<3>
ナイフの切っ先が腹部に差し込まれ、するりと皮膚を裂いていく。裂け目から血が溢れ、鮮烈な赤が目に飛び込んできた。
ヨーゼスは思わず顔をそらしてしまう。医術者として血には慣れているつもりだが、切開の過程を見るのは、これがはじめてだった。手術という医療処置は、ヨーゼスにとって未知のものだ。魔法学院では、こんな方法習っていない。
ちらりとティオを盗み見ると、眉一つ動かさず平然と手術に向き合っている。ミスミに師事して経験を積んでいるのだから、当然のことだと納得できるが、同じ医術者として不思議な心持ちになった。彼女の目指しているところが、ヨーゼスのような平凡な医術者とは別方向に思えてならない。
ナイフを持つミスミの手は止まることなく動きつづけ、筋膜に切れ込みを入れて内臓をむき出しにした。生臭い血のにおいが鼻腔を刺激して、ヨーゼスはむせそうになるのを必死にこらえる。
「見えてきたぞ」と、ミスミがぼそりとつぶやく。
おずおずと覗き込んでみると、まるで新たな臓器が生成されたかのように、内臓を押しのけて大きな肉瘤が詰まっていた。
「大きい腫瘍ですね……」
「まったく、これでよく我慢できたな。相当苦しかったろうに」
ミスミは丁寧に腫瘍の状態を確認する。手袋をはめた指が、膨張の規模や癒着部を確かめていく。
大きく成長した腫瘍によって、他の臓器が圧迫されていた。これが痛みの原因だろう。
「よかった、どうやら良性腫瘍のようだ」
「そんなこと、わかるんですか?」
吐き気をこらえながら、ヨーゼスは疑問を口にする。
「ん、ああ、悪性腫瘍の場合は周りの組織を浸食していく特徴があるんだ。これは境界がハッキリしている。良性の腹腔内膿瘍とみていいだろう」
似たようなことを、癌を専門研究しているリュシカ准教授が言っていたことを思いだす。それは町医者にすぎないミスミが、魔法学院医術科准教授と同等以上の病理知識を持っていることを意味した。
ロックバース教授が一目置くだけはある。その弟子である医術者に、興味を持つのは納得できるところだ。
しかし、理解とは別に、複雑な思いをヨーゼスは内心抱いていた。魔法学院には毎年優秀な人材が集まってくるが、ロックバース教授が彼らを欲したことは一度としてなかったのだ。ロックバースに憧れて魔法学院の研究員となったヨーゼスにしても、座学の成績優秀者として席にありつけただけにすぎない。
誰もが同じ条件だったときは、気にもとめなかったことだ。特別な存在があらわれるまで――ティオという一人の医術者を、ロックバース教授が求めていると知るまでは。
正直ねたましかった。同時に、自分達がロックバース教授の期待に応えられていないことを思い知らされ、少なからずショックを受けたものだ。
「それじゃあ腫瘍の切除に取りかかる」
ミスミは宣言して、患部にナイフを這わせた。臓器を傷つけないように注意して、慎重に癒着部を切り取っていく。
生体である以上、ナイフが通ると血は吹き出す。そのたびにティオは清潔な布きれで吸い取り、ミスミの邪魔にならないように処理していた。
「汗」と、ミスミが告げると、すかさずノンが拭う。手術器具の受け渡しもこなしているので、結構な忙しさだ。普段はミスミに対して生意気な態度を見せることもあるノンであったが、手術中は文句一つ言わず黙々と仕事をさばいていた。
見事な連携にも驚いたが、その内容に何よりも驚かされる。回復魔法とは別系統の治療――患部を取り除くという理屈としては単純きわまりない治療法であるが、聞くと見るでは大違いだ。実際に手術を目にすると、その迫力に圧倒される。恐怖したと言ってもいいだろう。
ヨーゼスは息を飲み、震えるヒザを懸命に押さえつけた。
「おっ?」
順調に進んでいた腫瘍の切除が半分ほど済んだ頃、ふとミスミが手を止めた。鼻のつけ根にしわを寄せて、じっと患部を凝視する。
気にかかりヨーゼスも注意していると、いきなり腫瘍が黒く変色しはじめた。底側からじわじわと表層の色相が濃くなっていく。その理由は、すぐに判明した。
「まずい、出血だ!」
溢れ出した血が、腫瘍を黒く染めたのだ。慌ててティオが布きれで拭うが、出血量が多く間に合わない。瞬く間に布きれは赤く染まり、新しいモノと交換を繰り返す。
余裕をもって手術に挑んでいた診療所の面々に、はじめて焦りの色が浮かんだ。
「確認できないが、どこかに傷ができたようだな」
「ど、どうします、ミスミ先生」
「いま、手が離せない」ミスミは厳しい視線をティオに向けた。「任せていいか?」
ためらいがティオを覆うが、それは一瞬のこと――即座に表情を引き締めて、力強くうなずいた。
「は、はい、やってみます!」
ティオは覚悟を決めると、もう迷いを見せることはなかった。手を腹の中に差し入れて、出血箇所を探す。
傍観者であるヨーゼスのほうが、よほどうろたえていた。その行為は、あきらかに医術者の領分から外れている。もし自分がティオの立場ならば、一旦手術は中止して、再生魔法で傷口を閉じたことだろう。
きっとヨーゼスだけではない。多くの医術者が仕切りなおしを選ぶ。おそらくロックバース教授であっても、無理はしないはずだ。
だが、ティオはつづけた。つづけても治療できるという確信があるということか。
医術者として敗北感をおぼえたが、不思議なほど悔しくはなかった。医術のセオリーから逸脱した治療は、もはや別の技術だ。医術者とは違う領域の存在である。
それこそが、ロックバース教授が求めたものかもしれないと思った。彼女が学んだ技術は、必ず医術の発展につながる。
「あっ、ありました。腫瘍の下に裂け目が隠れてます」
「よし、魔法で塞いでくれ」
ティオはわずかに顔を強張らせ、困惑を視線に乗せる。
「それは……できません」
「どうして?!」
ミスミより先に、ヨーゼスが声を上げた。傷口が見つかったなら、再生魔法で塞ぐことはできる。
「位置が悪すぎます。ここで再生魔法を使ったら、腫瘍にも影響が出てしまう。切開した部分が元に戻ってしまうかもしれない」
「しかしなぁ、このままだと出血多量で死んじまうぞ。――今回はあきらめて、仕切りなおすか?」
「でも、それだと患者さんの苦痛が長引いてしまう。職人さんは仕事ができないと食い扶持に困りますし、できるなら今回の手術で終わらせてあげたい」
それは、思いがけない理由だった。おもに回復魔法の研究を行うヨーゼスは、患者を直接治療する機会が少ない。治療にあたる場合も、新しい術式の効果を試す目的であることがほとんどだ。意識が向いていたのは病気だけ、患者の生活環境に考えが及んだことは一度としてなかった。
研究員と現場の医術者の差だろうか。新鮮な驚きがヨーゼスの胸を打つ。
「ノン、予備のナイフはまだある?」
ぐるりと顔を巡らせて手術室を見回したティオが、困り顔のノンに目を止めて言った。
「あるけど、どうすんの?」
「それをダットンくんに渡して。ダットンくんは火の魔法で刃先を焼いてちょうだい」
何を行おうというのか――理解できずダットンは不審そうではあったが、冒険者の仲間という信頼関係によるものか、疑問を口にすることなく言われたとおり実行する。
だから、この場でもっとも信頼を持てない部外者のヨーゼスが、率直に疑問を口にした。
「ナイフを焼いて何をする気なんだい」
「熱したナイフを傷に当てて、焼いて止血します。一時的なものですが、腫瘍を切除するまでの時間は稼げるはずです」
衝撃的な方法に、ヨーゼスは青ざめる。どう考えても、医術者がする発想ではなかった。治療のために患者を傷つけようというのだ、本末転倒に思えてならない。
これには、さすがにノンもダットンも驚いたようだ。動揺が手術室を満たしていく。
だが、ただ一人口元に笑みを浮かべる男がいた。「大丈夫なのか?」やけにノンキに聞こえる声で、ミスミが確認する。
「腫瘍の切除が済んだら、すぐ再生魔法で治します。開腹の処理もありますし、手順は少し増えますが問題はないと思います」
「よし、頼んだ」と、ミスミはためらいなく告げて、腫瘍切除を再開した。
任されたことがよほどうれしいのか、ティオは笑顔で大きくうなずくと、ナイフを受け取り傷の止血に取りかかった。
右手には焼いたナイフ、左手には血を吸い取る布きれを持ち、腫瘍の下に手を回す。ジュっと熱が通る音と共に、うすい煙が上がり、肉が焼けこげるにおいが漂った。
飛び散った血飛沫が顔にかかっても、ティオはかまわず止血を続行する。
「こっちは終わったぞ」
ほどなくして、一足先にミスミが作業を終えた。腫瘍の切除が完了し、体外に取り出す。
ノンが用意した鉄皿に、腫瘍が置かれる。血に濡れた肉塊は、この目で見ていたというのに、人体に入っていたことが信じられないくらい大きかった。
「では、回復魔法に取りかかりますね」
「ちょっと待て。それはヨーゼスに頼もう。いいよな?」
唐突な注文に困惑したが、残すは再生魔法による処置のみで難しい手当てではない。見学を頼んだ立場的にも、断る理由はなかった。
「どうしてですか。わたし、まだやれますよ」
「ティオは、まず自分の手を治療をしろ」
「えっ――」
ティオは不思議そうに自身の手を見る。止血中に焼いたナイフが当たっていたようで、手のいたるところが赤く腫れあがっていた。夢中になって火傷に気づかなかったらしく、本人が一番驚いている。
ヨーゼスにしても、言われるまで気づかなかった。よく見ているものだとミスミに感心する。
「とりあえず水で冷やしてこい」
「はい、お手数かけます……」
ティオは恥ずかしそうに苦笑して、治療のためにそそくさと手術室を出ていった。
後を任された代役のヨーゼスは、すみやかに処置を開始する。
丹念に傷口を癒やして、止血の火傷痕も治療した。最後に裂いた腹部を塞ぎ終えると、感染症対策に活性化魔法も頼まれる。任された以上は、ヘタなまねはできない――失敗は許されないと、緊張感をもって魔法をかけた。
すべての治療が完了し、ようやく肩の荷が下りる。やったことは最後の処置だけだが、やけに疲労を感じた。
そんなヨーゼス以上に疲労困憊だったのは、待合室でぐったりとイスに寄りかかっていたティオだ。ダンジョン帰りに休みなしで手術に入ったのだから、ムリもない話だ。
心配そうな冒険者仲間が見ているなか、ノンが背後に回って肩をもむ。
「あー、気持ちいい……」と、ティオが熱っぽい口調で言った。
「カンナ姐さん直伝のマッサージだもん。よく効くよ」
肩をもまれて心地よさそうに身悶えるティオは、手術が無事終わった安堵からか顔がゆるみきっている。対照的に唇を結んだ厳しい表情のヨーゼスは、覚悟を決めて彼女に歩み寄った。
ロックバース教授の意をくんで、これまで魔法学院への勧誘をつづけてきたが、いまは違う。自分で意思で、心から言える。
「ティオくん、キミは魔法学院に来るべきだ。医術の未来のために、キミの知識や技術が必要だ」
強い想いをこめた言葉に、ティオは息を飲んで戸惑いを浮かべた。逃げ場のない場所で先延ばしにしてきた結論を迫られ、動揺を隠せないようだ。
やがて決意を固めたのか、仲間の顔を見回してから、ぽつりと返した。
「もう少しだけ、決めるのを待ってくれませんか」
「いつまで待てばいい」
「正確なことは言えませんが、少なくともダンジョンを攻略するまでは決められません。わたしは医術者ですが、冒険者でもあるんです。ダンジョンと決着をつけてからでないと、次に進むことはできない」
少し遠慮がちな口調であったが、その気持ちは充分に伝わった。
冒険者仲間の少年が、飛び上がって喜びをあらわす。
「よく言った、ティオ姉ちゃん。それでこそ冒険者だ!」
これが、現時点でのウソ偽りない答えなのだろう。ヨーゼスも認めないわけにはいかなかった。
「わかった。キミがダンジョンを攻略するまで待つよ。待たせてもらう」
彼女がどのような結論を出すことになるかわからないが、あきらめるつもりはない。ティオは医術の発展に必要な人材だ。
必ずティオを魔法学院に連れて行こう。このとき、ヨーゼスは――そう決意した。
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