<2>
ティオがダンジョンに出発して四日目。彼女の話では、ダンジョン滞在一週間を活動期限とパーティで決めたらしく、もう少しで中級の壁に届きそうな位置であっても、期限を越えそうならば必ず引き返すつもりだという。
引き際の線引きしっかり決めておけば、労力の配分で失敗しない――と、エルザが教えてくれたと言っていた。
少なくとも、あと三日間は戻らない可能性があるということだ。もちろん無事という前提での話だが。
「早く戻ってこいよ。待たされる身にもなれってんだ」
ミスミは鼻のつけ根にしわを寄せて、ブツブツと口のなかで苛立ちをもらす。あと三日もやきもきしなければならない見込みがあることに、ひどく憂鬱な気分であった。
八つ当たり気味に雲一つない青空をにらみ、地下深くまで届けとばかりに大きな舌打ちを鳴らす。
この日のミスミは、患者がいないのをいいことに、落ち着かない気持ちをまぎらわそうと、こっそり診療所を抜け出していた。これといって行く当てもないので、ブラブラとダンジョン街を散歩中だ。
そこで、偶然知り合いと出くわす。先に気づいた青年が、さわやかな笑顔を浮かべて手を上げた。
「あ、ミスミ先生。おひさしぶりです」
「よお、セント――」
ティオの医術者ギルドの先輩であるセントだ。時おり医術者ギルド経由で訪れる患者の紹介状で、その名前を目することはあったが、直接顔を合わせたのは本当にひさしぶりだった。
冒険者でもあるセントは、ずいぶんと忙しいようだ。閑古鳥が鳴くミスミ診療所と違い、街の医療施設と認知されている医術者ギルドの所属ということを加味すると、おそらく多忙さではティオを上回っていることだろう。
「真昼間にブラついてるところを見ると、今日は休みかい」
「それならいいんですけど……往診の帰りです。うちの医術者ギルドで欠員が出まして、その穴埋めで、ここのところ休みなしですよ。ギルド長が補充人員を呼ぶと言ってますけど、いったいいつになることか」
「そりゃあ大変そうだな。医者の不養生って言葉もある、気をつけろよ」
セントは疲労の色濃い顔に苦笑を浮かべて、ため息混じりのグチをこぼす。
「実はしばらくの間、緊急措置でティオを呼び戻そうという話もあったんですが、ギルド長がどうも意固地で承諾してくれない。何があったのか知らないですが、苦労するのは下っ端のぼく達なんだから、ちょっとは融通を利かせてくれればいいのに」
エルザの件で、ロックバース教授はギルド長を歯牙にもかけていなかった。場のなりゆきから当然のことだが、担当医であったティオを優先したのを根に持っているのかもしれない。
「偉いさんにはメンツってもんがあるからなぁ。それに――」ミスミは鼻を鳴らして肩をすくめる。「いまティオは地面の下だ。手助けはできそうにない」
目をパチクリと瞬かせて、セントは視線を落とす。
「ああ、そうか、ダンジョンに行ってるんですね。話は聞いてたのに、忙しくてすっかり忘れていた。そうなると、戻ってくる頃にはついに上級冒険者か」
「だと、いいがな」
「すごいなぁ。上級に到達する冒険者は、二年ぶりって話ですよ」
鼻の穴を膨らませて、セントは興奮気味に言った。彼のなかにも冒険者の血が流れていることを実感する。
「セントのパーティも優秀だと聞いてるぞ。すぐに追いつけるんじゃないか」
「いやぁ、どうでしょう……」
それは、思いがけない反応だった。お世辞ではなく本気で言ったのだが、否定的な感想が返ってきた。
どこか自嘲の混じった笑みをこぼして、セントは足下から空に視線を移す。上空では風が吹いているらしく、青い空に先ほどまでなかった薄雲が流れ込んでいた。
「ダンジョンに潜っていると、自分の限界が見えてくるんですよ。これ以上進むのは無理なんじゃないかって、危機意識が働くとでも言えばいいでしょうか」
「カンナさんも似たようなこと言ってたな。あいつら鈍感そうだし、危機意識に疎いのかな」
「とんでもない。危機意識に疎い冒険者が、中級に上がることなんてできませんよ。彼らだって感じているはずです。どれだけ最善を尽くしても、どうしても拭えない不安が残る感覚は必ずある。それを乗り越える勇気がある者だけが、上級に挑戦することができるのだと思います」
熱弁を振るうセントには申し訳ないが、ミスミはいまいちピンとこなかった。
あらゆる事柄で、限界を感じながらもあきらめず乗り越えようと努力した者が成功をつかむ――というのは、筋道として理解はできる。だが、ティオを思い浮かべると、そんな成功者の人物像と心持ちの点で重ならないのだ。
「あのティオに、不安を乗り越える勇気があるとは思えないけどなぁ」
「ありますよ」
やけにきっぱりと、セントは言いきった。
少し面食らってしまうほど力強い主張に、困惑が湧き立ち、鼻のつけ根にしわが寄っていく。
「ミスミ先生が一番よくわかってるんじゃないですか」
「俺が?」
「彼女は周りの反対を押し切って、医術者ギルドが認可していないミスミ先生のところに行ったんですよ。誰に何を言われても貫き通す信念も、踏み出す勇気も、彼女はも持っている。見た目ほど弱い女性ではないんじゃないでしょうか」
改めてティオの経歴を考えると、セントの言い分は説得力があるように思えた。普段は気弱な部分が目立つが、確かに押しかけてくるだけの行動力があり、その底力はミスミも認めるところではある。
「まあ、そうなのかなぁ……」
冒険者の資質に関しては、ミスミに判断できる指標がないので何とも言えないが、芯の通った人間性は内心評価している。照れくさいので、本人に伝える気はないが。
そんなことを考えていると、「先生!」と、ふいに声をかけられた。
ミスミとセントは同時に振り返り、声をかけてきた中年男性を見た。顔立ちにおぼえはあるが、誰であったか思い出せない。
「ああ、どうも――」と、ミスミは曖昧な返事でお茶をにごした。
代わりに、セントが対応する。彼の言葉で、男性の素性を思い出すことができた。
「こんにちは、マーグさん。奥さんのお加減はいかがですか?」
数日前、診療所に訪れた夫婦の旦那だ。医術者ギルドで妻のフォルテを診察し、診断がつかずミスミを頼ったのはセントであった。
どんよりとした重苦しい空気をまとったマーグが、二人に視線を行き交わしながら切羽詰まった声を上げる。
「あの、カミさんのことなんだが……」
妻のフォルテを、ミスミは更年期障害と診断した。治療をジュアンの薬屋に任せたので、その後の状況は把握していない。
声色から、病状がおもわしくないことはすぐに察した。だが、薬剤治療しか手立てがない以上、ミスミにできることは何もなかった。
「薬の効果がないようなら薬屋に相談してみるといい。調整してくれるはずだ」
「それは、いましがた行ってきたところで、その帰りだ。いろいろと新しい薬剤を用意してくれた」
どこか奥歯に物がはさまったような口調であった。ちらちらとミスミに向ける視線にためらいが混じっている。
「他に何か困ったことでもあるのか?」
「いや、困ったというか、何というか。えっと更年期障害だっけ、カミさんは本当にその病気なのかなって」
マーグは診断を疑っているのだ。症状が改善しなければ医者を疑うのは当然のことで、医術者が医療を司る世界で医者をうさんくさいと感じるのも当然のことだと思う。
誤診を疑われても、ミスミに不服はなかった。当然のことだと受け入れられる。それよりも、気になるのは疑いを持つにいたった経緯だ。薬物療法をはじめた時期を考えると、現時点で薬効がえられなかったとしても疑念を抱くには少々早すぎるように思えた。
「何か気になる点でもあったのかい?」
「気になる……うん、気になるというより、間違いなく変わっているんだ。カミさんの人相が変わってきている」
「人相が? どういうふうに?!」
病に伏せると顔や体に変化があらわれるのは、よくあることではあった。だが、このときミスミは、別の可能性を見いだしていた。本来なら最初に診察したとき、考慮しなければならない病気があったのだ。
「頬がこけて、目玉がギョロッと飛び出してんだ。更年期障害ってやつは、そういう症状が出ることあんのかい?」
ミスミは絶句する。青ざめた顔を伏せて、手のひらに痛みを感じるほど強く拳を握り込んだ。
ムクムクと腹の底から怒りがわいてくる。自分自身に対する怒りだ。
「何をやってるんだ、俺は。他人の心配をしている場合じゃなかった」
ティオのダンジョン潜りに気を取られ、向き合うべき患者に集中していなかったことを痛感する。
ミスミは短く息をつくと、顔を上げてマーグと目を合わせた。
「すまない、もう一度奥さんの診察をさせてくれないか。それと――」今度はセントに視線を移す。「忙しいところ悪いが力を貸してほしい。手術が必要になるかもしれない」
手術という言葉で、セントに緊張が走った。若者の顔から、医術者の顔に変貌していく。
ミスミは善は急げとばかりに、即日診察に来ることを強い口調で頼み込むと、慌てて診療所に戻る。
目の前に解決しなければならない問題が積みあがったことで、モヤモヤした気持ちはすっかり消えていた。
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