宇宙のショートショート

有川 真黒

《プラネタリウム》


 星が見えない街にきてしまった。街に星のように人はあふれているのに昔見た空のように、見えるのはそのほんの一握りだ。他の人にとってもそうだろう、私にとってもそうだ。生きているのに見えない、そんな生。人魂のように白い息を吐きながら星の見えない空を見上げる。朝起きて活動して帰ってきて眠りにつく。だましだまし何度も同じ道を歩く。死なない程度に生活を豊かに。

 

毎日、天井から光がそそいでいるうちは青い光を放つ画面に向き合って手を動かしている。真っ白なコピー用紙の余白、捲るためのゴムは滑稽なウエディングと指輪にも見える。コーヒーをもらおうとデスクから立ち上がろうとした途端左側が引っ張られてとっさに振り向くとカーディガンの裾から糸がぴーっと…………、

「派遣さん」

そんなに大きな声で言わなくったっていいのに。

「はい、なんでしょう」「ここ」私が言い終わる前にファイルの山にかろうじてある机の部分に乱雑に置いた書類の細かいグラフを指した。「ここのグラフこうやると他社と比較してる意味がないでしょ、ぱっとうちが勝ってるように見せないと。」と。「はい、すぐに直します」とだけ。

 椅子に腰かけると、右手の中指が気になって爪と皮膚の間のすきま、爪の下のよく砂利とかが入っていた部分、爪の先の白い部分を拡張するように左手の人差し指の爪をそこに差し入れて皮膚をしたに引っ張ったり爪を上に引っ張ったり。間から出てくる硬い皮膚片を千切るとそこから血がうっすらと滲んできた。すぐに黒くなった。仕事をした、それが生活の対価だから。よく見たらほつれた糸は致命的にカーディガンを蝕んでいた。

 

つめたい鍵穴につめたい鍵を差し入れて、がちゃりと私以外が息をしないワンルームが開く。鈍く光る流しにある感情を持たなそうな皿を洗っていると昼間の右手の中指が少し痛んだ。これも対価か。コーヒーを飲みながらふと本棚のうちゅうだいじてんを手に取った。小学生の時せがんで買ってもらった本をこの年になるまで捨てられないでいた。久しぶりに見た星はいつも見るよりももちろん綺麗で、ずっと眺めてしまっていた。

 いつもと違うことをしてしまったのでどうせならもっといつもと違うことをしようと風呂にお湯を張ろうと掃除をした。足元を流れていく水がつめたかった。お風呂に蓋なんてないし浸かりながらお湯を入れた。足を引っ込めないと入れない浴槽に収まった。足を折り曲げて頭を浴槽の底につけた。お湯が勢いよく出る音がする。湯気の粒が何の力か揺蕩うのが見える。だんだん水が耳に入り顔を覆っていく。生暖かい感触がじわじわと身体を包んでいく。たとえば死体ってこういう気持ちなのかな、いや死体は考えないか。と思った。とめていた息が、さすがに酸素を欲した身体がゆっくりと水面から出た。ぽたぽたと髪から水の粒が落ちる。冷え切った足をもう一度漬けて、浴槽の角に凭れ掛かかって、また顎から忍び寄る水位に身を預けた。目を瞑るともちろんオレンジの光が瞼に透けた色がして、そういえば浴室を真っ暗にして風呂に浮かべてプラネタリウムを楽しむものがテレビでやってたなと思いだした。オレンジの背景のまなうらに星を見て、はだかの脚は、腕は、こころは、あたたかい宇宙にあった。


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