リビング・デッドの尊厳
<1>
――ここに来るのは、もう何度目だろう。あと何度、ここに来ることになるのだろう。
ミスミはどんよりと曇った気持ちを押し出すように、肺が空っぽになるまで息を吐きつづけた。こんなことで気持ちが晴れるわけはないのだが、少しでも気分を入れ替えて、患者と向き合える状態を作らなければならない。
口を大きく開けて、次にぴったりと閉じる――これを何度も繰り返して、表情筋をほぐした。鼻のつけ根を軽くもんで、深いしわを取り除くことも忘れない。
「いつまで、そうしてるつもり? 患者さん待ってんでしょ。早く行こうよ、センセェ」
懸命に顔のストレッチにはげむミスミを見ていたノンが、呆れた様子で声をかけてきた。
ミスミのせっかくほぐれてきた表情が、ムッとしてまた強張る。
「……ノン、来なくていいって言ってるだろ。診療所に戻れ」
「やだ、行く。看護師の勉強には、患者さんと接するのが一番だってカンナ姐さんが言ってたもん」
「そんなもん診療所で充分だろ」
「忘れたのセンセェ。今日はティオ姉ちゃんダンジョンだから、診療所にいたって患者さんの応対ができない。勉強するには往診についていくしかないんだよ」
ミスミは嘆息して、肩を落とす。この月に一度必ず往診に出向く患者は、ミスミにとって特別な存在であった。ティオでさえ往診の付き添いを断ってきた。
にわかにやる気をだしたノンは歓迎すべきことなのだが、今回ばかりは帰ってほしいというのが本心だ――とはいえ、言って素直に帰る娘ではない。ミスミはもう一度嘆息して、珍しくしっかりと整えていた頭をかく。かき終わる頃には、すっかりいつものボサボサ頭だ。
「しょうがない、ついてくるのは許可してやる。ただし、よけいなことは何もやるな、何もしゃべるな。診察の間は、失礼がないようにおとなしくしていろよ」
「わかった!」と、ノンは本当にわかったのか疑わしい弾んだ声をあげる。「それにしても、でっかい家だね」
見上げた先には、その言葉通り大きな屋敷があった。悪趣味なほどに派手な外観をしている。
ノンは気づいていないが、よく観察すれば見てくれの造形は派手だが、造り自体はチープなできだとわかる。無理に豪華さを装った、ハリボテのような屋敷だった。
「お金って、あるとこにはあるんだねぇ。どんな人が住んでんの?」
「ダンジョンで一山当てた元冒険者だ。タツカワ会長曰く、『ダンジョンで運を使い果たした男』らしい」
「いまもこんな大きな家に住んでるなら、全然運使い果たしてないと思うけどなぁ」
ミスミはノド元まで出かかった言葉を飲み込む。どれだけ金があったとしても、病気は幸福を食い散らかすものだ。そのことをノンはまだ理解できていないのかもしれない。
鼻のつけ根にしわが寄りそうになるのを我慢して、ミスミは視線を扉に向けた。
「ほら、いくぞ」
「そうだね。患者さんが待ってる」
ノンは迷うことなく軽やかにノックする。
ほとんど待つことなく、面倒そうに中年女性が顔を覗かせた。この屋敷で使用人をしている女だ。彼女は見覚えのない少女を不審がっていたが、背後に控えたミスミに気づいて納得したようだった。
「お待ちください、いま奥様を呼んでまいります」
一度使用人が引っ込んでからは、しばらく待たされることになる。
奥の廊下から使用人を連れた夫人がゆったりと歩いてきたのは、興味津々に玄関口から屋敷内を見回していたノンもすっかり飽きてしまった頃だ。
夫人はミスミと目が合うと、丁寧に頭を下げる。タツカワ会長が言うには、夫人は“いいとこのお嬢さん”だという。はじめて出会った当時から、柔らかな物腰は変わらなかった。
しかし、その顔立ちは出会った頃と比べてずいぶんと老け込んでいた。まだ三十代のはずなのだが、十歳以上年を重ねたようにも見える。介護による心労が、如実にあらわれていた。
「テス夫人、定期検査に来ました。ご主人のお加減はいかがでしょうか」
「なんとか……」
それ以上、言葉はつづかない。おそらくは――なんとか生きている、そう言おうとしたのではないだろうか。
ミスミは微笑み、一歩踏み出した。夫人は伏せた目を流して、足取りを追っていく。
「では、ご主人の容態を確認させてもらいます
屋敷の廊下を進み、患者である元冒険者ソイルの元に向かう。ソイルは、ダンジョン街に流れ着いたミスミのはじめての患者だった。
三年以上前のことだ。どうにかこうにか診療所を立ち上げたはいいが、まったく客の来ない日々が二カ月ほどつづき、意気消沈していたときにタツカワ会長が病人を見てほしいと話を持ち込んできた。
謎の疾患に頭を悩ませている元冒険者のソイル――ダンジョンで過去最高額の財宝を発見し、一夜にして億万長者となった男だという。ダンジョン・ドリームの体現者として、冒険者の間では有名人らしい。
彼は冒険者をやめて、大きな屋敷を作り、タツカワ会長の言うところの“いいとこのお嬢さん”を嫁にもらい、人生順風満帆だった。金は腐るほどあり、今後も幸福はつづくものと思われていたのだが、思いもかけないつまずきが待っていた。
突然ソイルを襲ったのは、理由のわからない倦怠感だ。当初はただ疲れがたまっているだけと思い気にとめていなかったようだが、あまりに慢性的に倦怠感がつづくことから医術者ギルドに受診した。
だが、何日も何カ月もかけて診察しても原因が判別できない。ついにはサジを投げられ、医術者ギルドに見離されたという。
そうしてタツカワ会長に頼まれ、ミスミが診察を請け負うこととなる。
「よお、会長と同郷なんだって。よろしく頼むわ」
はじめて会ったソイルの印象は、ガラの悪い男――元冒険者だけあって体格がよく、成りあがった反動か横柄な態度が目についた。これでよくあのお嬢さんと結婚できたと、呆れたものだ。
診察に対しても、マジメに取り組もうという意識は低かったように思う。タツカワ会長の手前、ぞんざいに扱われることはなかったが、協力的とは言い難い対応が多かった。当事者でない奥さんのほうが、よほど真剣に病気と向き合おうとしていた。
それが理由というわけではないが、ミスミも医術者ギルドと同じように、病気の原因がつかめかった。
ようやく糸口を見つけたのは、初診から半年ほどたった頃だ。
きっかけは診察中にソイルが手にしていたコップを落としたとき。コップを拾い上げようとしたが、指が強張ってうまくつかめないでいた。体を動かすことが困難になっていたのだ。
ソイルは日ごとに体力を奪われ、やがてベッドで横になっている時間が長くなり、ついに起き上がることができず寝たきり状態となる。
その頃になると、美人の嫁さんをもらってバチが当たった――冒険者の間で広まっていたそんな笑い話を、口にする者はいなくなっていた。
ミスミはテス夫人に病名と原因を告げる。奥さんに治療法はないのかと問い詰められたが、首を横に振るしかなかった。
「失礼します。診察に来ました」
ソイルの寝室の扉を開ける。後ろから覗き込んだノンが、かすかに息を飲む気配を感じた。
ベッドに身を落としたソイルは、身動き一つしなかった。生気のない青白い顔が、無表情に天井を見上げている。
たくましかった体格はすっかりしぼみ、いまや見る影もない。病人を通り越して、まるで死人のようだ。それでも、彼はまだ生きている。
「どうですか、調子は」
ベッド脇に身を寄せると、わずかに瞳孔が向いた。認知機能が衰えているわけではない。意識はハッキリとしている。
ミスミは痩せ細った体を触診して、体調を確認した。
栄養価の高い薬剤を混ぜた流動食で、ソイルは命をつないでいる。けっして充分とはいえないが、甲斐甲斐しい介護のおかげか、生命活動に問題がない範疇でこらえていた。
「うん、大丈夫そうですね。心音も脈もしっかりしている、床ずれもだいぶよくなってきた」
ソイルの瞳孔が、かすがに揺らぐ。そこから感情の動きまでは読み解けなかった。
診察を終えたミスミは、よけいな励ましなどは口にせず、普段と変わらぬ態度で部屋を出た。
「あの、お茶の準備をしますので、ゆっくりしていってください」
「奥さん、気を使わないでください。今日は診療所に代わりがいないもんで、すぐに戻らなきゃいけないんですよ」
「そうですか……」
ミスミとノンは早々に退散する。疲労と悲哀をにじませた顔で、テス夫人は玄関まで見送りにきてくれた。
屋敷を一歩出たところで、背中に声を投げかけられる。
「先生、主人は――」
それ以上言葉がつづかない。ミスミはつづきを問うことはなかった。ただ曖昧にうなずき、足を踏み出した。
帰りの道中、長らく沈黙を守っていたノンがぽつりとたずねる。
「センセェ、あの人の病気ってなんなの?」
「あれは……筋ジストロフィー。簡単に言えば筋肉が衰えていく病気だ」
「治せないの?」
「筋ジスは遺伝性の疾患。その人が持つ性質の欠陥が原因なんだ、魔法でもムリだろうな」
ノンはよくわからなかったようで、難しい顔をして首をかしげる。
くわしく説明するには、根本的な部分から理解させなければならない。面倒な作業だ。だが、ノンは治せない病気とわかれば充分だったようで、それ以上質問してくることはなかった。
「つまり、アゲハ姐さんといっしょか」
「まあ、かもな」
「アゲハ姐さんはおしゃべりできたけど、あの患者さんはそれもできないんだね。あれはまるで――」
そこでノンは区切る。彼女なりに配慮したのだろう。
言いたいことはわかっていた。あれはまるで――
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