さくら
銭屋龍一
第1話
ランドセルが歩いていると思ったら笑太君だった。
綿雪がすだれでも掛けたように周りの景色を覆っている。黄色い帽子。黄色いランドセルカバー。この付近の小学校の生徒はみんな同じスタイルだ。けれども僕はその後ろ姿が笑太君だとすぐにわかった。足の長さが違うのではないかと思うような、少し右に傾きながら歩く姿は笑太君独特なものだ。
笑太君を追い越して公園前のスペースに車をとめた。
車外に出るといきなり身震いがした。すぐにそれは継続的な細かな震えに変わった。手をこすりあわせる。気休め程度の暖かさだった。僕はジャンパーの襟を立て、身をすくめて歩道を今通り過ぎた方向へと歩きはじめた。
あと少しで笑太君と出会うというところで足をとめた。
笑太君はマフラーで顔の半分が隠れていた。ジャンパーは、はちきれそうに膨れている。背はあまりにも低い。僕の心の中に、あのいつもの、きゅんとくる感触が走った。
じっと笑太君をみつめる。ゆっくりとだが確実に近付いてきている。ふいに笑太君はうつむいていた顔を上げた。立ち止まる。そして、弾けるような笑顔を見せた。歩みだす。
駆け寄りたいのだろうが、普通の人と違う心臓を持つ笑太君にはそれは許されない。それでも一生懸命急いでいることが伝わってくる。
「転ぶよ。ゆっくりおいで」
目の前までやってきた笑太君は一仕事を終えたように肩で息をしていた。
「車なんだ。乗ってくだろ?」
「どういう立場として?」
こんな風な口をきく笑太君は嫌いだし、子供らしくないと思うのだけど、そう思うことはある意味、僕の傲慢さなのだろうと思う。笑太君にはこうして守ろうとするプライドが必要なのだろう。
「もちろん仲のいい友人として」
僕はそう言って、ウィンクしてみせた。
「気持ち悪。でも、うん。乗せてってもらうよ」
笑太君はふたたび笑顔になった。
車を止めているところまで並んで歩いた。そうしてみると、笑太君の歩くスピードの遅さを今更ながらに感じる。だけどそれはけして嫌な感じではない。そんな風に感じられる自分に少し自信がわく。寒さも少し和らいだ気がする。
「あっ、そうだ。田中のおじさん、お仕事じゃないの?」
「きょうは遅番だから、夕方からなんだ」
とっさに嘘をついた自分に、たった今覚えた自信が粉々に砕ける。なんで嘘をつかなきゃならないんだろう。仕事はなくなったって、どうして素直に言えないんだろう。
そう言えば、美奈子にも同じように嘘を言い続けた。嘘がばれてしまう一か月半もの間。だけど最初から美奈子には僕の嘘はばれていた。それを考えようともしなかった僕がバカだっただけだ。
「どうしてそんな嘘を言い続けたの。それが私は許せない」
それが美奈子の最後の言葉だった。
派遣切りは新聞でもテレビのニュースでも毎日のように報道されていた。車の製造ラインの派遣社員だった僕が仕事を失ったことなんて日本中の人が知っていたと言っても言い過ぎじゃない。それなのに僕は。
でも今の僕を話すわけにはいかなかった。だってそうだろ。赤い帽子をかぶり、上下赤い服を着て、肩に大きな袋を担ぎ、お触りパブのチラシを配ってめしを食っている男の話など、できるはずがないじゃないか。けれどもその仕事も来週で終りだ。なぜなら、本当のサンタがやってくる夜があるから。ばかばかしい。本当にばかばかしい。
きょうの面接官が言った言葉がよみがえる。
「正社員として働かれたことは一度もないのですね。いいお歳なのに、これまでお考えにはならなかったのですか?」
どこでも似たようなことを言われた。そんな面接はきょうで何度目だったっけ。両手の指を二回折ってもおつりがくる。もうどこにも僕の仕事なんてないと思う。それでも僕は面接を受け続けるのだろう。あるかもしれない奇跡のために。
奇跡? そう奇跡だ。僕が笑太君の身の上に起こって欲しいと願っていることは奇跡でしかない。笑太君のご両親は奇跡がおとずれることなんて祈っていない。自分たちでホームページを開設し、休みには街頭に立ち、移植手術の治療費の寄付を集めている彼らは、けして奇跡なんて願っていない。正面から現実と向き合っているだけだ。
現実と向き合う? そう、結局それしかない。どんなに逃げたっていずれ現実の方が追いついてくる。
「あっ、車、暖房を入れっぱなしだったけど、まずいんだっけ」
僕は目の前の現実に即した言葉を笑太君にかけた。
「大丈夫だよ。降りるときは注意しなくちゃだけど、ちゃんと用意はしてるから」
笑太君は膨らみあげたジャンパーを数回、パンパンと叩いてみせた。
「そうか。その中に秘密兵器が入ってるんだね」
「うん。すごい秘密兵器がね」
僕は助手席側に回ってドアを開けてやった。笑太君は器用に体をねじって乗り込んだ。
笑太、君か。その名前にご両親のどれだけの思いが込められているのだろう。
僕は勝手な想像をし始めた頭を振って、運転席に回った。
「アメリカ行きはいつ頃になりそう?」
僕はふたたびのろのろと車を走らせはじめて訊いた。
「桜の咲くころ」
間髪入れずに笑太君は答えた。
募金は半分も集まっていないはずだ。春に間に合うとはとても思えない。だけど。その春に間に合わなければ、笑太君を手招きしている悪魔のほうが待ちきれなくて、ことを起こすだろう。だったら春。桜の咲くころというのは間違いのない目標だ。
僕は残酷なことを訊いた気がして苦いものがこみ上げてきた。そんな僕を救うように、
「田中のおじさんも、桜が咲いたらおねぇさんと一緒に見にいくんでしょ?」
と屈託のない口調で笑太君が訊いてきた。
「おねぇさんって?」
「パカっだなぁ。そんなに何人もおねぇさんがいるの? そんなこと言ってたらふられるよ。大切にしなきゃ」
おねぇさんって、きっと美奈子のことだ。そう本当に彼女は、おねぇさんとよぶべき年齢で僕の側にもう居てくれた。何を待ってたんだろう。生活の安定? 貯金の額? いったい、どれだけ待たせてしまったんだろう。そして、結局彼女は出て行った。待ちきれずに。
「ああ、そうだね。でも、たぶん見に行かないかな」
「どうして?」
「おねぇさんは桜があんまり好きじゃないんだ」
笑太君は僕の横顔を覗き込み、首を傾げた。
「おかしいなぁ、それは」
「何がおかしいんだい?」
「だってこの前、街でおねぇさんに会ったんだもん」
僕は急ブレーキを踏みそうになった。
「会った? いつ?」
急きこんで僕は尋ねた。恰好をつけてる余裕はなかった。
「あっ、約束したんだった。ないしょにするって。だからもう言わないね」
「ひとつだけ教えてくれよ。おねぇさんは桜が好きだって言った?」
じっと僕の横顔を見つめていた笑太君は正面を向き、
「一緒に見にいくのよ、って言った」
とゆっくり言った。
「春にアメリカかぁ。きっとうまくいくよ」
僕は不思議と本当にそうなるような気がして、明るい声で言った。
「うん。あっ、田中のおじさん。今月もありがとう。千円もらったって」
「少なくてごめんな」
「ううん。毎月ずっとくれてるのは田中のおじさんだけだって、おとうさんも、おかぁさんも喜んでたよ」
フロントガラスに当たる雪のせいか、急に、風景がにじんで見え始めた。
ずっと与え続けてくれていた人がいた。僕は受け取るばかりだった。なんで気づけなかったんだろう。
そして、なんてバカなんだろう。
さくらが満開の春をイメージしてみた。きっと暖かくなるんだろうな。
さくら 銭屋龍一 @zeniyaryuichi
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