俺の創作生活

黒羽カラス

第1話 気晴らしの散歩

 パン屋の甘い匂いから解放された。バイトを終えた俺は真っ直ぐにアパートに向かう。どこにも寄り道はしない。

 雑然としたワンルームに戻ると、ちゃぶ台の前にドカッと腰を下ろす。尻の下で悲鳴を上げたスナック菓子の袋を手で払い除けた。

 早々に卓上のノートパソコンを起動させる。程なくして投稿サイトが画面に表示された。自作の短編のタイトルがずらりと並ぶ。評価に関係する星の数はどれも一桁。数週間の期間を経ても泥沼から抜け出せないでいた。

「今日こそは……」

 俺はマウスを握った。マウスポインターの矢印を左上に動かす。更新ボタンに重ねてマウスの左ボタンをカチッと押した。

 右上のUFOのような鐘は沈黙を通した。心の中で密かに燃えろと念じていたが、赤い丸は付かなかった。良い知らせを伝える機能は飾りと化していた。当然のように作品の星にも変化がない。閲覧を示すPVだけが少し増えた。

「意味ないってー」

 間延びした声で俺は後ろに倒れた。

 瞬間、身体が反り返る。短い悲鳴を上げて転げ回った。

「この野郎!」

 背中を摩りながら少しひしゃげた缶ビールを引っ掴む。生温い感じが伝わって無性に腹が立った。思った時にはフローリングの床に叩き付けていた。

 缶ビールは盛大に噴いた。ウケた訳ではない。衝撃で中身を部屋に撒き散らしたのだ。

 俺は缶ビールにまでこき使われた。数年前に温泉宿で貰ったタオルを雑巾がわりにして拭いた。見た目が草饅頭くさまんじゅうになった肉まんはゴミ箱に食わせた。

「……何をしよう」

 座り直した俺はノートパソコンを眺める。先程の更新から数分は経った。

 俺はマウスを握った。左ボタンを押して更新を試みる。直後に間違い探しをするように画面に目を走らせた。

「なんもねーよ」

 感想乞食という言葉は呑み込んだ。そこまで自身を貶めて喜べるようなマゾ気質ではなかった。

 溜息が漏れた。パンパンに膨らんだやる気が萎んでいく。目がぼんやりとした。眠いのかもしれない。横になろうとしてビクッとなった。

 後ろを見てほっとする。雑誌や無料のアルバイト情報誌があるだけだった。安っぽい布団の上に俺は倒れ込んだ。

 仰向けで瞼を閉じる。両腕を水平にした。無防備な姿が何となく気になり始める。寝返りで横向きとなって丸まった。

「……カブトムシの幼虫」

 数秒の間のあと、自分にウケた。グフッとくぐもった笑い声が出た。

「もしかして……」

 俺は起き上がった。マウスを握って画面を更新した。変化はない。わかっていながらカチカチと何回も押した。

無間地獄むけんじごくかよ!」

 乱暴な手付きでノートパソコンを閉じた。立ち上がって黒いジャケットを拾い上げて着込む。

 気分転換を兼ねた散歩に出掛けることにした。去年の暮れにスマホを手放したので外まで投稿サイトを引き摺る心配はなかった。


 五歩で道に出た。左右に目を向ける。変化に乏しい住宅街に興味を引くようなものはなかった。

 空を眺める。夕焼けで一部がほんのりと狐色になっていた。焼き立てのパンの色と似ていたせいでバイト先の失態を思い出しそうになった。慌てて右に踏み出す。目的地は定めていない。

 行動することに意味がある、と思いたい。犬も歩けば棒に当たる訳で。俺にも何かの出会いがあるのではないか、と妄信できる狂信者になりたい、今限定で。

 しかし、何も起きなかった。たった一人の競歩の大会に出場している気分で酷く滅入めいる。肝心の人が見当たらない。軽自動車は走っていたが呼び止める術がなかった。当たり屋という言葉が頭に浮かんで身震いした。

 歩きながら親指の爪を噛んだ。苛立つと自然に出る癖のようなもので飢餓状態では決してない。

 異変は唐突にやってきた。脇道からぴょんと幼女が現れたのだ。ピンクのワンピースにはフリルがいっぱいで大好物、ではなくて見ていて和む。俺は目を見開いて可愛らしいナマモノを愛でた。

 その視線を遮るように母親らしい女性が立ち塞がる。汚物を見るような眼が怖い。身長は俺よりも低い。恐れるような相手ではないはずなのだが、醸し出す雰囲気に呑まれる。全身がゼリーのようにプルプルと震えた。

「ボ、ボク、わるいスラ、いえ、何でもないです」

 脳もプルンプルンらしい。妙なことを口走る前に俺は目に付いた喫茶店に飛び込んだ。

 カランと涼しげな音が降ってきた。見ると鈴の形をしたドアチャイムが付いていた。赤い丸を真剣に探した俺の精神状態が危ない。

 無言でカウンターの席に座った。ヒッヒッフーのラマーズ法を駆使して自身を落ち着かせる。おかげで冷静になれた。素晴らしい小説のアイディアは産まれなかったが。

 水を運んできたウェイトレスに対し、斜に構えてコーヒーを注文した。待っている間、水で喉を潤す。

 隣から声が聞こえてきた。若い女性がスマホに耳を当てて話をしている。他人に聞かれたくない内容なのか。声を潜めていた。

 俺は意識しない顔で耳を澄ます。

「だから、それは前に話した通りで……そうよ。だったら何?」

 一瞬の横目で表情を窺う。セミボブの髪の一部を指に巻き付けていた。目付きが鋭い。先程の女性と被って見える。

「……あなたの言いたいことはわかったわ。でもね、わたしにも譲れないものがあるの。五年も一緒にいたらわかるよね?」

 女性は口を閉ざした。相手の言葉に耳を傾けている様子で時に頷いた。痴話喧嘩ちわげんかのように思えた。

 意識が女性から離れた。ウェイトレスが注文の品を横から滑り込ませる。軽く微笑み、ソーサーからカップを持ち上げた。まずは鼻で匂いを味わう。

「……アンティキティラの機械はわたしのものよ」

 思いもしない言葉に俺は意識を持っていかれた。匂いだけでは物足りないと、俺の手は鼻の穴にコーヒーを入れた。

「ふぇがっ!?」

 人生二十五年、初めての奇声であった。零れないようにコーヒーをソーサーに戻し、掌で鼻を押さえた。黒い鼻水を阻止して手前の紙ナプキンで鼻全体を挟んだ。中に入ったコーヒーを絞り出し、少し楽になった。

 用済みとなった紙ナプキンを握り潰す。ふと気付いた。隣の声が聞こえなくなっていた。嫌な予感がしながらも顔をぎこちなく向ける。

 女性はカウンターの端に移動していた。顔を背けるようにして密やかな通話を続けている。

 俺は逃げ込んだ先で変質者となった。ウェイトレスは横を向いて立っていた。カウンターの中にいる初老のマスターは細めた目で語り掛ける。

 通報するぞ、ボケが、と。

 俺は黙ってコーヒーを飲んだ。隠し味のほんのりした塩味が心の傷に沁みた。

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