弾かれた様にフェンスの一角へ歩み寄った。そして、すっぽりと被ったフードの下から、飢えた肉食獣を思わせる鋭い眼光で以て眼下に行き交う人々の群れを見遣った。


「……あと二十分」


 その時、影の身体に纏わり付く漆黒のローブが不意に揺らめいた。かと思うと、影の手元に十インチほどの大きなタブレット端末が顕現した。細長い指が画面上を這い、《Q-4》という名前のファイルをタップすると、少しの間を置いて液晶画面にずらずらと情報が流れ出る。

 影は手隙の時間を資料の確認に回すつもりであった。しかし――



《Q-4》

レベル5資料


氏名:四藏匡人よつくら まさと

性別:男

年齢:不詳(資料紛失の為)

 本人も詳しく知らない。だが、肉体の成長度合いから大体十六歳かそこらで、成人はしていないだろうと思っている。

住居:Q-53地区8-4-3 S4六号室 (管理人は可愛川瞳えのかわ ひとみ


階位フェーズ:Ⅱ Βベルカン

能力名: -

能力:任意の――



 ――と、影の視線がそこまでなぞった時であった。

 影の口元がまごつく。影の持つ異能によって拡張された「第六感」ともいうべき感覚が、脚元に広がる下界の異変を察知したのだ。反射的に地に落ちた影の視界に、往来を闊歩する件の四藏匡人よつくら まさとの姿が映り込む。

 時計代わりでもある手元のタブレットは、この間に未だ一分と少ししか経過していない事を示す。


「予定では――フンっ、『ズレ』か」


 まぁいい、と影は心中で呟く。完璧な計画など無いのだ。

 影も理解している。だが、わかっていながら、心中に湧き上がって来た陰りをしめやかな舌打ちにあらわし、屋上のコンクリートに溶け入った。


 その光景は、宛ら砂漠に落ちた水滴が瞬時に染み込む如く――



    *



 ふと、思う。

 俺の【四藏匡人】という名は、一体全体、誰が付けたのだろう。


 流れる人波に従ってあてもなく彷徨う内、そんな今の今まで全く疑問に思わなかった事が急に頭をもたげて来た。思い返してみるに俺は物心が付いた頃からそう名乗っていた……気がする。

 時刻はちょうど昼食を取るに相応しい時間帯である。

 俺は、その疑問について、手近なファミレスに入ってから食事を終えるまでの間ずうっと考えてみたのだが、詳しい所を掘り下げて思考しようとすると脳内全体に靄が掛かった様な気分になって、全然明瞭な形を得てくれない。

 寸刻ちょっと前まで明太子パスタで溢れていた浅皿の底を浚いながらずっと考えてみたが……ある所ですっぱりと止めるにした。

 おそらく、食後に飲んだ烏龍茶と一緒に飲み込んでしまったのだろうな。ぐだぐだと考え、悩み続けるのは性分ではないし。空に投影された二つの『別地球』とやらでさえ、三日と保たず意識の外に追い出した俺だ。付け加えて言うなら根気の良い方でもなし。

 さて会計をと懐をまさぐってみたのだが、どうやら、財布を忘れて来てしまったらしい。

 マズイなぁ、これは実にマズイ。

 このままでは『無銭飲食』になってしまう。或いは『食い逃げ』か。どちらも望む所では無い。

 それに、柄にも無く考え事をしていた所為で腹は十二分目まで拡張されている。

 太鼓の革より張っている腹を抱えて全力疾走?

 腹ごなしの運動としては些かハードだ。

 正直に話せば快くツケといてくれるだろうか(チェーン店だけど)、どうしたものか……とそこへ運の良い事に、今まさに会計を終えたばかりであろう男女の二人組カップルが通り掛かる。


「見てくれよコレ! 鰐皮なんだぜこの財布! ワニだよ、ワニカワ」

「やだぁ、趣味悪!」

「万した」

「う~わっ! 無・駄・遣・いだわぁ~」


 はしゃぐニヤケ面の男の手元で揺れている長方形のゴツゴツした物体は、盗み聞いた会話から察するに鰐皮の長財布なのだろう。それを見せられた女の反応ウケは至極悪かったが、片割れの男はそんな反応を半ば予想していたのか大して堪えた様子もなく、軽く「ヒヒヒ」と笑ってズボンの後ろポケットに突っ込んだ。

 いや、本当に、何と言うか――


 丁度良い。


 よし、アレを盗ろう。

 そう決めるやいなや、俺はその二人組からさっと視線を逸らした。

 これは経験から学んだ動作である。

 時に、注視は厳禁なのだ。

 監視カメラも――OK。

 あの男に取っては理解の範疇に無い『未知の現象』だろうが、それでもじっと熱視線を送り続けていた奴が近くに居たとなれば、変に疑われる可能性も無い訳じゃあない。

 それに能力の行使には、チラリと横目に見て視界の端に後ろポケットから半分飛び出た長財布を収め続ければ十分なのだ。


 残り五メートル、四、三――射程距離内に入った。

 ここで、すかさず右手を握り込む!


「つーか、何処行く?」

「えー、どこでも良いよ~。ミー君となら!」


 ねんごろの男女が退店して行くのを尻目に、俺は手中に収まる“鰐皮の長財布”を見て、思わずほくそ笑んでしまう。

 成功だ。

 俺は湧き上がる高揚を抑え、平静を取り繕いながら中に入っていた数枚ほど札を毟り取ると、用済みとなったダサイ財布を隣の机の下に投げ棄てた。小銭とカードは取っても仕方がないので残してある。せめてもの情け――ではなく、足が付くからだ。

 長居する理由もない。俺は、会計を済ませる為に立ち上がった。

 これが俺の唯一の特技。

 顔も知らない母親の腹の中から持ってきた異能。

 手中に収まりそうな物なら何だって転移させる事ができる。但し、射程距離は二~三メートルで、視界内に対象が入っていないと発動できない。

 盗る物を取れば、殺しだって容易いだろう。使いようを考えれば、もっと大規模な犯罪だって朝飯前かもしれない。しかし、今まで一度たりとも、そんな大それた犯罪を仕出かした記憶はない。

 俺がするのはもっぱら「スリ」とか「置き引き」とかの小さい犯罪ばかりで、後は今のように――


「お会計が、399円になります」

「あ、万札しかない」

「一万円、お預かりします」


 定員がレジスター操作し、札と硬貨の詰まったドロアーが開いたのを見て、俺は密かにポケットの中の右手を握り込む。すぐさま、手中に現れた一万円札の感触に笑みを深めた。

 ――今のように、会計ついでにレジ内の札を少し拝借する程度なのだ。

 何故かって? いやいや、大それた犯罪の結果、もし、万が一にでも政府や警察に異能の存在が知れたら事だろう。俺は小心者なのだ。「銀行強盗」や「金庫破り」といったクライム・サスペンスじみた展開はお呼びじゃない。


「こちら、お釣りです」

「どうも」

「ありがとうございました~」


 存外にも、財布には結構な額が入れられていた。数日間はこれで食っていけるだろう。釣りを自らの財布に収めた俺は、今日の「仕事」をここらで切り上げる事にした。

 しかし、すぐに帰宅する訳にはいかない。時間稼ぎの為にあちこちを歩き回っていると、右手に巻きつけている赤いバンドの腕時計が、ようやく午後五時を指した。そろそろ良いだろう。

 この街で、恐らく一番長いであろう坂を登り切る。すると、枯れた桜の木に囲まれた木造二階建て八部屋の、「建築物」と称する事すら憚られる様な、ボロい何かが見えてくる。周囲から孤立するが如く古ぼけたそれは、壁はくすんでいない所の方が珍しく、そこら中に穴があき、隙間風と雨漏れが日常、人口比率は人よりゴキブリとカマドウマが優勢であり、最近、管理人である瞳さんの意向で新調したばかりの窓だけがやけに陽射しを反射して眩しい、敷金礼金無、家賃……円。

 それが、俺の住居だ。

 俺の入居した数年前の時点でボロかったのだから、その年季の入りようと言ったら尋常な物ではない。

 だが、それでも出て行く気が一切しないのは――と、その時、一階左端の一号室から掃除道具を片手に出てくる者の姿が見えた。


 一号室!


 出てきた部屋の位置から、俺は人相を確認する前にその人影の正体を察する。

 だから今、俺の頬がほころんでゆくのは自然な事なのだ。

 気が付いた時には、俺はボロ屋へ向かって駆け出していた。


「瞳さん!」

「あ、匡人さん。お帰りなさい」


 小走りで駆け寄る俺に柔和に微笑み、脇で小さく手を振る妙齢の美人は『可愛川瞳えのかわ ひとみ』さんだ。彼女の動作に伴って揺れる栗色の髪に、俺の笑みはさらに深まる。

 今でこそ生まれ持った特異性を自覚し、それを利用する事で小銭を貯め、もっとマシな別の住居に移り住む余裕を持った俺だが、その決断を保留どころか、選択肢として考慮すらしていない理由が彼女なのだ。

 瞳さんはこの(ボロい)アパートの管理人で、俺の様に収入源も不明瞭、出自すら不確かな浮浪者を、嫌な顔ひとつせず拾ってくれた本当に聖人の様な御人。その恩義は何にだってかえがたい物だ、と俺は感じている。

 実は、そんな彼女にほんの少しだけでも恩返しが出来れば……と家賃は何時も多めに手渡していたりもする。しかし、彼女が金に困っている雰囲気は全くないため、俺の自己満足に過ぎないだろう。


「今は仕事終わりですか?」

「はい、今日も稼いできましたよ!」


 物心付いた時から繰り返している窃盗ぬすみに罪悪感など抱いた事は無いが……しかし、この瞬間だけはどうしてもダメだ。窃盗を繰り返すうちに忘れかけていた良心が、針で突かれた様にじくじくと痛む。

 渡しているお金だって、出処の綺麗なもんじゃない。

 今の俺の笑顔は自然だろうか。……くそっ。

 瞳さんに対して感謝の念は尽きないし、そんな彼女との会話は楽しいものだ。

 しかし、最近は罪悪の念から会話に苦痛を感じてしまう様になり、どうしても長く続ける事が出来ない。今日も、「部屋でやる事があるから」なんて適当な逃げ句で話を打ち切り、軋む階段を駆け上がった。


「ふぅ……」


 飛び込むように自室へと逃げ込んだ俺は、今しがた閉じた玄関扉にもたれかかって重苦しい息を吐き出す。

 本当はわかっているのだ。全て。

 まっとうな職に就かなければ顔向けなどできない。だと言うのに、改善する気も起きない自分が本当に嫌になる。

 とにかく、楽なのだ。楽すぎるのだ、この生活は……。

 別にこのままでも……いや、駄目だろう!


「ククク……管理人には随分と愛想が良いじゃないか。小悪党風情が」

「――ッ! 誰だッ!」


 不意に投げ掛けられた言葉で、自戒と自己嫌悪を繰り返していた思考は一瞬で消し飛び、血気一色に染まった。

 泥棒か!?

 いや、それにしては言葉がおかしい。

 声は、奥の寝室あたりから響いていた様に思える。ひとまず、俺は疑問に決着を付ける事を放棄し、眼前に立ちはだかるドアを蹴破った。

 すると――奴はそこに居た。

 古びた畳の敷き詰められた寝室に、声の主と思しき人物は居た。

 部屋に踏み入った俺を正面に、堂々と、不法侵入者は立っていた。

 黒い、俺が着ている古着なんかよりも遥かに上等そうな布のローブで全身を包み、ふてぶてしくも腕組み、シミの付いた木の窓枠にもたれ掛かって、深く被ったフードの奥から爛々と光る無遠慮な視線をぶつけてくる。それこそ、頭の天辺から足の爪先までを舐める様に。

 強張る俺の反応をみとめたのだろう、奴はフードの影で嘲る様に笑った。


「おいおい、そう肩肘張ったって何にもなりゃしないぞ」

「……お前、何者だ?」


 もしかして、俺の能力がバレたのか?

 何処かの――組織の人間なのか?

 しかし、バレたとして何処から誰にバレたと言うのだ。俺は大っぴらに能力を使った事はないし、故意に誰かに見せた事もない。

 ――あの瞳さんにだって教えてないんだぞ!


「知りたいか? なら、少し自己紹介でもしてやろう。私もお前と同じ『異能を持つ者ジェネレイター』さ」

「……ジェ、ジェネレイター?」


 聞き慣れない言葉に思わず聞き返す。


「俗っぽい言葉を使うなら『超能力者』、或いは『異能力者』って所だ」


 ピンと来ていない俺の様子を見て、奴は身近な言葉で補足する。

 決まった狭い名称があると言うことは、体系付けられているという可能性が高い。奴に妄想癖でもなければな。

 やはり、何らかの組織からの尖兵か?

 疑惑は確信に変わりつつある。

 俺だけが異能を手にしているなどという、都合の良い浅はかな考えはもとより持ち合わせていない。だからこそ、俺は俺だけの日常を守るために今日まで小さな犯罪だけをせこせこと積み重ねてきたのだ。

 警戒心を片手に、彼我の距離を摺り足で詰める。

 ここから窓枠まで距離――概算五メートル。

 もう少し近づけば確実に射程距離内に入る。

 人に向けてこの能力を使った事は無いが、見えている所――俺の能力で腕やら脚やらの部位を取ったり出来るだろうか……?

 いや、悩んでも仕方がない! やるしかないだろ!


「私もお前と同じく異能を持っている。まぁ……お前とは〝格〟が違うがな。だから一応、それは『無駄な抵抗だ』と忠告しておく」

「〝格〟? ――なッ!?」


 奴の尊大な言葉が合図だった。

 瞬間、ギシギシと音を立ててボロアパート全体が大きく揺れ動き始めた。更に、その外側からは地鳴りの様な――いや違う、これは――洪水か鉄砲水が巻き起こったかの様な激しい怒号が響き渡る。

 揺れる足場に、俺は直立もままならない。頭上からはパラパラとホコリが舞い落ち、たまらず目を庇って見上げれば天井の吊下式照明が円を描くように揺れている。まるで、直下型地震にでも遭っている様な光景だ。

 その時、奴の背後の窓枠から覗く景色に、俺は全身の血の気がサァっと引いて行く感覚を覚えた。


「街が……街全体が……水に沈んでいる!?」


 人知れず山奥で湧く岩清水の如く極限にまで澄み渡った大量の水が、窓から望む町並みにのた打ちうねって氾濫しているのだ。

 大規模災害かよ!?

 これが奴の能力だというのか……!?


 ……〝格〟が違う……。

 余りにも――「スケール」が違い過ぎる。


 その時、黒いローブの裾が大きくはためいたかと思うと、奴は唐突に畳を蹴り飛ばして、新調したばかりのガラス窓に身を突っ込ませた。同時に、奴の身体と入れ替わる形で清らかな澄水が流れ込んで来る。

 俺がその意図を察する間もなく、事態は滞りなくハイスピードで進行してゆく。


「――なッ!」


 先程の揺れの衝撃で、未だ姿勢制御も儘ならない所への――それは紛うこと無き攻撃だった。俺は満足に対応できず無防備な硬直を晒してしまう。その隙を突き、途中で幾筋にも枝分かれした水がまるで意志を持つ蛇の如く暴れ、俺の両脚へと絡み付いた。


「ぐっ……」


 何とか姿勢を立て直した俺は慌てて逃れようと試みるが、畳に固定杭を打ち込んだ水の縄は、万力の如き力で俺の両脚を固定していて一向に引き抜けない。

 ――くっ、マズイ!

 現状把握も追いつかず、胸中を埋め尽くすのは一銭の得にもならない焦燥感ばかり。次々と折り重なってゆく焦りが、更なる焦りを呼び込む負のスパイラル。

 だが、その中にあって俺は気付く。

 これ程の能力があるのなら、今の攻撃で俺を殺す事も出来た筈……この拘束の力を俺の顔にでも向ければ容易に窒息を招きあっけなく溺死するだろう。だと言うのに、何の目的か拘束だけに留めていると言う事実が、俺に冷静な思考を取り戻させた。

 考えても見れば、今の攻撃にはまだおかしな所がある。俺を攻撃するだけならその場からでも良かった筈だ。

 見た所、奴の能力は水を操る事だろう。

 その操作は繊細にして緻密。

 それは幾筋にも別れて襲いかかって来た複雑な水の動きからも明らかだ。間に仁王立つ侵入者自身の身体を避けて、俺だけに攻撃を的中させる事など容易だろう。

 なのにあの時、奴はわざわざ射線を確保して……いや、あれは――!

 数瞬の思索を介し、俺はその理由に至った。


「――まさか、俺の射程距離まで把握しているか!?」

「当然だ、小悪党。お前の能力の射程距離は二、三メートルの筈だよなぁ。私とお前の間にある隔たりは、どう少なく見積もっても十メートルはある。これは最早どう足掻いても埋めようが無い歴然たる差となったぞ。つまり、これでお前は私に取って全く無害な存在と化した訳だ」

「そんな、事まで……」


 窓のフレームの中で、奴が水で形成した玉座に踏ん反り返りながら宣った言葉は、俺の推測の証明、答え合わせの如く響いた。

 だが、正解した喜びなど微塵も湧いてこない。

 あるのは、ただ無力感だけだ。


「クソっ!」


 最初から詰んでいたという訳か、俺は。

 相手は――どうやってか知らないが――俺の射程距離まで知り尽くして対策済み。対してこっちは完全に不意打ちでの戦闘。

 勝てる訳が無い。

 しかし、もし俺が侵入者の能力を知り得ていたとして、街一つを水没させる程の相手に一体どうやって立ち向かえば良いというのだろう。

 俺の……この他人の物を掠め取るだけのちっぽけな能力で……。

 結局、どうする事も出来ずに溺死するのがオチだ。

 フードの下から、侵入者の釣り上がった口角が覗いている。

 俺を生け捕りにして、それからどうするつもりなのだろう、アイツは。

 拷問でもするのか? いや、ここまで俺の情報を知り尽くして来た相手だ。きっと、実験体モルモットにでもするのだろう。俺なんぞの利用価値はそれぐらいしか思い浮かばない。

 そう考えて、自嘲の笑みがこぼれた。

 ……糞みてぇな人生だったなぁ。例えこの場で殺されたとしても、心残りなんて何一つ無い。

 あるとすれば、それは――


「――ッ!」

「ん? どうした小悪党よ、小便にでも行きたくなったか?」

「瞳さん! 瞳さんはどうした!」


 奴の玉座を構成する水、街に氾濫する水は、坂の上に建つアパートの二階にまで到達している。

 なら、地面で掃除をしていた筈の瞳さんは――!?


「『瞳さん』? ……ああ、このボロ屋の管理人が確かそんな名前をしていたな。報告書に……ああ、あったあった」


 ククク、と奴はローブの下から取り出したタブレットを片手に、フードの奥底で笑う。そして、右腕で手招きの様な動作を取ると、辺りには先程よりかは小さな音が響き始めた。

 奴の指示で水が動いているのだ、とそう悟った時、全身が言い様のない悪寒に包まれた。しかし、脚元を固定されている俺に抵抗など夢のまた夢である。

 否応無く、俺の可視領域である窓枠の中にまで、それは辿り着いてしまう……。


「くっ……」


 水に濡れて張り付いた衣服、栗色の髪、遠目でも分かる小柄な体躯……。

 彼女の尊厳を侮辱するかの様に透き通る水に揺られてやって来たのは、想像した中で最悪の……、だった。

 水が掌を形成する。だが、それは掌の上でぐったりと横たわり、全身を濡れそぼらせたままピクリとも動かない。

 瞳さん……。

 一目見て、自由の効く上半身と首を限界まで逸らさざるを得なかった。


「死んでるぞ。まぁ……溺死だな」

「ぐ……」


 クソッ! クソォッ! 

 口汚い感情の発露は喉元に滞留し、口から漏れ出るのは要領を得ない犬の様な唸り声だけ。奥歯を噛み砕かんばかりに食い縛っている所為だ。

 弾けた感情が、脳裏に瞳さんと過ごした日々の思い出を走馬灯の様に投影する。

 数年前――学もなく、金もなく、身分証明すらできない、他人から小汚く小銭を奪い取るスリだけを覚えた糞ったれに、優しく手を差し伸べてくれたのが……彼女だった。その日暮らしの、意味も目的も希薄な日々の中で、唯一、瞳さんとの関わりだけが人間的な営みで、眩しく輝いて感じられたんだ。

 一つ、一つ、彼女との思い出が心の奥底へと沈む度に、ドス黒く変質した感情が湧き上がってくる。

 俺は、正面に座す憎き仇敵を睨みつけた。


 何を――笑ってやがる!


 その時、既に瞳さんの遺体は既に窓枠からは見えなくなっていた。映るのはフードから覗く奴のニヤけた口元だけである。

 それが、途轍もなく癪に触った。


 殺してやる!


 確固たる殺意が思考を塗り替えてゆく。


 殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる……!


 だから、この時とった行動は意図的なものではなく、今思えば半ば反射的なものだった。

 気が付けば、俺は――


「殺してやる!」

 

 ――俺は、右手を強く握りしめていた。


 彼我の距離は髪の毛一本分だって縮まってやしない。

 相も変わらず、十メートルという距離は鋼鉄の檻となって隔たっている。

 しかし、そんな事情など俺には関係なかった。

 ただ、眼前に浮かぶ笑みを消したくて。

 ただ、それだけで……。

 そんな投げやりじみた無意識下の能力行使は、それでも、手中に生暖かな物体を握らせる事で成果を主張した。――おそらくだが、無意識の内に俺が能力の対象として“コレ”を思い浮かべていたのだろう。

 飛び跳ねんばかりの、イキの良い感触。

 見ずとも解る。

 生命の象徴であり、根幹を成す――


 ドクン!


 再度、鮮血に濡れる『心臓』が手元で大きく跳ねた。


「ぐ、うぅぅ……」


 今度の苦しみに喘ぐ犬の様な唸り声は俺のものじゃない。

 なら、他には一人しか居ないだろう?

 め付けた窓枠の中に、水の玉座の上で苦しそうに胸元を押さえて前のめる奴の姿があった。


「おいおい……心臓は、見えていない、筈だろう。それに、ぐっ……ハァハァ……射程距離も随分伸びてるじゃないか……」


 手中に収まる艶めかしい臓器は、ドクン、ドクン、と死の間際であるにも関わらず愚直に脈動を続け、内部に残った残留血液を吐き出しては俺の右腕を濡らす。

 これで奴は死ぬ。

 致命傷だ。

 だから、今からするこれは全くの無駄な行為である。

 俺は、右手に収まり続ける柔らかな感触を、細かく痙攣するそれを、思いっきり握り潰した。

 仇は取ったよ、瞳さん……くそっ……。

 両脚に絡み付いた水の拘束も、徐々に緩み始めている。

 心地の悪い感慨を抱きつつ、最後に、奴の死に顔でも拝んでやろう。

 そう思った時である。


「クク……フーッハハハハ!」


 突然、奴はフードの下から高らかに嬌笑した。


「何を……笑ってやがる……?」


 死の間際に狂ったか。

 いや、しかし、奴の笑みは自信に満ち過ぎている。

 ……。


「これは……成長ではない……これが本来の――だが!」

「……何の話だ! お前は何を言っているッ!」


 なにか……嫌な予感がする。

 俯いていた奴の顔がバッと勢いよく振り上げられ、フードの下に隠されていた透き通る様な水色の長髪と、端整な顔立ちがさらけ出された。その中心で、瑞々しい双眸そうぼうが狂気にせせらぐ。


「だが! 言ったであろう! 『無駄な抵抗だ』とな――!」


 俺が無意識におこなった能力行使を『無駄』と吐き捨てた奴は、身に纏っていた黒いローブを豪快に剥ぎ取った。その下には他に何も身に着けていなかったのか、すぐさま一糸まとわぬ裸体が顕現する。

 驚愕――だが、俺の驚愕は唐突な脱衣に対してだけではない。

 公序良俗を一切憚らずに放り出されたその胸元に、男には存在しない筈である「豊満な胸」が備わっていたのだ。

 いや、しかし、女だった事はともかく――何故脱ぐ!?

 驚愕の抜けきらぬ内に、奴は新たな凶行を繰り出して来た。

 徐に、大袈裟に、そして慎ましやかに、奴の白細腕が折り畳まれてゆく。その先端に伸びる陶磁器の様な白い五指が、揺れる豊満な胸を乱雑に掻き分けるや谷間を露出。前後して、その中心点である胸元の柔肌に指先が食い込んだ。

 フンっ! とりきみ上げる奴の二の腕に、雄々しくも血管がビキビキ浮き上がる。尋常ならざる力で、谷間を外側へ押し広げる様に圧を掛けているのだ肉と筋骨の上げる顔を顰めざるを得ない嫌な軋音が、概算十メートルの距離を挟んだ俺にまで届く。

 一体どれほどの力を……。

 肌の断面から鮮血が噴出し始めた。だが、奴は一切の緩みをみせない。

 やがて、堰を切ったように、肉体の箍は弾け飛び、限界点に達した肉体が割ける。奴の細い白指は胸骨ごと胸元を切り開いたのだ。


 この間、ほんの数秒の出来事である。


 茫然自失とはこの事だ。

 眼前で行われている行動に対して、全く理解が追い付かない。

 そんな俺にせつける様に、奴はポッカリと隙間の空いたを以て仁王立つ。すると、奴の脚元で玉座を構成していた水が突如として解け、一筋の水となって胸中に迸るやいなや、瞬く間に透明な心臓を形成、ゆっくりと、しかし、確実な鼓動を刻み始めた。


「嘘……だろ……」

「ふぅ……これで幾らか落ち着いた」


 奴はゆっくりと息を吐き出すと、先程とは打って変わって生気に満ち満ちた顔色で俺を見据えた。

 ……折れた。

 何処かで、大事な何かが折れる音がした。

 心が、精神が……日常の立脚点すらも失い、そして今、唯一残っていた復讐心も霧散してゆくのを感じる。

 折れてしまったのだ。

 俺は、心の奥底から敗北を認めてしまったのだ。


「ば、化物……」

「フン……」


 奴が手を振り上げたのを合図に、窓の外から部屋を埋め尽くさんばかりの水が流れ込んでくる。

 畳の上を跳ね回って、俺の顔面に襲いかかる。

 視界を埋め尽くす水、水、水――。

 やはり、こんな化物に勝てる訳が無かったのだ。

 薄れ行く意識の中、脚元の拘束が再度強まってゆくのを感じた。


「殊の外いい素材じゃないか。これは、ひょっとすると――」


 何処となく研究者然としたその言葉を最後に、俺の意識は暗闇に包まれた。

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