第一節 雨が多いきせつ
第2話 六月のとある水曜日
六月だというのに日差しには夏を思わせる程の暑さがあった。
講義室内も思考力を低下させるには充分な熱気に満ちている。しかし大学側の暑さ対策と言えば、冷房を使わず、窓を全開にするだけ。
講義を受けている学生たちの意識はとうに他方へと霧散していた。
「金融取引は形の上では資金の賃借であるが、その本質は、現在の購買力の、」
あー、もう何言ってるのか全然解んないな――。
集中できていないのだから当たり前なのだが、それでも講義に出席している手前、少しでも理解しようと足掻いてしまうのは、根が真面目な慎太郎の性分だった。
もっとも、その努力も蒸す様な暑さの中では長く持つはずがない。
慎太郎は気分転換の為、すぐ後ろにある講義室後方の窓から外を眺める。
気怠さから身体を壁に預けた。落ちる気持ちにつられる様に視線がぼんやりと下がる。
そこには屋外テーブルが並んでいる。大学敷地内の外れに位置していて、昼時でもなければ利用者はいない。
――と慎太郎は思っていたのだが、学生らしき女性が一人座っていた。
グレーの長袖シャツに、重たい印象を受ける黒く長い髪。
見ているだけで暑い。
そう思ったが、視線を外すのですらすでに
〇
雪村明日香は一人でいる事が嫌いではなかった。
しかし好きという訳でもない。
より正確に言うなら、明日香は
大学構内の外れにあり、近くにはコンビニはおろか自動販売機すらない。そのおかげで、人の流れから離れている。明日香にとってここは憩いの場だ。
しかし、本当はそんな事を気にしないで生きたかった。
この時期に長袖を着るのも嫌だった。髪も短くしてみたかった。
でも――。
明日香は細やかな願望を胸にしまい込んだ。
そして誰にも気付かれぬ内に事を済ませることにした。
〇
暑そうな格好した女学生はトートバッグから何かを取り出した。
青い箱と白い何か――とは判ったが、二階からではそれ以上はよく判らない。ただ「女学生が左袖を捲ると、その腕には手首から肘の辺りまで包帯らしきものが巻かれていた」という事は慎太郎にも視認する事ができた。
長袖はそういう事か――。
女学生は包帯を慣れた手付きで外していく。他人の傷を見たい願望など、慎太郎は持ち合わせてはいない。だが、すでに呆けかけていた頭では、他人の傷を見る事に対する倫理観などを考える余裕などはとうに無かった。ただぼんやりと景色の一部として彼女の姿を捉え続けた。
そうして、程無くして包帯の下にあった腕の傷が顕わになる。
その時だった。
――ぞわり。
うなじからこめかみにかけて強い痺れが走る。慎太郎は目を奪われた。
女学生の腕。
そこには、無数の小さな穴が開いているように見える。
彼女の傷。
それはまるで、花弁が落ちた睡蓮のようだった。
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