<2>
擦過傷によって血に染まったヒザの消毒を済ませたミスミは、周囲を見回してから首をかしげる。
「あれ、嬢ちゃんはどこ行ったんだ?」
「今日はダンジョンですよ。昨日言ってたじゃないですか」
呆れ返った様子でカンナバリが答える。その隣で、ノンが腰に手を当てた偉そうな態度で大きくうなずいていた。
苦笑して、ボサボサ頭をかく。――ちらりとそのようなことを、耳にしたのを思い出す。
「まあ、このくらいなら活性化魔法はいらないか」
「おい、そんなテキトーでいいのかよ?!」
がなる男を、ミスミは鼻のつけ根にしわを寄せて手を振りあしらった。転んでヒザを擦りむいただけの患者だ。人種や職業に貴賎はないかもしれないが、病気には明確に貴賎――区別すべき差が存在する。重病と軽傷をいっしょくたに扱うことはない。
「魔法で治療してもらいたいなら、医術者ギルドに行ってこい。むこうでも、ツバつけときゃ治るって叩き出されるのがオチだろうがな」
「チッ、ヤブ医者が」
不満たらたらな男であったが、カンナバリがぐいっと顔を寄せると、圧力に押されて渋々診察室を出ていく。
「ノンちゃん、お会計お願い。パターンAで」
「了解、カンナ姐さん!」
受付に走っていったノンを見送り、ミスミは不審の眼差しをカンナバリに向けた。
「パターンAって何?」
「ムカつく患者用の吹っかけ代金プランです」カンナバリは得意そうに言った。「他に、いくらぼったくっても心が痛まない金持ち患者用のパターンBと、貧しい患者さんのための格安料金パターンCもありますよ」
「そんなことやってたのか……」
カンナバリは「ガハハ」と一しきり笑った後、真顔でぽつりと、「うちの経営、いろいろ厳しいですから」
それを言われると、返す言葉がない。ミスミは苦笑を浮かべて、こっそりとため息をもらした。
「ノンの世話を押しつけた俺が言うのもなんだけど、こんなことばっかり教えてんの?」
「まさか。ちゃんと看護師の“いろは”も教えてますよ。でも、実践で教える機会が少ないですから、どうしても限界はありますね」
「面目ない……」
どこの世界だろうと、個人経営は難しいものだ。大手の医術者ギルドを相手取り、うまく立ち回れる才覚はミスミになかった。
受付で一歩も引かず治療費交渉を繰り広げる様子を見るかぎりでは、ノンのほうがよほど経営手腕が高そうだ。
「なんとか、ノンもうまくやっていけそうだな。カンナさん達とも仲良くやってるようだし、ちょっと安心した」
「ハア」と、これみよがしなため息が返ってくる。「ミスミ先生、正気ですか」
「えっ、なんで?」
カンナバリは顔をしかめて、やれやれと肩をすくめた。向けられた視線に、哀れみにも似た落胆の感情が混じっていた。
「最近のティオ先生の様子に気づいてなかったんですか?」
「えっ? ええっ?」
「まったく、ミスミ先生ってとらえどころのない雰囲気で惑わされそうになりますが、医療以外に関しては結構ポンコツですよね」
ひどい言われようだが、間違ってはいないと自覚している。世の中苦手なことで溢れているし、学生時代から何を考えているのかわかりにくいと、よく言われたものだ――と、そんなことはどうだっていい。肝心なのはティオのことだ。
ここ最近の様子を思い返しても、ピンとくるような事象におぼえがなかった。患者に対して発揮される観察眼は、日常においては曇りっぱなしだ。
必死に頭を絞るミスミの姿に、カンナバリはもう一度ため息をついた。
「ノンちゃんとの関係に問題はないんですよ。ノンちゃんを介したミスミ先生との関係に、問題が大ありなんです」
「俺のせい?!」理解が追いつかず、困惑が増す。
「先生は、どういうわけかノンちゃんに遠慮がありますよね。それが気にくわなくて、ようするに、すねてるんですよ」
ノンに遠慮があるのは事実だ。アゲハに託された以上、きっちり面倒を見なければという使命感が対応に枷をかけていた。だが、それがティオの問題に繋がる理屈がわからなかった。すねるという状況に、まるで思い当たらない。
「やったよ、カンナ姐さん。ばっちりブン取ってきた!」
誇らしげに戻ってきたノンに視線が集まる。賞賛と勘違いしたのか、その顔にあどけない笑みが咲いた。
改めてノンの姿を確認すると、娼婦館にいた頃よりもだいぶふっくらしてきたように見える。頬の腫れも完全に引いて、十代前半のハツラツとした生気が少女の全身から溢れ出ていた。
もう遠慮する必要はないのかもしれない――そう思わせるには充分なバイタリティを感じた。
「よくわからないけど、とりあえず嬢ちゃんが戻ってきたら話してみるよ」
「そうしてあげてください」
どうなるにしても、何もかもティオが戻ってきてからだ。
いまは待つことしかできないミスミは、ひとまずお茶でも飲んで落ち着こうと休憩室に足を踏み出した――その一歩目で、ふいにブチッと不吉な音を耳にする。
足がつっかえるような感覚を受けて、ギョッとなり目を向けると、右の靴紐が見事なまでに引きちぎれていた。
「あらら、切れちゃってるね」
のんきなノンとは対照的に、ミスミは言い知れぬ不安に襲われた。
嫌な予感がする。ダンジョンの奥底で、何かよからぬことが起きているのではないか――と、懸念が胸に渦巻いて、知らず知らずのうちに顔つきが険しく変貌していくのだった。
※※※
ダンジョン地下十九階の冒険は、滞りなく進行していた。
何度かモンスターと遭遇することもあったが、激しい戦闘に発展するような
すべてが順調だった。順調すぎて、緊張が増してしまうほどに。
もうすぐ地下二十階――初級の壁が近づくにつれてパーティの口数は少なくなっていく。全員の顔が強張り、漂う空気は重くなる。
この張り詰めた雰囲気に気づいたマイトは、自称リーダーの役目として場をなごませようと軽口を叩いた。
「なあ、中級になったらパーティをしようぜ、このパーティで」
渾身のダジャレは……無視された。唯一ティオだけが苦笑を返してくれる。
さらに空気が重くなって、沈黙が深くなったような気さえした。仲間の石畳に踏み出す足音が、やけに鮮明に聞こえてくる。
ふいに先頭のゴッツが、手にした円盾を軽く振り、停止の合図を送った。緊張が跳ね上がり、慌ただしく武器を構える騒音がカチャカチャと通路に鳴り響く。
本来ならもう少しスムーズに戦闘態勢へ移行すべきなのだが、浮き足立った冒険者達には冷静な対応を遂行する余地はない。どの顔も緊迫感に押し潰されて、微妙に歪んでいる。その男を除いて――
「おい、見てみろよ」
振り返ったゴッツの顔は、かすかに頬をひくつかせた半笑いであった。
おずおずとマイト達が覗き込んだ先には、袋小路となった通路の端に闇が鎮座している。目を凝らすと、その場所だけ天井高が低くなって、影が深く落ちているのだと気づく――もっと目を凝らすと、天井が低くなっているわけではなく、下がっていく床と連動して天井も段階的に下がっていっていることがわかった。
「階段だ!!」
思わずマイトは叫んでいた。地下二十階につながる階段に、ようやくたどり着いたのだ。
仲間達は息を飲み、呆けた表情で階段を凝視している。実感がともなうまで、しばし時間がかかった。
「ついに、ここまで来たんだな」ゴッツが感慨深げにつぶやく。
「こんなの通過点でしょ。ちゃっちゃと突破しよう」シフルーシュは強気な発言を口にするが、その声はかすかに上ずっていた。
「お、おしっこ、したく、ななってきた」ダットンは相変わらずだ。
じわりじわりとパーティ全体に熱情が噴き出すなか、ティオだけは不安を表情に塗り込めていた。動揺を宿した視線は、じっと階段に向けられている。
「姉ちゃん、どうしたんだ?」
「あ、うん……、わたしもいっしょに行っていいのかな」ティオはためらいがちに言った。「本職じゃないわたしが、オマケで中級に上がるのは他の冒険者に申し訳ない気がして」
マイト達は顔を見合わせる。そして、一斉に大笑いした。
びっくりして目を丸くしたティオに、マイトはビシッと指を突きつける。
「考えすぎ。誰がなんと言おうと、姉ちゃんは俺達の仲間だ。文句言うヤツがいたら、俺がブッ飛ばしてやるよ」
そもそも他に本業を持つ副業冒険者は、別段珍しいわけではなかった。ダンジョン街という立地上、小遣い稼ぎやちょっとしたレジャー感覚で冒険者活動を行っている者も少なくはない。本業だとか副業だとか、気にかけることはまずなかった。
むしろ副業であることを気にかけるティオは、それだけ冒険者に真摯に向き合っている証拠ではないだろうか――そんなふうにマイトは思った。
「行こうぜ、姉ちゃん。パーティでパーティしよう!」
「とにかく、地下二十階には番人がいる。気合を入れなおそう!」
マイトのダジャレを無視して、ゴッツが発破をかける。本音を言えばちょっぴりさみしいが、これで仲間がまとまるなら涙を飲んで受け入れるしかない。
おのおの改めて装備を確かめ、準備を整える。ティオのおかげか、ほどよく緊張は解けて、心身ともに良好な状態となっていた。
全員が顔を合わせて、初級の壁に挑む――そう覚悟した矢先だ。
前ぶれなく突然、ダンッと振動が足下から届いた。つづいて人の放つ悲痛な声、乱暴な足音、混乱を凝縮したようなどよめきが近づいてくる。
いきなりのことで動揺したパーティは、顔を強張らせて一点に視線を向けた。地下二十階につづく階段だ。
あきらかに階下から発せられており、徐々に音源が上がってきていることは間違いない。
反射的に身構えたマイトの前に、階段を駆け上がってきた人影が転がり込んだ。
「えっ?!」
その顔にマイトは見覚えがあった。ティオも知っている人物だ。
二人が最初にパーティを組んだ調査隊で、リーダー役をこなしていた古参の冒険者である。当時はパーティが解散して荒れていたが、こうしてダンジョンで巡り会ったということは無事新しいパーティを組めたのだろう。
「お前ら、あのときの……ひよっこと女医術者」一瞬呆けた表情を浮かべたが、すぐに我に返り尖った声を放った。「お前ら、手を貸せ!」
少し遅れて、彼の仲間も姿を見せる。昏睡状態のドワーフを支えて、半ば引きずるように階段を上ってきていた。
マイトとゴッツが飛び出し、運び出すのを手伝う。どうにか地下十九階に引き上げると、ティオがすぐさま容態を診察――意識を失っているが、ゆるやかに胸が上下して呼吸も確認した。命に別状はないようだ。
ティオは安堵の息をもらす。その直後、「ウソッ、なんで?」と、唐突に目をむいて驚きの声を上げた。
予期せぬ展開に翻弄されて、まったく気づくことができなかった。そこには、もう一人見知った顔がいたのだ。
「やあ、ティオ……」
彼は照れくさそうに笑って、軽く首をすぼめた。
「あっ、この兄ちゃん――」
「せ、先輩!?」
ティオの医術者ギルドの先輩――セント・パイルだ。
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