【書籍化記念SS】宵の国戦記 最強の暗黒騎士は平穏に暮らしたい

長月東葭/DRAGON NOVELS

〈四大主〉の宴


「――宴の席を用意させておる。ゆっくりしてゆくがよい」



「「「「お言葉に甘えさせていただきます、陛下」」」」



 一糸乱れず、一同が声をそろえてそう言った。


 ――魔族領、〈宵の国〉。中心地、〈淵王えんおう城〉。


 灰色の光に照らされた玉座の間には、出入り口が存在しなかった。


 〈大回廊の四人の侍女〉――全身を白と黒だけの給仕服で包み、四角い頭巾に頭髪を仕舞しまい込み、垂らしたベールで目許めもとを隠して徹底的に個性を殺した召し使いたちの導きがなくては、この場所に辿たどり着くことはできない。


 無音と静止に満ちた、何処どこともつながっていない場所。それが玉座の間である。


 そんなこの世の果てのような場所で、ぽつんと据えられた孤独な玉座に身を沈め、能面のような無表情に頬杖ほおづえを突いている者がいる。


 〈少女の姿をした何か〉……魔族たちの頂点に立つ者、〈宵の国〉の絶対君主、〈淵王リザリア〉その人である。


 リザリアの金属光沢をたたえた金色の瞳が見下ろす先には、先ほど声をそろえて王の歓待に応えた者たちが四人、ひざまずいて深く頭を垂れている。


 〈四大主〉。〈宵の国〉の四方を守護する、魔族軍最高戦力。四人の戦人いくさびと



「陛下の御恩寵おんちょう、この身に余るよろこびにございます」



 複雑な刺繍ししゅうを施した民族衣装からすらりとした褐色の四肢を伸ばし、特徴的な横長の耳を持つのは、〈南の四代主〉、〈むしばみのカース〉。



「うふふっ、陛下……是非に、たのしませていただきますわ」



 真っ白な薄手のローブに身を包み、絹のように真っぐな黒髪に、吸い込まれそうな翡翠ひすい色の左目。そしてその美貌とは不釣り合いな眼帯を右目に掛けているのは、〈西の四大主〉、〈三つの魔女ローマリア〉。



「おぉぉ、リザリア様……この老骨、ありがたき幸せにございまする……!」



 深紅の法衣ほうえに縦長の祭儀帽を被り、大きな宝玉を頂くつえを突いた白骨の亡者は、〈北の四大主〉、〈渇きの教皇リンゲルト〉。



「御歓待の席、謹んであずからせていただきます、〈淵王〉陛下」



 そしてこの物語の主人公、金の文様細工の入った漆黒の甲冑かっちゅうまとい、〈カタナ〉と呼ばれる細身の片刃剣を携えた暗黒騎士の名を、〈東の四大主〉、〈魔剣のゴーダ〉といった。



「そうか……そういたすがよい」



 大理石のように真っ白な肌に、それにも増してなお白い髪の下で、リザリアの無表情がわずかにほころんだように見えたのは気のせいだったろうか。



「無礼講であるぞ、〈四大主〉よ」



 ゴーダたちが振り返ると、先ほどまで何もなかったはずの場所に、晩餐ばんさんの席が設けられていた。



「――皆様、大変お待たせいたしました」



「――お席の御用意が整いましてございます」



 全く見分けの付かない見た目に、更に全く聞き分けのできない同じ声で、〈四人の侍女〉が言葉を継いでいく。



「――お食事も品々そろえさせていただきました」



「――御注文を伺いますので、何なりとお申し付けを」



 そして侍女たちが互いの動作を精密に合わせて、深く腰を折り、四つの美しい声を単一の声音に重ね合わせた。



「――どうぞ、心ゆくまでお楽しみくださいませ」





 ***



 晩餐ばんさんが始まった。


 〈四人の侍女〉は〈四大主〉それぞれのために別々の用命を取り、注文を済ませた者から先に席に着いていく。


 時刻は真夜中を過ぎた頃。人間とは異なる生活周期を送る魔族にとって、その宴の始まりはさほどおかしなことではない。


 が、そこに一人、妙に尻の据わりの悪い者がいた。



「……」



「あら、ゴーダ、どうなさいましたの? 先ほどからもぞもぞと」



 椅子の上に何度目かの居直りをかけたゴーダを横目に見て、ローマリアが不思議そうに言った。



「む、いや、何……普段は既に床に着いている時間でな。習慣から外れたことをすると、落ち着くまでが難儀だ」



 腰につるした懐中時計をのぞき込みながら、ゴーダが小さく息を吐いた。



「まぁ、貴方あなた、ひょっとしてそうやって毎夜眠っていらっしゃるの?」



 ローマリアが、「まぁ」とわざとらしく口許くちもとに手を当てる。



「……悪いか?」



 ゴーダは腕組みをすると、むっと不機嫌な表情を浮かべてローマリアをにらみ返した。



「いいえ? 悪いだなんて、そんなことは思っておりませんわ、えぇ」



 彼の眼光を見つめ返しながら、魔女がにこりと微笑ほほえむ。



「ただ、そう……まるで下等な人間のようなことをされますのね、と、そう思っただけですわ。うふふっ」



 微笑に揺れていた美しい顔立ちがグニャリとゆがみ、次の瞬間には満面の嘲笑がそこに浮かんでいた。


 〈四大主〉とは、魔族として生まれた者が辿たどり着き得る中でも最高の地位。その誉れに座す彼らは無類の強さを誇る上、四者四様、一癖も二癖もある人物たちだった。


 その中でも、殊その出自の異常性でいえば、「元人間の転生者」という経歴のゴーダは抜きん出ている。


 そのことをいじくり回すようなローマリアの物言いに、ゴーダはぴくりと眉を震わせない訳にはいかなかった。知らず知らず、右手の人差し指が大テーブルの端を小突き出す。



「それはわざわざ、余計な世話をどうも。ついでに言っておくと、私の居心地が悪いのは決して睡魔のせいではない」



 ゴーダの指の動きが止まり、そして魔女にじとりとした視線を投げつける。



「――なぜ貴様が私の隣の席に着いているのだ、ローマリア」



「あら、席がいていなかったのですもの、仕方ないでしょう?」



 さも不可抗力の結果であると言わんばかりに、ローマリアは小首をかしげてみせた。



「知っているか? テーブルの向かいにはまだ空席があるぞ」



 早々と席に着いている二人の向かい側、身を乗り出しても半ばにすら指の届かない大テーブルの彼方かなたでは、リンゲルトとカースが侍女へ食事の注文をつけている最中である。誰も掛けていない席が二つも余っていた。



「……んふふっ」



 なまめかしい笑い声を漏らして、不機嫌を隠そうともしない暗黒騎士の顔をうっとりと見つめながら、魔女はテーブルに頬杖を突いた。



「いいえ、席はここしかいておりませんわ――嗚呼ああ貴方あなたのその嫌そうな顔……こんなに食事を美味おいしくいただける席が、他にあると思って?」



 ローマリアがクスクスと小馬鹿にして笑う。眼帯の下に隠れた右目もあざわらっているのだろう。そしてこの魔女は、自身のそんな不遜な態度が、男の目にはどうしようもなく美しく映ることを知っている。



「……嫌な女だ」



 ゴーダは思わず眉間に手をやった。



「ふふっ、そう言う貴方あなたは、とても可愛かわいいですわ、ゴーダ。うふふふっ……」





 ***



 深夜から始まった宴の席は、延々と続いていた。


 玉座の間には代わり映えしない灰色の光が差し込むばかりだが、ゴーダが最後に懐中時計をのぞき込んだときには、外界はとうに昼を迎える時間に差し掛かっていた。


晩餐ばんさん」という名目で始まった王の歓待は、終わる気配を全く見せない。


 広大な長方形の大テーブル、玉座に最も近い上座に〈淵王リザリア〉が頬杖を突いて座している。


 上座に次いで、最年長のリンゲルト、「〈宵の国〉最強」の称号を持つゴーダが向かい合って座っている。リンゲルトの隣席、はるか下座にカースが構え、対してローマリアは手を伸ばせばゴーダに触れるほど近くに椅子を寄せて晩餐ばんさんあずかっていた。


 〈四人の侍女〉は、それぞれが〈四大主〉の席の真後ろにひそやかに立ち、各々の要望に即座に対応できるよう常に準備している。



「カカカカッ! いや愉快や愉快! 此度こたびはまこと素晴らしき宴でありますぞ、リザリア陛下!」



 カタカタと音を鳴らして歓喜しているのはリンゲルトである。白骨の顎を大きく開き、空っぽの眼窩がんかの底では青白い光が踊っている。



「――リンゲルト様、おかわりは如何いかがにございましょう?」



 リンゲルトの接待を担当している侍女が、すっと席の横に歩み出た。



「おぉ、これはかたじけない!」



 教皇が侍女へ、空になった杯を差し出す。そこへ向けて侍女が手にしたかめを傾けると、赤黒い液体がなみなみとがれた。


 リンゲルトはそれを、一息に骨だけのうつろな口へ流し込む。



「うむ、甘美! 野馬の生き血というのは格別ですじゃ」



「――お口に合いましたようで、何よりにございます」



 教皇の讃辞さんじの言葉に、侍女がベールの下でふわりと口許くちもと微笑ほほえませた。



「――遙々はるばる食材を取り寄せた甲斐かいのあったというもの。カース様も御満足いただいている御様子。野馬も本望にございましょう」



 そう口を開いたのは、リンゲルトを接待していた侍女か、それともカースに付き添っている方の侍女だったか。余りに同じ音色の声は、それすら判然としない。


 話題に出されたカースと呼ばれた男はといえば、ナイフとフォークを器用に使って野馬の肉を生のまま口に運んでいる。



「確かに美味です。我らは〈森〉に住くうものの肉以外は滅多めったに食しませんが、これは手が止まりません……」



 相当に個性的な食事をそれぞれ楽しんでいるリンゲルトとカースに対して、ゴーダはといえば極めて標準的で人間的な食事をしていた。


 白磁の皿に盛られた煮込み肉とで野菜を交互に口に運び、時折白パンを一口大に千切って咀嚼そしゃくしている。



「……」



 グラスにがれた水に口を付けながら、ゴーダが横目をやる。


 わずかな音も立てずにすくったスープを堪能しているローマリアがそこにいた。



「……あら、なぁに? そんなにジロジロと見て」



 彼の視線に気づいた魔女が、淑女然といった態度で言った。



「それも何かの嫌みのつもりか?」



 暗黒騎士の目線が、魔女の顔からテーブルの上へと下がる。


 ローマリアの前には、彼が注文した品々と全く同じ物がもう一組並べられていた。魔女は自分の専属となっている侍女へではなく、ゴーダに付いている侍女にわざわざ同じコース料理を二人分回すよう告げていたのだった。



嗚呼ああ、これですか? ふふっ、おそろいはお嫌い?」



「ああ、特にお前とはな」



「まぁ、ひどい……うふふっ、安心なさいな。別に他意はありませんわ」



 魔女の用命を受けた侍女が姿を現すのを待ちながら、何でもないというふうにローマリアが続ける。



「わたくしはわたくしで、別の注文をしたかったんですの。ですからこの中で一番食事の趣味が合う貴方あなたに合わせただけのこと。んふっ、それとも……構ってほしかったのかしら?」



「安心しろ、間違ってもそれはない」



「あら、そぉ」



 ローマリアが悪戯いたずらげに笑っていると、何の前触れもなく侍女が背後の死角から姿を現した。



「――大変お待たせいたしました、ローマリア様。御注文のお品をお持ちいたしました」



 ローマリアが翡翠ひすいの瞳を背後に向ける。そして侍女の胸に抱えられた物に目をめると、魔女は表情をほころばせた。



「アはっ! まぁ、嬉しぃっ! 取り寄せてくださいましたのね」



 暗黒騎士への関心をほうり捨て、ローマリアが侍女の方へ身体を向ける。ゴーダはこれで静かに舌鼓を打てると、食事を再開した。



「――はい。百八十年ものの〈火葬酒かそうしゅ〉にございます」


 カラン……と白磁の皿を鳴らしたのは、ゴーダの手から落ちたスプーンだった。



「なん……だと……っ」



「んふふっ、嗚呼ああ、素敵。ちょうど飲み頃ですわね」



 侍女から受け取ったボトルに頬ずりしながら、ローマリアが幸せそうに喉を鳴らした。



「ややっ、ローマリア、〈火葬酒〉じゃと! 貴様、いける口か!」



 がたりと椅子を鳴らして立ち上がったのはリンゲルトである。その酒に目がないのか、幽鬼のような目をじっとボトルへと向けた。



「あら、御老体もお好きですの? うふふっ……それでは一杯、お付き合いいただけて?」



「やめろ! その酒を開けさせるな……!」



 慌てたゴーダが静止の腕を伸ばしたが――時既に遅し。その手は虚空をつかんでいた。


 高等術式〈瞬間転位〉。魔女の十八番おはこ中の十八番であるその魔法は、ローマリアの身体を一瞬の内にゴーダの隣からテーブル向かいのリンゲルトの下へと移動させていた。


 トクトクと小気味よい音を立てて、酒がボトルから杯へとがれていく。



「んふっ、カースもいかが?」



 続いてカースの真横に瞬間移動したローマリアが、ニコニコと勧める。



「? 知らぬ酒ですが……いいでしょう、いただきましょう」



 狼狽うろたえるゴーダのはる彼方かなたで、カースの杯にも酒ががれ、次いでローマリアの手持ちの器にも透明な液体が満たされる。



「よせ! それは本当に洒落しゃれになら――」



「うふふっ、それでは……かんぱぁいっ」



 彼の静止もむなしく、三人はそろって〈火葬酒〉を一息に口にした。



「……」



 無言の内に、生肉の盛られた皿に顔面を埋めて卒倒したのは〈むしばみのカース〉である。



「ぷはぁぁ……カカカカッ!」



 幽鬼のように笑ったのは、〈渇きの教皇リンゲルト〉。その口許くちもとからは、赤い酒気が立ち上る。



「アはぁっ……しびれますわぁ……」



 なまめかしいあえぎを漏らして、〈三つ瞳の魔女ローマリア〉が陶酔する。



「……やってしまった……!」



 まるで目の前に悪夢を見るように、〈魔剣のゴーダ〉が頭を抱え込んだ。


 〈火葬酒〉――その名に恥じぬ、〈宵の国〉原産の最強最悪の度数を誇る酒である。



 ***



 昼をまたいだ晩餐ばんさんは、再びその言葉が意味する通りの夜を迎えていた。



「ヨヨヨイ……ヨヨヨイ……!」



 どこかの怪談話に出てくるような、恨めしげなむせび泣きが聞こえていた。



「ヨヨヨ……〈四大主〉がこうして集い、杯を交わしておれるのも、ひとえに〈淵王〉陛下の御人徳あったればこそ……! この老骨めは幸せにございます! 〈宵の国〉万歳! ヨヨヨっ!」



 〈火葬酒〉にやられたリンゲルトが、骨だけの両手で顔を覆って周囲の目もはばからずに号泣している。


 この亡者は、先ほどからやれ「侍女の接待が素晴らしい」だの、「この食器はいついつの時代の名品である」だの、他の三人に向かって「貴様らはわしにとっては玄孫やしゃごのように可愛かわいい奴らよ」などと漏らすたび、声を震わせて泣き散らしていた。



「リンゲルトの泣き上戸が出てしまった……」



 困り果てたように、ゴーダが頭を抱えている。



「ヨヨヨ……ゴーダ、何じゃその冷たい目はっ。貴様、年寄りに好きに酒も飲ませてはくれんのか! ヨヨヨイ……っ」



「そうやって酔い潰れたお前を毎度背負って送り届ける羽目になる私の身にもなれ……!」



「ヨヨ……近頃の若いもんはまこと老いた者に冷たいわい、ヨヨヨ! 女子おなごを酔い潰して弄ぶことばかり覚えおって……」


「……何をどう見たらそうなるのだ……」



 前方、テーブル向かいのリンゲルトにゴーダがあきれ声を漏らす。



「いいかリンゲルト、私は女を酒でたぶらかしなどせん。暗黒騎士の誇りに掛けて――」



「――ふぅっ」



 突然、耳の裏と首筋に、生ぬるいそよ風が吹いた。



「はっ?!」



 その感触に、思わずゴーダが飛び上がる。それに次いで、吸い込むだけで泥酔してしまいそうなほどの濃い酒の臭いが立ちこめる。



「ゴォーダァァ……」



 ローマリアが、ゴーダの肩と腕にだらりともたれ掛かり、譫言うわごとこぼしていた……べろんべろんに酔っ払っている。



「もぉぉ、なんれすのぉ? 黙ってばかりじゃありませんか……つまらないれすわぁっ」



 その手には悪名高き〈火葬酒〉がボトルごと握られていて、魔女はそれを直接ラッパ飲みしている始末だった。


 ずいと身を寄せてくるローマリアに、ゴーダはひくりと頬を引きらせる。



「っ……私が寡黙なのではない。お前が騒がしいだけだ!」



「んもぉっ、わらくしが何れすってぇ?」



 魔女の呂律ろれつは、明らかに回っていない。



「相変わらず面倒な酔い方をする女だと、そう言ったのだ! いちいち絡んでこないでくれ……っ」



 たまらずゴーダがめ息を吐く。



「だから晩餐ばんさんの席でお前と隣り合わせるのは嫌なんだ……」



「ゴーラが構ってくれませんわぁっ。目の前にこんなにいい女がいますのにぃ……この甲斐かい性なしぃっ」



 頬を酔いに赤らめているローマリアが、がばりとゴーダに抱きついて、うだうだと彼を揺する。



「ええいっ、まとわり付くな! 飲むならせめて自分の席で飲め、陛下もあきれておられるぞっ」



「えぇ……? へーかがぁ? そうれございますのぉ、リザリアさまぁ?」



 ローマリアが酩酊めいていした視線を上座へと向けると、相変わらず頬杖を突いたままワイングラスを傾けているリザリアが、ちらと視線を寄越よこした。



「ふむ……構わぬ。にぎやかでよい。余は『無礼講である』と言った。余の言葉は絶対である」



 一切の感情を表に出さないリザリアだったが、その無表情の下でこの場を面白がっているような揺らぎがうかがえた。



「ふふっ、れすってぇ、ゴーラァ。ねぇえ? 貴方あなたももっと楽しんれはいかがぁっ?」



 にへらと表情を崩して、魔女が前後に身体を揺する。絡みつかれたままのゴーダは掛けている椅子ごと左右に振り回され、頭がぐらぐらと左右に踊った。



「くっ……手に負えん……!」



「ほらぁっ、貴方あなたも一緒に飲みましょぉ?」



 〈火葬酒〉のボトルを突き出しながら、ローマリアが軟体生物のように四肢を絡みつけてくる。かすかに漂う香水の甘い香りと、強烈な酒の臭い。長い黒髪のさらりとした肌触りに、ローブの薄生地の感触。はだけた布の下からのぞき見える白い肌、そして押し当てられる柔肌……。



「貴様……幾ら何でも油断し過ぎだぞ! 酔っているとはいえ、誰彼構わずそんなふうに無防備をさらしていいものでは――」



「――わたくしだって、相手ぐらい選びますわ」



「っ!?」



 ゴーダの肩に両腕を回したまま、ふいにローマリアが至近距離から真剣な声と眼差しを向けた。



「リンゲルトにも、カースにも……こんなことしませんわ。こんなすき貴方あなた以外にはさらしません。それとも、誰にでも身体を許すふしだらな女だと思っていて?」



「う……むぅ……」



貴方あなたこそ、どうですの? どの女にも、こんなに冷たく当たるひどい人なんですの?」



「何をいきなりそんな――」



「どうですの、といているのですけれど?」



「……それは……」



 ローマリアに詰め寄られ、ゴーダはいつの間にかもごもごと言葉に詰まっている。



「……私は男尊女卑の考え方は好かん。お前以外の女にまで、こんなに冷酷に接したりなどせん……」



「ふーん……ふぅーん?」



 翡翠ひすいの瞳に、じとりと見つめられる。いたたまれなくなって、ゴーダは顔を横に背けた。



「こんなことを、わざわざ言わせるな、たわけ……」



「……ふふっ」



 クスクスと嘲笑した魔女の口許くちもとは、まんざらでもなさそうにほころんでいた。



「ゴーダ……――ゴォーラァ」



 そして眼前のローマリアの顔が、へべれけの酔っ払いの表情に再び崩れた。



「はっ?!」



「ゴォラァ、飲んれましてぇ? 飲みなさぁいっ」



 ボトルを振り回して、ローマリアが満面に酒乱の相を浮かべる。



「くっそ、こいつ……やはりただの酔っ払いか!」



「つきあいの悪いお方にはぁ……こうれすわぁっ」



 ぐびりとボトルを傾けて、ローマリアが口に〈火葬酒〉を含む。


 そして魔女はそのまま、酒に湿った唇を暗黒騎士の口許くちもと目がけて寄せてきた。



「っ! な……! やめろ! こっちにくるな!」



 ゴーダの静止を無視して、ローマリアは唇をどんどん近づけてくる。



「ん……」



「やめろ……やめろ!」



「んー……」



「……やめろぉぉぉっ………」



 ――ゴクリ。


 目を閉じていたローマリアの耳に、喉の鳴る音が聞こえた。


 ゴクゴク……ゴクン。


 はてなと魔女がまぶたを開けると、そこには取り上げたボトルに口を付け、残っていた〈火葬酒〉を一気に飲み干したゴーダの姿があった。



「っ……ぶはっ……!」



 中身を空けた暗黒騎士が、袖で口を拭う。



「あらぁ、良い飲みっぷりれすわねぇ!」



 それを見て上機嫌になっている魔女をにらみ付けながら、ゴーダが勝ち誇るように口許くちもとを緩めた。



「ふ、ふふ……どうだっ、これでもう、お前も馬鹿な真似まねはできまい……ふふふ、ふふ……――」



 手からボトルがすり抜けて、ガシャリと割れる音が聞こえる――それを最後に、彼の記憶はぶつりと途切れた。



 ***



 ――宴の始まりから、三日目の深夜。



「――此度こたびの宴への御参席、誠にありがとうございました」



「――陛下も大変喜んでおいでにございました」



「――長くお引き止めいたしましたこと、御容赦くださいませ」



「――楽しんでいただけましたようで、私どももうれしく存じます」



 精密に等間隔で整列した〈四人の侍女〉が、深々と腰を折り、美しいお辞儀をしてみせる。



「――またの御来訪、我ら一同、心よりお待ち申し上げております」



 そして四つの声音が一つに重なり、単一の音色に溶け合った。


 〈四大主〉も、高位の存在らしい堂々としたたたずまいで侍女たちの見送りを受ける。


 ずずんと重低音が響き、〈淵王城〉の巨大な門扉が閉ざされた。



「……う゛っ……!」



 その振動がとどめになったのか、〈淵王リザリア〉への謁見と歓待を完遂した途端、ゴーダが口許くちもとを手で押さえ込んだ。先ほどまでビシリと伸ばしていた背筋が丸くなる。



「嫌ですわ、ゴーダ……悪酔いを引きるだなんて、みっともない」



 ローマリアが、品性を疑うような目をゴーダに向ける。



「やれやれ、酒の加減も分からんとは……これだから若僧わかぞうは」



 リンゲルトがあきれたように首を振る。



「リザリア陛下の御前ごぜんで醜態をさらすなど……〈四大主〉としての自覚があるのですか」



 カースが参ったようにめ息を漏らした。



「貴様ら……そろいも揃って、それを私に言うのか……」



 三人から糾弾され、ゴーダは説教の一つでもかましたいところだったが、ひどい頭痛と吐き気にさいなまれていてはそれもかなわなかった。


 あれほど泥酔していたにもかかわらず、ケロリと回復している三人が、ゴーダを置き去りにしてそれぞれ帰路に就いていく。


 ローマリアが彼の横を素通りしたとき、魔女のささやき声が耳元をくすぐった。



「ふふっ……あんなに乱れた貴方あなたは、初めて見ましたわ。また、たのしみましょうね……んふふっ」



「……? 何のことだ?」



 ゴーダが眉をひそめる。



「あら? あらあら……嗚呼ああ、なるほど、覚えていらっしゃらないのね、ふふっ」



「ちょっと待て、一体何のことだ。何の話をしている」



「ゴーダ、宴が始まってから今宵こよいで三日目ですけれど、ひょっとしなくても最後の一日のことがまるで記憶にないようね?」



「は? な……三日? 三日経っていたのか?! そんな馬鹿な……!」



 慌てて懐中時計をのぞき込むが、最早もはや文字盤だけを幾ら眺めても真実は分からなかった。



「〈火葬酒〉……本当にあの酒は……!」



「それでは、わたくしもこの辺りでおいとまいたしますわね」



「待て! こんな訳の分からんまま引き揚げるつもりか貴様!」



「あら、わたくしはちゃぁんと分かっていますもの、んふっ」



「くっ……詭弁きべんだ! また私を惑わそうと虚言を張っているな?!」



「さぁ? どうですかしら?」



「私は覚えていない! 私は何もしていない! 間違ってもお前に手を出してなどいないからな!」



「うふふっ、えぇ、貴方あなたがそう思うのなら、そうなのでしょう。貴方あなたの中では……ふふっ」



「くっ……!」



「それでは、御機嫌よう、可愛かわいい人……ふふふっ」



「……ローマリア!」



 最後の最後、ゴーダは意地もプライドも捨てて説明を求めようと手を伸ばしたが、もうそこにローマリアの姿は影も形もなかった。



「っ……有り得んっ。私が、酒に飲まれて間違いを犯すなど……っ、絶対に信じないからなぁぁぁっ!」



 夜鷹よたかの鳴き声だけが聞こえる闇夜やみよの中に、ゴーダの悶絶もんぜつする叫び声が溶けていった。

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