残念な佐藤さん
CHARLIE
第1話 二十年ぶりのマイ(原稿用紙26枚)
二〇一三年十一月九日土曜日。近畿地方は午後から晴れた。日ごとに桜やイチョウの葉が色づいていくこの季節。きょうのバンドの練習を、ぼくは心待ちにしていた。
大学時代からもう二十年、ぼくたちは同じメンバーでバンドを組んでいる。メンバーはぼくを含めて四人。みんなもう四十歳前後だから、ぼく以外はみんな妻子を持っている。月に一、二回練習をしてはいるが、練習日は細かく、例えば「第二、第四土曜日」と決めているわけではない。みんなそれぞれに仕事や家庭の事情があるから、月によって練習する日は土曜日になったり日曜日になったり、はたまた「ハッピーマンデー」になったり、マチマチだ。
そんな練習の日を、わざわざきょうにしてくれたなんて!
ぼくは大阪市北東部に位置する中新庄(なかしんじょう)駅の、薄暗い自動改札を、ベースギターを背負い、駆け足で通り抜ける。
エスカレーターで二階へ行き、ホームで電車を待つ。
すぐに右手の方向から、赤茶色の阪急電車が入って来る。
土曜日の午後とあって、空席はない。ぼくは吊り革を右手で持って、立つ。思わず鼻歌がこぼれて、隣に立っている頭髪の薄いスーツ姿のおじさんから、めがね越しにじろりと睨まれて、やめる。
おととい、十一月七日は、ぼくの四十歳の誕生日だったのだ!
だからきょうバンドの練習があるということは、メンバーが、ぼくの誕生日祝いをしてくれるに決まっている。ぼくに知らされていないことがその証拠だ。サプライズパーティをひらいてくれるのだろう。
だけどヤツらも甘いナ、とぼくはついにやにやしてしまう。
毎年、ぼくの誕生日の前後には、これまでバンドの練習が組み入れられなかった。年もみんな四十歳前後のオッサンだし、女性みたいに誕生日を大事にするわけでもないから、わざわざメンバーの誕生日にイベントをする、なんてことはこれまで一度もなかったのだ。ぼくにしてもほかのメンバーの誕生日を覚えているわけではない。
ただ、メンバーの一人、同い年のウッシーのヨメさんが、ぼくと誕生日が同じはずだった。だから、せめてウッシーだけはそれを覚えていて――というかヨメさんに覚えさせられていて――、唯一独身で、近ごろ浮いた話をちっともしないぼくを哀れに思って、やさしい仲間たちが励まして、祝ってくれるのだ!
そう期待してスタジオに入った、のではあるけれど……。
「なあなあ」レッスンのあと、ぼくは言う。「このあとどっか行く?」
サプライズパーティがなくても、レッスンのあとで飲みに行くことはよくしていることだった。
ウッシーと、もう一人、同い年のケンが、顔を見合わせる。
「はい残念!」ケンが大きな声を出す。「オレあした家族でハイキング行くから、はよ帰らなあかんねん」
「オレもアカン」ウッシーだ。「ヒロシ、お前、オレのヨメの誕生日がお前と一緒なん、覚えてるヤロ? ヨメの誕生日が平日やったから、ヨメのお誕生会、今夜家族ですることになってんねん。
それにしても、なぁ。ウチのヨメはオレより三つ年下やけど……。
誕生日が一緒でも、ヒロシとヨメとじゃエラい違いやな。ウチのヨメはお前みたいに『残念』やないゾ」
ケンもにやにやと笑って、ウッシーと二人でぼくを冷やかす。
「ぼく、いいですよ」標準語で微笑みを浮かべるのは、唯一ぼくらより二つ年下のドラマー、コウちゃんだ。「うちの家族は練習のある夜は遅くなるかもしれないってこと了解してくれてるんで、何時まででも付き合いますよ」
「よぉ! さすが優等生!」
ウッシーがからかう。
「そのクセに、大学四回で、オレらと同い年のカノジョを孕ませたって聞いたときは、ビビったよな」
ケンは皮肉が好きだ。
「余計なこと言うなや」ぼくが遮る。「コウちゃんは育ちがええねん。実家の、新潟の市議会議員してはるお父さんがふところのデッカイ人やから、コウちゃんの学生結婚を認めてくれて今に至ってるんやし。そんなコウちゃんが選んだ相手やから、コウちゃんの交友関係にも理解があるんや。お前らみたいなんとは、違う!」
「はいはい」ウッシーがギターをかつぐ。「せやから、『残念な佐藤さん』の相手をしてくれるのも、育ちのいいコウちゃんだけや、ってことな。せいぜい『残念な』ことしの抱負でも、じっくり聞いてもらえや」
「そうそう」ケンが言う。「去年までは『三十代のうちにゼッタイ、ケッコンするゾ!』って、飲むたびに言ってたけど、ついにお前も四十路突入や。どうせ今度は『四十代のうちにケッコンするゾ!』って言うんヤロ?
ほんま、残念なヤツやなぁ」
「やかましいわ!」
ぼくの大声を背中に受けて、ウッシーとケンは、笑い声を残して去って行った。
「じゃあぼくたちも行きましょうか」
コウちゃんは背が高く、顔が長く、肌の色がとても白い。切れ長で黒目がちな目がいつも澄んでいて、さわやかな印象を醸し出している。
「悪いな」
つい、謝る。
「いいんですよ」
コウちゃんがスタジオの扉を手前に引いて、外に出た。
午後六時半。
スタジオの近くにある、よく行くチェーン店の居酒屋は、混んでいた。二人なのでテーブル席で良かったのだけれど、座敷しかあいていないと言われた。コウちゃんとぼくは座敷に通され、掘りごたつに向かい合う。襖を閉め切ると、ホールの騒ぎ声が低くくぐもってしか届かないし、この座敷にもほかに客はいないようだ。
頼んだ生ビールはすぐに運ばれて来た。
「じゃあヒロシさんの誕生日を祝って乾杯しましょう」
「おお」ぼくはジョッキを高く持ち上げて、言う。「オレはぜーーったいに、四十歳のうちにケッコンするぞぉー!」
「この一年のうちに、ってことですか?」
コウちゃんが苦笑する。
「そうよ!」ぼくは目ぢからを込めてコウちゃんを見つめる。「もう『残念』からは脱却するんや」
「いやヒロシさんが残念なのは、結婚できないからだけじゃないと思うんですけど……」
「何?」
ぼくはさらに視線を強くする。ジョッキをかかげた手を少し下げる。
コウちゃんは人当たりがいいから、言いにくいことも案外サラリと言う男だ。それでもコイツを憎む気にはみんななれないから、四十近いコウちゃんのことだけは、みんな昔と変わらず「コウちゃん」と呼び、呼び捨てにはしないのだ。
「そうですね」コウちゃんは微笑む。さわやかだ。「ヒロシさんが四十歳のうちに結婚できますように」
「よっしゃ!」ぼくはコウちゃんのジョッキに自分のジョッキを近づける。「かんぱぁい!」
「乾杯」
その一口でぼくたちはそれぞれに、ジョッキの半分くらいまで、生ビールを飲んだ。
「ヒロシさん今彼女は?」
枝豆に手を伸ばして、コウちゃんが訊く。
「今はおらへん」
「最後に付き合ったのは?」
「んん……」よく思い出せないのは、その女性との別れかたを、あまり良く感じていないからなのだ。「四年前、だったかな。ウッシーの会社の子」
「ああ! ミスユニバースに応募できるくらいスタイルがいいって噂されてるって言う?」
「そうそう」
「顔も結構良かったんでしょ?」
「まあな」
彼女はスタイルには自信を持っていたけれど、顔立ちには不満を持っていた。そういうところを可愛いなと感じていたのだけれど。
「ほんとヒロシさん、残念……じゃなくて、もったいない! 惜しいことばっかりしてますよねぇ」
「でもお前らに話してるのって、アイツのことくらいじゃないか?」
「大学を出てからはそうですけど。学生のとき、植田(うえだ)さん。軽音楽部のみんなが憧れてたじゃないですか。あんなに体は小さいのに、細い腕でドラム、ドンドン叩きながら、シブい声で歌も上手くって。女子からも人気あったし」
「嗚呼……マイかぁ……」
「ヒロシさんは学生時代モテてたし、サークル内で女子の友情ぶっ壊すの、得意でしたよね。でも植田さんのことだけは、なんか、特別に思ってるんじゃないかなって思ってたんですよ。だから、半年もしないで別れたって聞いたときは、びっくりしましたよ」
「あいつ、元気にしてるんやろ?」
ぼくはコウちゃんが言ったように、学生時代サークル内の人間関係を壊しまくっていたから、年に一度行われている同窓会へは顔を出したことがない。いや。マイに再会することから逃げているというほうが大きいようにも思う。
ぼくは二十年来の友人たちの誕生日は覚える気さえないのに、マイに告白してOKをもらった五月十五日、バイト先の女の子に手を付けたのがマイにバレて振られた十月十五日を、今でもそのときどきの気持ちを伴って、克明に記憶している。
「植田さんは結婚して二児の母です。でも相変わらず華奢な体型で、肌にもハリがあって、昔と同じように瞳がキラキラしてて……きれいですよ。
それに最近では、高校生になった息子さんたちと一緒にバンドやってるって、この前会ったときに言ってました。高校生の男の子が自分のお母さんと一緒にバンドなんかするのって普通ならいやがりそうなもんですけど、あの人だったらなんか、わかるなぁって。みんなの意見が一致しました」
たまらなくなってぼくは、テーブルに乗ってあるボタンを押す。店員がすぐに駆けて来る。
「生中、もう一杯。コウちゃんは?」
「あ、ぼくも」
「はい。生中二つ入りまぁす」
大学生らしい長身で骨張った青年が、太い声を残して去って行った。
ぼくはマイの話題が出るのが苦手だった。昔と変わっていないと聞かされるのが、一番いやだった。だから、同窓会へ顔を出しているバンド仲間たちの話を詳しく聞くたびに、マイを鮮明に思い出し、やり直せたらと願い、今どこに住んでいるか、どこへ勤めに出ているか……細かく聞き出したら自分の仕事を放り出して、ストーカーになってしまいそうに思えるのだ。そうなったらまた一つ、ウッシーやケンたちから「残念」と言われるエピソードが増えてしまうに違いない。
コウちゃんが言うように、学生時代のぼくは本当に不埒だった。中学時代、高校時代からそうだった。なぜか、自分でも不思議なほどに、ぼくはモテた。しょっちゅう女の子から告白された。ぼくには嫌いな女の子がいなかったから、みんなに対して「付き合うよ」と答えた。そのことが結果的に、三股になり、ひどいときには六股にまで広がっていた。大学時代サークル内で二股をかけてしまって、結局両方からフラれたときには、
「残念なヤツ!」
と、ウッシーやケンからからかわれた。
このころからぼくはよく、「残念な佐藤さん」と呼ばれるようになったのだった。
だけど、ぼくはそのときどきで、どの女の子のことも、好きだった。悪意は少しもなかった。
悪意。
マイに告白をする前に付き合った女の子には、一種の悪意を込めていたように思う。
マイとは大学に入ってすぐに知り合っていた。一つ上の先輩だった。素敵な人だなとは感じたけれど、例によってぼくには寄って来る女の子がたくさんいたから、不自由はしていなかった。
それが二回生になったころから、あまり告白をされなくなった。その期間をぼくは「愛の空白時間」と呼んでいたのだけれど、そのときに初めて、自分のなかに芽生えたマイへの強い憧れや、生まれて初めて感じる自発的な焦がれを認めるようになっていた。
そんなとき、サークルの後輩から付き合って欲しいと言われた。本当は断りたかった。だけど、と考えた。わざとその子と付き合って、イチャつくところをマイに見せつけたら、マイも少しはぼくを男として意識するようになってはくれないだろうか?
その後輩は、ばかな子ではなかった。すぐに、ぼくの心がどこか別の場所にあると気づいて、去って行った。
ぼくの「悪意」に効き目があったせいかどうかはわからない。ともあれぼくはそのあとすぐ、生まれて初めて自分から女性に、「付き合ってください」と頭を下げた。人ごみのなかで土下座したっていいと思うくらいに、マイのことが欲しかった。
「いいよ」
マイはハスキーな声で、微笑んだ。その対応さえぼくにはとてもスマートに感じられ、ますますマイに惚れ込んで行ったのだった。
午後九時。
阪急電車のロングシートに腰を下ろして、昔のことを思い返していた。
目を閉じると、マイが笑っている。小さな顔、短い髪。大きくはないのにいつも力強く光を放って輝いている丸い瞳……。
いつしかぼくは眠りに落ちていた。
目が覚めて、降りなければ、と思った。
ホームに出る。
ホームは人で溢れている。リュックサックを背負った遊び帰りの家族連れ、中には何人かスーツ姿の男性の後ろ姿も見える。大学生が多いような気がする。ブルージーンズを履いている若い男女が多い。
ホームから上に向かうエスカレーターに行き着く。
あれ?
中新庄の駅は線路が国道の上を通っているから、改札へ行くためにはエスカレーターを降りないといけないのに。
周りの景色を確かめたいけれど、人が多すぎて、できない。
見覚えがある場所ではある。けれど、中新庄でないことも事実だ。
ぼくはこれまで、何ごとにも受け身で生きて来た。この人波が流して行く方向で、行き着いたものを受け入れるだけだ。
そんな、漠然とした覚悟だけはしている。
エスカレーターを昇った先で、視界が左右にひらける。
自動改札が十台ほど並んでいる。
そうか。ここは大学時代の四年間を過ごした、南大阪駅なのだ。
ジャケットのポケットから、阪急梅田駅で買った切符を、近鉄電車の駅の改札に通す。
問題なくゲートがひらく。
おかしなことだ。
だけどぼくのなりゆきまかせの決心にはゆらぎがなくて……。
改札口を左に向かう。
下りのエスカレーターに乗る。
遮断機が上がっている踏切を渡ると、中央線がない狭い車道の向こうにミスタードーナツの、黄色と茶色のロゴが見えている。
「今」はいつなんだろう? 大学時代、この場所にもこの店はあった。よくいろんなツレと朝までこの店でしゃべったり勉強したりしたものだ。
ぼくは経過した歳月を計算する。
大学時代がはたちとして、今四十歳。
つまり、およそ二十年か。
「ここ」が二十年前なのか、「今」なのか。それすらもわからない。就職して以来、この駅で降りたことはないのだ。
しかし、「今」のぼくが「ここ」へ来たからには、行くべき場所はほかには思い当たらない。
ミスドの前を通り過ぎる。
シャッターが閉まった文房具店の前を歩く。
その隣には、二階建ての文化住宅が建っている。
鉄が錆びついた階段を昇る。昔と何も違わない。
五つ並んだ真ん中の部屋に、ぼくはかつて暮らしていた。
その部屋は今も変わらず「203号室」という札が、玄関の扉に貼られている。
中新庄のマンションの鍵を、「203号室」の鍵穴に差し込む。
鍵があく。
部屋の中には灯りがともっている。手前に三畳、奥に六畳の、畳の部屋が見える。
「お帰りー」
玄関の横が台所になっている。若いままのマイが、靴を脱げずに戸惑っているぼくに、笑顔を見せた。
ぼくは初めて慌てる。
セカンドバッグから、営業の仕事用に使っている小さな白い鏡を取り出し、自分の顔を映す。
白髪は、まだできていない。体重も学生のころとそんなに変わっていないけれど、顔の肌はいくらかたるんでいるかもしれない。しまった! 若いころは目尻にしわなんてなかったのに。これはヤバい。大学生の「ぼく」ではないと、マイにバレてしまう……!
「何してるん? ご飯食べるヤロ?」
マイはぼくの目の前に立ちはだかる。
小さな鏡を覗き込んで、気まずそうな表情を浮かべているぼくを、心底不思議そうに見つめている。どうやらマイの目には、ぼくはまだはたちの大学生に見えているようだ。
「あ、ああ……」
ぼくはスニーカーを脱ぎながら、もう一つおかしなことがあると気づいた。
居酒屋ではコウちゃんと、生ビールを五杯飲み、焼き鳥や揚げ物をたらふく食った。なのに、腹が鳴るのだ。空腹を覚えている。
そうだ!
突然閃いて、左の手首にはめている腕時計の、アナログの文字盤を見る。
午後十時。
確か、コウちゃんと別れて阪急電車に乗ったのが、午後九時だった。
たったの一時間でこんなに腹が減るものか? それに、一時間では梅田から南大阪駅までは、到底帰って来られない。乗り継ぎが上手く行ったとしても、一時間半はかかるはずだ。ただし、ぼくには大学時代の交通事情しかわかっていないのだけれど。
「もうヒロシ! 何してるんよぉ」
マイが、奥の六畳の部屋から細い首を伸ばしている。
「ああごめんごめん」
ぼくは、駅で感じたことを思い出す。
なるようになる。
「早く座って」
マイが三畳の部屋まで出て来る。
そこでぼくと正面から向き合い、ぼくの両手を握り、背伸びをして軽い口づけをする。
マイが着ている白と紺のボーダーのカットソーから、昔彼女が使っていた洗剤の香りが、やわらかに漂う。
ぼくはもう苦しくて、わめきそうになるのを、必死で抑える。
「誕生日のお祝いやで」
マイはぼくの手を引いて、奥の部屋へ連れて行く。
テーブルの上には「中華定食」とでも呼べそうな、ぼくの好物、マイの得意料理が並んでいる。とりのから揚げ、焼き餃子、卵スープ、天津飯。
「早く食べよ。冷めてまうで」
「ああうん。いただきます」
箸をつける。口に運ぶ。から揚げはから揚げの、しょうがじょうゆの下味と、もも肉の歯ごたが感じられ、餃子からは肉汁がしみ出して来て、卵スープは猫舌のぼくにはまだ少し熱かった。
冷めかけているものから、少しずつ口に入れていきながら、ぼくは過去に起きたことも、同時に咀嚼していった。
マイも一人暮らしをしていたせいか、家事が得意だった。彼女がよくつくってくれる料理は、不思議とぼくが好きなものばかりだった。もしあのままつづいていれば……。
働き始めてから、何人かの女性と付き合った。しかし彼女らには一人暮らしの経験が少なく、掃除も洗たくも料理も、ぼくがしたほうが上手で手早かった。だから、恋人と同棲をしていたころでも、家事はぼくが担当することばかりだった。
ウッシーの紹介で付き合ったスタイルのいい彼女ともそうだった。ウッシーは彼女から家事担当がぼくだということを聞いたらしい。ウッシーの耳に入ったことは洩れなくケンに届く。当然のように二人から、
「やっぱりお前、『残念な佐藤さん』やな」
と、からかわれた。
マイと付き合っていたとき、十月十五日に別れてしまったから、マイにぼくの誕生日を祝ってもらったことは、結局なかった。もしあのままつづいていたら、こういう思い出も現実にあり得たのかなと思うと、今目の前にいるマイのやさしさがあまりにも切なくて、涙が出そうになる。
マイはそれまで付き合った誰とも違っていた。特別だった。だけど、それまでの恋人たちが二度も三度もほかの女の子と浮気したことを許してくれた経験に、甘えていた。きっとマイも、自分がぼくにとって初めての本気の相手だと、よくわかっていたのだろう。本気すぎたから、たった一度のことで、あっけなく壊れてしまったのだ、と、今になるとよくわかる。
食事を終えたあと。
「はい。誕生日プレゼント」マイはテーブルの下から小さな黒い紙袋を取り出した。「あけてみて」
水色の紙で包まれた細長い箱。同じ色のリボンがかけられている。
ぼくは、不用意に壊れてしまった関係と同じように、ふとしたはずみでそれが消えてしまいそうに思えて、不安で、怯えて、ていねいに糊付けされている包装紙をはがす。
有名な文具メーカーのボールペンが現われた。黒い胴体に、インクを取り外しするところにだけが、金色に光っている。
「これ、仕事のときに使って。がんばって働いてね」
「え?」
なぜぼくが働いていることを知っているんだと訊こうとしたとき、マイの微笑みは画用紙を握り潰したようにクシャクシャになってしまった。
次の瞬間ぼくは、電車の中に戻っていた。車内のアナウンスが男性の声で、次の停車駅が中新庄であると告げている。
立ち上がり、ドアの前に立つ。
電車がゆれて、左側にある手すりを持とうとして、左手に細長い箱を持っていることに気づく。青いリボンがかかったままの、「マイ」からもらったあの箱に違いなかった……。
部屋に戻ってから、やはりぼくはていねいに包装紙をはがした。
中にはあの南大阪の文化住宅で見たのと同じ、黒いボールペンが入っていた。
ぼくはクローゼットに向かう。月曜日に着て行くつもりにしているスーツの胸ポケットに、そのボールペンをさした。
「あ……」
ぼくは、ボールペンが装備されたグレイのスーツを見て、気づく。
「また思い出してもたやんけ! 四十歳のうちには絶対結婚するって決意したトコやったのに……くそぉ!」
この一年もまた「残念な佐藤さん」で終わるのか?
そう考えただけで、ますます自分が「残念」な人間になっていくように思えてくる……。
「ま、言いたいヤツらには言わせておこう」
明確に、ウッシーの天然パーマがかかった硬い髪と、ケンの浅黒い彫りの深い顔を思い浮かべながら、独り言をいう。
そして。
「マイ」がくれたボールペンに、ぼくは軽く唇を寄せる。
「あの部屋」でマイとキスをした感触、彼女の香りが蘇えり……。
「このままでもええわ」
ぼくはそう笑った。
四百字詰め原稿用紙 二十六枚
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