納得という事
「えーっ、君には来月からだね。A県にあるわが社の支店に異動してもらうから」
そう──朝礼後、唐突に上司に命じられても田中は、と返事を返すだけであった。
逆に上司が不思議そうに首を傾げれば、こほんと。彼の言葉を促すように咳をする。
「ええ、はい。わかりました」
しかし彼は、表情を変えずに己の上司へ言葉を返す。丁寧だが冷たく聞こえる声色。
ぶっきらぼうにも受け取れるそれを、上司はたるんだ顎をわずかに震わせて自身への挑戦か反感と感じたのだろうか、もういいと言わんばかりに戻れと手を振った。
高層ビルの一室。朝の喧騒はこの二人のやり取りを盗み聞きするのに多少静かで
上司の机に背を向け指定席に戻る彼を、他の社員たちのこそこそと眺める。
だが彼は弧を描く眉を動かすことも、同僚たちを鋭いと評される目つきで見つめることも無く。すたすたと席に着くと黒い背広を脱ぎ自身の仕事を始めた。もくもくと。
実際、男は心の中で”あぁ、そうか”と呟いただけであった。
母親に中学受験を、高校を、大学を決められ。父親には部活と趣味を決められた。
家族だけではない、担任や塾の講師が周りの優しい他人が彼の為と決めていった。
”自分以外は全て正しい”と信じている男は、故にこの事にも疑う事はしない。
それが最近業績が傾いてきた会社のコスト削減の為の辞職を期待した人事としても、無感情だが仕事はこなす気に食わない部下を喜んで見捨てた上司の言葉だとしても
他人の言葉で出来た彼は、空っぽな感情で納得した。──ゆえに、だからこそ
トラックにひかれた時も”あぁ、そうか”と彼は自分の死を納得したのであった。
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