<5>
そのモンスターは暗い小部屋の隅で縮こまっていた。
まるで赤ん坊をそのまま大きくしたようなずんぐりとした体型で、細かいウロコがびっしりと肌を覆っている。ゴブリンと爬虫類をかけ合わせたような顔立ちをしており、鋭い牙が覗く口の奥で紫色の舌がチロチロと動いていた。
はじめて見る種類のモンスターだった。おそらくダンジョン下層にのみ生息する新種だろう。
ふと気づくと、先ほどまで確かにあったはずのモンスターの右足が、床の石材に溶け込んでいる。どうやら擬態能力があるらしく、体の色を変色させたようだ――が、その擬態もすぐに解かれて、ウロコの肌が浮き上がってきた。
擬態能力を発動するには、充分な体力が必要なのだと思う。モンスターには、もう擬態に耐えるだけの体力が残されていない。
「ずっと不思議だったんだ。どうして、わたしだけ助かったのか……」
エルザは青黒く変色した手に視線を落として、自嘲するように苦笑をもらす。
ディケンズの最期を看取ったあと、呼びつける感覚を頼りにダンジョンを巡って、目当てのモンスターを見つけ出した。これはエルザの血に混じったモンスターの魔力が、モンスター本人と共鳴することで感じ取れたのだとわかった。
「ディケンズが、わたしを助けてくれたんだね」
モンスターはひどい手傷を負っていた。バッサリと切りつけられた刀傷だ。
傷口は自然治癒で癒着していたが、体の奥深くまで負った損傷は、多大な障害を残したらしい。もはや、ろく動けない状態である。
エルザが精神支配を受けなかったのは、負傷によって精神支配を行える状態ではなかったからだろう。ディケンズが戦ってくれたおかげだ。その代わり、彼が犠牲になった。
他にも、状況から推察できたことがある。ディケンズとアーレスの状態の違いだ。
傷によって弱体化したモンスターは、肉体保持を行う操り人形を一人に絞ったのだろう。体力的に絞らざるをえなかった――それが真相ではないかと考える。
「……どうする?」
沈黙をやぶり、絞り出すようにゴッツがつぶやく。
「ここまで来たら、やることは一つしかないでしょ」
信じられないものを見るような目で、ティオがエルザを見た。
あまりに深刻そうな表情で、場違いとわかりながらも思わず笑ってしまう。ますますティオの目は困惑に染まっていく。
「このために来たんだ。覚悟はできてる」
「でも、エルザ――」
言葉がつづかず、ティオは唇を震わせた。こらえきれないといった様子で顔を伏せて、何度も鼻をすすっている。
足下に小さな滴が落ちていくのが見えた。ズルズルと鼻をすするたびに、キラリと光るものが床石に染みを作る。
エルザは肩をすくめて、彼女の頭を軽く叩く。しばらくダンジョンですごしていたから、油分で髪がねとついていた。これこそ生きている証拠だと、老廃物も枯れた自分自身と比較して思う。
「わたしね、ダンジョンに来てから死に対する恐怖が薄くなったの。どうしてか不思議だったんだけど、ようやくわかった気がする。ダンジョンで死ぬことは、もうとっくに、冒険者になった頃から覚悟していたことなんだ。病人としてではなく、冒険者として死ねるチャンスを与えてくれたティオには本当に感謝している」
「か、感謝なんていらない。治してあげられなくて、ごめん、ごめんね……」
鼻にかかった抑揚の狂った声で、ティオは謝罪を口にする。
エルザは胸に下げた冒険者タグを引きちぎると、ティオの手に重ね合わせるようにして渡した。
「これは、わたしが生きていた証。ティオが持っていて」
跳ねるように顔を上げて、ティオが目を合わせた。涙と鼻水でグチャグチャになった顔を、弱々しく左右に振る。
「やっぱり、イヤだ」
「イヤだって――わがまま言わないの。こいつを放っておくわけにはいかないでしょ」
「このモンスターを倒したら、もうエルザと会えなくなる。そんなのイヤ。せっかく友達になれたのに、なれたのに、そんなのないよ……」
エルザの身体機能は、すでに大半が役割を果たすことができなくなっていた。白濁した目は視力が低下し、嗅覚も触覚もほとんど感じない、なぜか聴覚だけはしっかりとしていたが、刺された痛みもなければ汗をかくこともない。
それなのに、涙腺が熱くなるのを感じた。涙は出そうにないので錯覚かもしれないが、心が泣きそうになっているのは自覚する。
「ありがとう、ティオ」彼女の体を抱き寄せると、肩に顔を埋めてしゃくりあげはじめた。「パーティがバラバラになっても、あきらめず地上を目指してよかった。あなたに会えて、本当によかった」
ゴッツに目配せして、静かにまぶたを落とす。
視界を閉ざした暗闇の底に、ティオの泣きじゃくる声が届いた。まるで子供のようだと、その背中をやさしく撫でる。
全身を震わせて悲しみを表現するティオを感じて、ここにきてほんの少しだけ死ぬのが怖いと思った。
「さよなら」
心に膜を張る抵抗感を打ち破り、別れの言葉を口にする。
モンスターの断末魔の叫びが聞こえたが、あまり気にならなかった。それよりも、純粋なさみしさが胸を締めつける。
今更ためらうなんて、先に逝ったディケンズはどう思うだろう。怒るかな? 呆れてるかな? それとも笑っているかな?――そんなことを考えながら、エルザはより深い闇の底に落ちていく。ティオの泣きじゃくる声を聞きながら。
※※※
出発から五日後、ついにティオ達が帰ってくる。
彼女らとダンジョン内で遭遇し、一足早く地上に戻ってきた冒険者から連絡を受けていたので、ダンジョン広場でミスミ達は待ち構えていた。
全員が疲弊をにじませた憔悴した顔をしており、まるで負け戦を終えた兵士のような重苦しい空気をまとっていた。
ミスミが声をかけるのをためらっていると、同じく出迎えにきていたタツカワ会長が先に口を開く。あえてそうしたのだろう、普段と変わらない軽い声色だった。
「よお、お疲れさん」
「あ、会長……」
顔を上げたマイトが、ぎこちなく頭を下げる。ダンジョンで付着した埃が、髪からパラパラと落ちていく。
その背後で、ミスミの姿を目にしたティオが、無理に笑顔を作った。瞼が赤く腫れていたので、あまり笑っているようには見えなかった。
「会長、あの、これ――」
ティオが二枚のプレートを取り出し、タツカワ会長に渡した。ディケンズとエルザの冒険者タグだ。それで、大まかなことは理解する。
指先で刻まれた文字をなぞり、タツカワ会長は小さく吐息をもらす。
「これは、キミ達が持っていなさい。きっと、彼らもそれを望んでいる」
珍しくかしこまった口調で、冒険者の元締めらしいことを言う。冒険者タグを差し戻して、タツカワ会長は静かにうなずいた。
タグを握りしめて、ティオも深くうなずき返す。
改めて彼女の姿を確認すると、衣服のいたるところに血痕や擦り切れた跡が見て取れ、これまでにない過酷な探索であったことがわかる。なんと声をかけてやればいいのか、いくら考えても浮かばない――が、ミスミは迷いながらも進み出て、ティオと向き合った。
とにかく、「おかえり、ティオ」これだけは伝えておきたかった。
「ミスミ先生……」いまにも崩れそうな強張った顔が、ためらいがちにミスミを見上げる。「わたし、何もできませんでした。エルザに迷惑をかけて困らせて、むしろ足を引っ張っていた。担当医失格です」
「それを決めるのはティオじゃない。エルザがどう感じたかだ。精一杯やったのなら、きっと気持ちは通じてるだろうさ」
ティオは力なくかぶりを振った。無力感に取りつかれて、何を言っても自己完結する。患者の死と直面した若い医者が陥る症状だ。
経験を積めば、ある程度は緩和される。哀惜を受け流す気丈な精神が医者には必要だった。
「俺としては、ティオが生きて戻ってこれただけで充分だ。よくやったよ」
「そんなこと――」
踏み出して否定の言葉を口にしようとした瞬間、足がもつれてティオはよろめいた。
慌ててミスミは抱きとめる。腕を回した背中は小刻みに震えており、エルザを失った悲しみが全身に伝播していることがわかった。
「す、すみません――」
「いいさ、疲れてるんだろう。俺の胸でよかったら、いくらでも貸してやるよ」
「はい」と、ティオはあっさり甘えた。胸に額を押し当てて、ぶり返した悲しみをこらえている。
冗談で言ったつもりだったのでミスミは少し面食らったが、黙って彼女の悲しみが解けるのを気長に待つ。ただ声こそ発しなかったが、目配せして二人の看護師を呼び寄せておいた。
しばらくして落ち着きを取り戻したティオが、惜しむようにゆるゆると身を離す。
「今日はゆっくり休みといい。話を聞くのは明日にしよう。――タツカワ会長、それでいいですよね」
「ああ、そうだな。そうしようか」
次にミスミはかたわらで待機していたカンナバリとノンに、苦笑を含んだ困り顔を向けた。
「ティオを送ってやってくれないか。一人で帰らせるのは心配だ」
「わかりました。任せてください」
カンナバリが手を取り、ノンは背後に回って背中を押す。二人に付き添われて、ティオは頼りない足取りで歩き出した。
それをきっかけに、ひとまず解散となり、パーティはそれぞれ帰路につく。誰もかれも歩みは重かったが、多少はダンジョンから解放された安堵もあったようで、強張っていた表情がわずかにやわらいでいた。
ミスミはふと思い立ち、遠ざかる背中の一つに声をかける。
「おい、マイト」
「へっ?」と、呆けた声をもらしてマイトは振り返った。気の抜けたマヌケ面が、ぼんやりと目を向けてくる。
いつもの暑苦しいほどのバイタリティを、まったく感じない。まるで風邪で朦朧とした子供のような顔をしていた。
「どうだった。ディケンズを越えられたか?」
「全然ダメ。やっぱりディケンズは、とんでもなくすごい冒険者だった」
ほんの少しうれしそうに、あっけらかんと言ってのける。
その言葉に皮肉も謙遜も混じっていない。本心で言っているのだと伝わってくる。
「いまの俺じゃあ、逆立ちしてもディケンズにはかなわないってよくわかった。でも、あきらめたわけじゃないよ。いつか絶対越えてみせる。もうディケンズはいないけど、俺の目標で道しるべは、やっぱりディケンズだから」
マイトは視線を落とし、腰に差した剣を見る。ダンジョンに出発する前と、持っていた剣の形状が違っていた。
「そうか、まあ、がんばれ」
「うん、がんばる。がんばるけど……しばらくはがんばらないよ。クタクタで息をするのもしんどいんだ、当分はベッドから出たくない」
ふらふらと住まいに帰っていくマイト達を見送り、ダンジョン広場にはミスミとタツカワ会長だけが残っていた。
くわしい聴取を済ませないことには、まだ解決したとはいえないが、ひとまず
「とりあえず、ダンジョンの脅威は去ったってことでいいんですよね」
「いいや、まだまだ」
「えっ、まだ何かあるんですか?」
「ダンジョンはつねに更新されている。ダンジョンに挑戦する冒険者がいるかぎり、新しい脅威はすぐに生み出されるだろうさ。でも、まあ、今日のところは――」
冒険者達の前ではけっして見せなかった憂いをにじませた顔で、タツカワ会長は大げさに肩をすくめてみせた。おちゃらけと強がりが混じり合った、何んとも言えない姿だ。
ミスミはどう反応すればいいのか戸惑い、この際見なかったことにする。
「飲みたい気分なんだ。付き合ってくれよ、ミスミ先生」
ダンジョン管理組合の会長は、何度こうして弔い酒を飲んできたのだろう。ミスミは会長職の苦悩を垣間見る。
「奇遇ですね。俺も飲みたい気分だった」
ミスミは、ディケンズともエルザとも深い付き合いがあったわけではない。それでも、顔見知りだった若者の死は胸にこたえた。
こんな日は酒に溺れるのも悪くない。明日はいつもの日常に戻れるように――二人並んで、寒風吹きすさぶダンジョン広場を後にした。
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