第3話 始動!
窓のないこの部屋は蛍光灯の明るさで昼夜を判別しているの。
目を時計にやるとすでに七時半。
朝食には柔らかいご飯と具のないお味噌汁、玉子豆腐と刻んであるほうれん草のおひたし。デザートにはミカンのゼリーがついていた。でも食欲なんて湧くことがなく、粥を少しと汁、ゼリーをいただいた。
身を少し起こして食べさせて貰うのだけれども。少し口をつけただけで要らないと告げてしまった。
それでも少しだけでも食べたのだ。
朝のうちに清拭と褥瘡予防のクリームを塗り、下の世話をしていただく。これだけでもう気持ちは沈むのだ。そんな事すら出来ない自分に嫌気がさす。
でも、今日からは少しでも人様の役にたつことが出来るかと思うと、なぜだか頑張れる気がするのよ。
キレイになり時計をみるとすでに八時を回っていた。
圭吾がいうゲームの世界で生活が始まるのは今日から。どんな事が起きるのか楽しみでもあるの。
そして心配でもある。
孫の圭吾は付きっきりで補助をしてくれるというが、それであの子は生活出来るのだろうか。
仕事というのは理解しているけど、生活とはそれだけではないのよ。食べること、寝ること、身綺麗にして周りとの関わり。
そういうのも含まれると私は思っている。あの子はちゃんと周囲とコミュニケーションが取れているのかしら。心配だわ。
幼い頃の出来事で、あの子は怯えて生きていた。
小さな声で話していても、手を頭の近くて振って身を守ろうとしていた。ましてや大きな音がすれば身を丸く縮めて小さくちいさく身構えていたの。
食べ物を与えても隠れて食べたり、ホンの少しのものでも余して隠したり。
何より言葉を自分から発する事がなく、意思の疎通が取れているのかいないのかさえ分からなかった。少しずつ変わってきて甘えることもするようになり、小学校に上がる頃ようやく話を自分からするようになったの。
季節ごとの楽しみを教えて、二人で食べたり遊んだり。
畑でものを育てて、ようやく笑うようになったの。悪戯も増えて、叱れば普通にしょんぼりするようになったわ。
そして色々あっても挫けず、一人暮しも出来るようになった。
ちょうどいい距離を保って生活も出来ていたのに。
若いあの子に全てを背負わせてしまった。これから生活をともにするであろう人が出来るはずだったのに。
ごめんね、けいちゃん。
こんこんこん。
ノックの音とともにドアが開き顔を覗かせた圭吾がいる。
「ばあちゃん、おはよ。飯は食べれた?」
この子は何度言ってもダメなのかしら。
はぁ……そういう礼儀は教えたつもりだったのだけれども。
つもりだったのね。ちっとも身についていないわ。
「少し食べたわ。飲み込みにくくて。それより返事を聞いてから戸は開けるものよ。ノックするのはなんの為?」
一応、叱ってはみた。
きょとんとした目をしていたから、本当に分かっているのかどうかは分からない。はぁ……首を少し振っても本人にはわからないわよね?
すると予期しない言葉が彼から聞こえた。
「ごめんなさい。次は気をつけるよ、たぶん……」
たぶん!たぶんなのね?
やはり……
はぁ。まあ、いいわ。しばらく一緒にいるのだから、何度も言い聞かせれば何とかなるはず。よね。
圭吾の方を向いていたけど、天井を見つめてしまったわ。なぜかしらね。
圭吾のため息が聞こえたけれども……
わかっていないのでしょうね。ふぅ。
しばらくして圭吾が話し始めた。どうやら今日の予定のようね。
「ばあちゃん、今日の説明していい?」
声をかけられたので彼の方を向いた。こちらを見ていたので、私の意識がむいたのもわかったはず。
それでもきちんと返事を返す。
「あ、ええ。お願いね」
すると、彼はベッドの反対側にやってきた。そちら側に新しく設置された机からへッドギアを持ち上げ、私に見えるように目の前にもってくる。そして説明を始めた。
「これがへッドギア。これを頭に装着して、これとあっちの機械をケーブルで繋いでゲームの世界に入り込むんだ。ばあちゃんはそのまま横になってていいよ。たぶん少し揺れる感じを受けると思うんだけど、そのうちそれは慣れるから大丈夫」
一気に説明したけれど……
あなた、私に分かるように話さなきゃだめよ。
つまり、ヘッドギアという機械を頭につける。これはあっちの機械に繋がっている。ええ、ここまでは理解したわ。
寝た状態でゲームをする。ええ。
揺れるの?よくは分からないわ。
でもそんな感じがするだけなのね?
まあ、寝ている状態で揺れるのは……やってみなきゃわからないってことね。そしてそれはそのうち慣れるって……本当に?
ええ……たぶん大丈夫なのでしょうね。
圭吾は頭に
そういえばこれを着けてくれるのは誰かしら。圭吾?
聞いてみると答えてくれたけど、直ぐにするのでは無くて、体調確認やいろいろな事がこれからあるようだわ。
不安にさせないでね?
「えっと
そう。会社の人がもう1人くるのね。挨拶はちゃんとできるのかしら。
圭吾は時計を見ると、トイレに行ってくると言って病室を出て行った。
相変わらず忙しない子だこと。いつも緊張するとトイレが近くなるのは幼い頃から変わってないわね。
あの子が病室を出てすぐにノックが聞こえた。
「はい。どうぞ 」
やはり担当医と看護師さんであった。そしてガラガラとベッドが運ばれてきた。
「こちらのベッドは特殊な水ベッドで同じ体勢でも床擦れの起きにくいものとなってます。三時間の間ずっと体位交換が出来ないためVR中はこちらのベッドに移っていただきます」
そう言うと、帯のようなものが身体の下に這わされて、ブーンという音とともに浮き上がった。ガラガラ、ガチャガチャという音の後、ゆっくり降りていくのがわかる。持ち上げるならそう言って貰わないとビックリしますね。
降ろされたベッドは何だかふわふわします。
それから血圧などいつもの簡単な検査をしてから、医師が言った。
「まあ、正常値内ですね。突然の事でも動揺されていないようですな。これなら大丈夫でしょう」
何が大丈夫なんでしょう。ビックリするじゃないですか!
「突然の状況下でパニックなどを起こされないか見ていただけですよ。これも検査の一つですから、そのように睨まないで頂きたい」
へぇ。そう。睨んだのも分かったのね。表情は変えてないと思ったのに。まあ、いいわ。それも彼のお仕事だもの。
すると次は足首や手首、頚部、胸部などにパッドをあてた。ケーブルが繋がっているようです。
まるで心電図を撮る時みたいね。
こんこん。
「はい、どうぞ」
ドアが開くとそこには一人の男性がいた。頭を下げてから部屋に入ると自己紹介をしてきた。そう、圭吾の同僚なのね?
「株式会社アテンドの市川と申します。今日は一日、補助に入ります」
補助……確か圭吾もそんなことを言っていたような。
こんこんこん。
あら、圭吾が戻ってきたようだわ。
「はい。どうぞ」
入って来た時の彼の顔は、どうしてそんなに偉そうなの?
圭吾はきょろきょろと見回し、用意が済んでいることを確認しているよう。合図を出したように頷くと話し始めた。
「ばあちゃん、ギアを頭に装着するね。そうしたら目を瞑って、音の方に意識をむけてみて。いい?」
「ええ。まず音が聞こえるのね」
「うん。そしたらね、少しだけ身体が浮き上がったり沈みこんだりする感じがすると思うんだ。でもそれは頭が感じてるだけだから。ちゃんとベッドの上に寝てるから安心してそのまま浮いててね」
何をいっているのかしら?
でも揺れると聞いていたから、浮いた感じもするのでしょう、きっと。
「浮くの? そう、わかったわ。ええ、もう始めていいわよ」
その言葉を聞くと彼は私の頭を持ち上げて機械を被せた。そっと髪の毛が顔にかからないように、髪をまとめると後ろに流し、耳の位置や目の保護バイザーの位置、装着がキツくないか、あちらこちらを触って確認している。
用意が出来たのでしょう。彼は私に言った。
「ばあちゃん、聞こえる?まだスイッチは入ってないから。キツくない? 大丈夫?」
心配そうに声を掛けてきた。
正直に感想を答えた。
「真っ暗ね……頭はきつくはないわ。耳のこれはスピーカーなのかしら……音が響いているのか、自分の声が変に聞こえるのだけど。これはこれでいいの?」
どくどくと音がする。
「うん。たぶん、それは自分の身体の中の音が響いてるんだと思うよ。じゃあ目を瞑って、頭の中でゆっくり数を数えようか。一、二、三、四……」
目を瞑って、圭吾の声を聞く。
彼の声に合わせて頭の中で数を数える。
いくつ数えただろうか……
小さな音が聞こえる。どくどくどく……
その中に混ざって羽音のような音もする。
これは……
確かに水に浮かんでいるかのよう。背中や頭の下に何らかのものがあるようには思えない。
でも溺れているような気もしない。不思議な感覚。
『ばあちゃん、聞こえる?聞こえたら目を開けてこっちを見て』
圭吾の声が頭の中に響く。
目を開けてみる。
頭の中に響くのに響いてきた方向がわかる。私にとって右側から聞こえる気もする。
そちらに意識を向けると、身体が動いてその方向に正対した。
目の前には白い人影が。
……でもこの声は知っている声。
『けいちゃん?』
『そうだよ。ばあちゃん、足の下には床がちゃんとあるから立ってみて』
『ゆか?たてるの?』
ここに床があるの?意識すれば床に立てるの?
『うん。立てるよ。ほら目の前の僕をみて』
圭吾の身体をみると確かに立っているような気もする。
足を伸ばしてみる。しばらく動かしていない、存在しているのか分からなかった足が伸びて……
床についたのが分かった。
『あ……床がある……たってるの?あ、足が動くわ』
右足を持ち上げてみる。すると左足に体重がかかった。足が動く。感覚がある。
身体が自分で動かせる、わ。
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