アンダーパスの沼

村上 ガラ

第1話

「ん…………」


 私の隣で寝ていた夫が体を起こすのを感じた。


 今何時だろうか。どっぷりと汗と湿気にまみれ、夢の中で溺れかけていた体をそっとめぐらせ時計を探す。午前三時二十分。


 溺れる夢を見た原因は、夜半から降り始めた激しい雨のせいだったかもしれない。


 雨は、夫と体を離し眠りについたほんの数時間前の昨日より一層激しさをまし、恐怖を感じさせるほどに窓を打ちつけていた。


 夫は私を起こさぬようにと、そっと、さっき脱ぎ捨てた皮を一枚づつまとう。


「どこかへ行くの?」問いかけると夫は驚いて振り向き、


「起こした? ごめん。ゲートを閉めに行かないと、と思って」と答えた。


 夫は時々優しくなる。


 ゲートとは、少し離れた立体交差にあるアンダーパスのゲートの事だ。


 そのアンダーパスは、少し激しい雨が降るとすぐに水が溜まり、人も車も通れなくなる。地元の人間はそのことを知っているので、雨の時はそこに通じる道は避けるが、めったに来ない外からの人間のために、大雨の時はゲートを閉めなければならない。


 本来は警察の仕事かもしれないが、この駐在所員一名の田舎町では、町の防災は有志の消防団、その中でも数少ない若い世代がせきになうことも多かった。


「大変だね」そう答えながら、パジャマに着替える習慣のない夫が、先ほどベッドに入る前に着ていた普段着をもう一度身に着け、その上に雨合羽を羽織るのを、私は眺めていた。


「朝の分は帰ってから?」


 私が闇の中、窓の外からのわずかな逆光で表情のうかがえない夫を見ながら尋ねると、夫は


「さあね」


 と笑いながら出て行った。





 私たちはこの町の出身ではない。過疎の町の移住者優遇の情報を知り、二年前、ここに住むことを決めて移ってきたのだ。新築の家に、ほとんどただの家賃で住むことができ、十年住めば家も土地ももらえる。


 田舎町は詮索好きというが、それはまだ、力の残った人たちの住む町の事だ、とここに移ってから思う。


 ここほど高齢化や過疎が進んでしまった地域では、私たちがどこの誰であろうが、もう気にする余力の残った人はいない。ここはそういうところだった。


 私たちに子供はいないが、その詮索さえ、誰もしない。


 そんな気力さえ残っていない町なのだ。





 もう昨夜と言ってもいい、ほんの数時間前の夫の攻めに疲れ果て、うとうとまどろんでいると玄関のドアが開き、一時、そこから漏れる外の世界の激しい雨音が聞こえてきた。


 やがて再び外の世界とのつながりが絶たれ、がさごそと雨合羽や長靴を脱ぐ音、バスタオルやぞうきんを使って水滴を始末する音などがきこえた。


 ―――――また、するのだろうか。


 そう思いながら体のしびれをさすっていると、寝室のドアが開き夫が姿を見せた。


 ここまでは予想通りだった。だが、そのあと、


「杏奈、こんなもの拾った」


 夫が洗車用のバケツを差し出したその中には、見慣れぬ、大きな生き物が入っていた。








「アンダーパスの水溜まりの中に肩から上を出して入っていたんだ。遠目に、小さな子供がいるのかと思って慌てて駆け寄ったら…………」


 夫が言うには、向こうから夫の腕に飛び込んできたらしい。


「お腹がすいてるんじゃないかと思って、車に乗せてたバケツに入れて連れて帰って来たんだ」


 ――――-私はそれを凝視した。


 それは全長六、七〇センチと言ったところだろうか。こんな大きな生物が―――いつも大雨の時に氾濫し、くだんのアンダーパスや、時に近くの田んぼや畑を水浸しにする―――――この近くの二級河川の八つ手川に棲んでいるのか、という平凡な疑問とともに――――――川に『人魚』がいるものだろうか、と私は考えていた。


 後から考えれば、川だろうが海だろうが人魚というものが存在した、という事実をまず驚くべきだったのだが、そこをすっ飛ばすほど、私はその姿にショックを受けていた。


 まぎれもなく尾びれのついた下半身は魚の形をしている。そしてその上半身は、ややでっぷりとした腹部やぺったんこの胸、幼児のような体つきのその上に人間の物と同じ頭部が乗っていた。髪はやや巻き毛で肩のあたりまであった。顔はやはり、幼児のようでふっくらとしたほっぺたにつぶらな瞳。その瞳がほとんど黒目で、表情が読み取れないところが少し小動物を思わせたが。

「…………連れて来て、大丈夫なの? 迷子なんじゃない? 親が近くにいたんじゃないの?」


 私は、昔何かで読んだ、親シカが餌をとりに行く間に原野に隠しておいたエゾシカの赤ん坊を、迷子と思い込んだ人間が連れてきてしまい、結果、仔ジカが親とはぐれて孤児になってしまう、という北海道の獣医さんの話を思い出していた。


 夫は私の話を聞いてはいたが、特に返事をすることも無く、炊飯器の中に残っていたご飯をお結びにして人魚の口に持って行った。人魚は口を開けるとパクリとそれに食いつき、しばらく咀嚼して飲み込んだ。


「ウンク、ウンク」そんな鳴き声とも息遣いとも聞こえる声で人魚は鳴いた。


 お腹がすいていたのが満たされて喜んでいるようだった。


 夫は餌をやることに夢中になり、私たちは朝の分をすることなく夜明けを迎えた。





 夫の仕事はネットブローカーだった。基本的に在宅でできる仕事だ。


 ただ、過疎地であるこの町では空き家が多く、仕事場としてもう一軒借りたい、と役場に申請したところ、近所の空き家をただ同然で貸してくれることとなった。


 夫は歩いて数分のその空き家で、昼夜を問わずネットで取引をして収入を得ていた。私は働きに出ることも無く、一日中、住居の方で夫を待つ。いつ彼が帰ってきてもいいように。


 夫は人魚を『家』に置いていたので、以前より頻繁に仕事場にしている借家から帰ってくるようになった。


 夫は家に帰ると真っ先に人魚の水槽へと走った。


「ウンク、ウンク」


 人魚もえさをもらい、夫の事を信頼したようで、夫が近づくと喜んでいるような声を出して鳴いていた。





 夫はますます人魚の世話に夢中になっていた。大きな水槽を買ってきて、カルキを抜いた水を用意し、入れ替えた。餌も、自分で料理などしたことのない夫が「きっと、人間の子どもの喜ぶものが好きなんじゃないか」と言って、ひき肉を買ってきて小さなハンバーグなどを作っていた。


 人魚はそれを「ウンク、ウンク」と言いながら食べた。


 夫は人魚が来てから水風呂に入るようになった。「さすがに、魚だからお湯だと煮えるんじゃないか」と言って。


 そう、人魚と一緒に入るのだ。


 私は夫と一緒に風呂に入ったことなどなかった。


 風呂場から、「ひゃー、冷たい」という夫の叫び声と人魚の「ウンク、ウンク」という鳴き声が聞こえてきた。





 その「ウンク、ウンク」という鳴き声は私に昔の出来事を思い出させた。


 大学生の時のことだ。


 ある日、付き合っていた彼の子どもを妊娠したことに気付いた。


 とにかく彼と相談しなければ、と彼のアパートに駆け付け、二階にあった彼の部屋の前に立った時、薄いドアの向こうから何やら物音がする。耳をそばだてると、くぐもったような声で「ウンクウンク」と聞こえてくる。…………ウンクウンク、ウンクウンク…………。私は合鍵を使って部屋に入った。薄暗い、カーテンを閉め切った部屋の中に動物が二匹いて、絡み付いていた。


 女が上になろうと体位を変えた時、ようやく私に気づいて、声をあげた。


 女の方は私の親友だった。顔を見るまではまさかと思っていた。


 いや、顔を見てからも、これは悪い夢だ、すぐに醒める、と二人から目をそらすことができずに、部屋のドアから後ろ向きに足を運びながら考えていた。


 私は後ずさりして階段から落ち、流産し、予後が悪く感染症にかかり、医師から「この先自然妊娠は難しい」と言われてしまった。


 それだけではない。その後、彼の母親が私を訪ねて来て私に訊いた。本当に息子の子どもだったのか、と。


 私が、間違いない、と答えると、その女は歓喜の涙を流した。


「克明は昔おたふくかぜにかかった時、もう子供は持てないかもって言われたのよ。なんともなかったんだわ!」


 この女はそういうと嬉々として帰って行った。


 私へのいたわりの一言の言葉も無く。失った孫の事を惜しむことも無く。彼からその後連絡はない。この親子にとって私は息子の妊娠可能判定検査薬だったのだ。


 この母親に会った後から私は食べ物の味を感じなくなった。味だけではない。私は何も感じなくなった。








 夫が珍しく泊りがけでオフ会に出かけたので人魚の世話を私がすることになった。


 私が作ったものを人魚は食べなかった。


 そして私は気が付いた。人魚の体の変化を。わずか数か月で、人魚は信じられないほど成長し、腰はくびれ、その胸は膨らみ始めていた。


 人魚は私の世話を拒絶し、夫を待った。


 私はその夜一人でベッドに入った。


 暗い部屋に一人で横になっていると、理由わけの分からぬ不安や、どす黒いものが次々と頭に浮かんでくる。少しまどろんだかと思うと、悪夢に揺り起こされた。


 眠ることなどできなかった。それらの思念から逃げるように、夫と人魚のことを考えた。


 夫は相変わらず、毎日、人魚と水風呂に入っていた。


 夫が人魚と風呂に入っている時にのぞいたことはない。風呂の時間は長かった。


 ウンクウンク、ウンクウンク……………。人魚と夫は…………女になった人魚と夫は何をしているのだろうか。





 夫が戻った日は、土砂降りの大雨だった。夫はかえってくるなり、何か月かぶりに私を犯そうとした。


 家を離れ雑踏を歩いたせいで、元の衝動がよみがえったのだろう。






 夫はかつて強姦魔だった。


 未成年で強姦事件を繰り返し、少年院に服役していたのだ。夫がそんな人間だということは、今、夫の周りにいる人は誰も知らない。加害者は未成年であれば守られた。


 被害者の中には自殺した者もいた。


 その一人が私の姉の笹原希ささはらのぞみだった。


 私が高校に入ったばかりの頃の事だ。姉はその時婚約し、結婚式の日取りも決まっていた。そんな幸せのさなか、未成年だった夫に暴行を受けた。


 姉は死後、妊娠していたことが分かった。遺書には、婚約者の子どもなのか、強姦された時にできた子どもなのか分からない、殺すことはできない、と書かれてあった。


 数年後、この事件を取材し続けているフリーのルポライターから、犯人が出所したらしい、と告げる電話をとったのが大学生の時の私だった。父や母なら話を聞かずに切っていただろう。


 私は流産した後、しばらくしてから、その時聞いた犯人の居所を訪ねた。


 私が訪ねてきたことを犯人であった夫は驚いたが、私の申し出はすんなりと受け入れてくれた。 


 そして私たちは夫婦になった。四年前の事だ。






「なんだよ、これは!」


 突然夫が私から体を離し、とび起きた。


 得体のしれない物を見る目で私を見下ろしている。





 私の体は、夫を待ち望んでいた。





 この数か月夫に求められないこと、そして人魚が『女』に変貌した事に気づき、夫との間を疑い嫉妬に苦しむことで、私は夫を欲していたのだ。





 夫は急いで服を着ると、黙って外へ出て行った。





 開け放した寝室のドアから、人魚を入れた水槽が目に入った。人魚がこっちを見ていた。





 突然、獣の咆哮ほうこうが聞こえた。


 今のは、何? どこから聞こえたの?


 私は戸惑った。が、気づいてみれば、驚いたことに、それを発したのは私自身だったのだ。


 私は猛烈な飢えを感じていた。体の細胞の一つ一つが、私の全身で、飢えて叫びをあげていた。


 うなりながら台所に飛び込むと、夫が白米を炊いておく炊飯ジャーを開けた。が、空っぽだった。


 次に私は冷蔵庫に突進した。


 最初に明けた冷蔵部分はほとんど空っぽで、食べ物を見つけることはできなかった。


 獣のように暴れながら冷凍庫を開けた。


 そこには、味覚を失った私と、もともと食べることに興味のない夫が、それぞれ好きな時に解凍して食べる、一食分づつ個包装になったレディーミールの冷凍食品がぎっしりと詰まっていた。 


 その一つを引っ張り出し、電子レンジに入れた。解凍終了が待てずに取り出し、口に運んだ。


 じゃりじゃりと、まだ凍った、冷たさの残る『若鶏のクリーム煮』が細胞にしみこんだ。


 味を感じたのは、美味しいと思ったのは何年振りか。


 もう何年も、私は全く空腹を感じることも無くなっていた。だが、食べないと突然意識を失う。それを防ぐために、ただ、身体の命をつなぐために、いつも砂をかむような違和感を持ちながら、食べ物を口に押し込み、飲み下していた。


 私は無心に、ただひたすら、凍ったままの食品を食べ続けた。





 やがて私は食べ疲れ、一息つくと人魚の方を見た。


 人魚はさっきと同じ姿勢で、私をじっと見ていた。その顔の、ほとんど黒目のつぶらな瞳は、相変わらず何の表情も読み取れなかった。





 ――――笑っている。私を見て笑っている。


 私にはそう思えた。


 ――――こいつさえいなければ。こいつさえ。





 こんな小さな町で夫の衝動が爆発したら。 


 私が止めなければ。人の役に立たなければ。夫は私を犯すことで自分の衝動をコントロールしているのだから。


 性交は私にとって苦痛でしかなかった。それはわたしにとって、二十四時間、いつ襲ってくるかもしれない苦痛と災厄だった。


 …………だから、そんな私だから、夫の衝動を止められるのだ。私の苦しむさまを見て、夫は満足するのだ。





 感じてはならない。心など持ってはならない。人魚など、いてはならない。





 私は寝室へ行き、クローゼットの中の衣装ケースの引き出しを引っ張り出すとひっくり返して中身をぶちまけた。空になった引き出しを風呂場へ持っていき、水道から直接水を入れ、水槽のそばへ持って行き、人魚を抱き上げ(彼女はずいぶん育って一メートルくらいになっていた)その中へ入れた。そして、水と人魚で重くなった衣装ケースの引き出しを抱えあげ、外に出た。


 外は相変わらず、土砂降りの雨が降っていた。


 不安定な体勢で、ぬかるみに足を取られながら、玄関のドアも閉めずに駐車スペースに止めてある軽自動車へ向かった。


 その時私は獣そのものだった。


 何も考えられず、ただ取りつかれたように体が勝手に動いていた。


 長いことまともに食事もとらず、骨と皮のようになっていた体のどこにあんな力が残っていたのか。

 


 ドアを開け後部座席にその引き出しを押し込むと、運転席に乗り込んだ。


 ―――――アンダーパスへ行こう。あそこに元の様に捨ててくればいい。





 私は、車を発進させ、アンダーパスを目指した。


 アンダーパスに着くと、車を停止させ、運転席から外に出て、雨に打たれびしょ濡れになりながら後部座席のドアを開けた。アンダーパスは水浸しだった。だが、まだ誰もゲートを閉めに来ていないようだった。


 私は人魚を抱き上げようと手を伸ばした。それまで、運転する私の後ろでウンク、ウンクとつぶやくように鳴いていた人魚が私を見あげた。


 次の瞬間、


「ジャマヲスルナ」


 老婆が絞り出したような声でそう言うと、突然人魚が髪を逆立て、ガクガクと震えながら私の腕にかみついてきた。


 私は、腕の痛みにひるみ、人魚が喋った、ということに驚きながらも、かみついた人魚をそのままに抱き上げて車から出し、アンダーパスの方へ向かった。





 ―――――捨てればいい。いなくなればいい。そうすれば、元通り。全部元に戻さなければ。全部、すべてを。





 私は獣の唸り声をあげながら、アンダーパスの、濁った水がまってできた、まるで沼のような水溜りへ近づいた。





 その時、


「杏奈、何やってるんだ!」


 夫が雨の中を、こちらに走ってくるのが見えた。


 人魚は私の腕から、かみついていた口をはずし言った。


「オマエハクルナ」


 人魚は私の腕の中から抜け出すと、アンダーパスの、その沼のような水溜りに飛び込み、夫を待った。


 夫は人魚を追いアンダーパスに向かった。夫がアンダーパスの水溜まりに入り、人魚を抱こうとした。


 その時、私は不思議なものを見た。アスファルトで固められているアンダーパスの浅いはずの水溜まりが、まるで底なし沼のように夫を少しづつ飲み込んでいった。そして夫の周りには数えきれない無数の人魚がいた。その大きさはほとんどが数センチから十数センチで小さな手で夫の体にしがみつき水の中へ引きずり込もうとしていた。


 私は、ふと、理解した。あの人魚たちはみな、夫の子どもなのだと。


 夫がその子らの母を犯したため、生を受け、そして誰にも愛されず、殺された命。


 ――――姉の体の中にいて、姉と一緒に亡くなった子もあの中にいるのだろうか。もしかして、うちに来たあの人魚が、その子なのだろうか?








 夫と初めて会った日の事を思う。


 何も感じなくなって数か月たったころだった


 ルポライターに教わっていた住所へ夫を訪ねて行った。


 小さくて古い木造アパートだった。


「ここではなんだから」と夫が言い、近くのファミリーレストランに二人で場所を移した。


 夫は私の真正面に座り、目を伏せたまま、


「どうにでも、していただいて結構です」と言った。


 そして、死ねとおっしゃるなら死にます、とも言った。そして、自分が母親から性的虐待を受けていたこと、それが言い訳になるはずもない、という意味のことを言った。


 私はろくに夫の言葉も聞かずさえぎり、言った。


「性犯罪者の再犯率の高さを知っています」


 夫が顔をあげて私を見た。


 私は構わず続けた。


「あなた方には、きっと消すことのできない衝動があるのでしょう。そこで提案なんですが」


 私はそこで言葉を切り、ひとたび目をつぶり、息をため、


「私と結婚しませんか」と夫に申し出た。


 夫は驚いたが私は続けた。


「私は、もう子どもは産めない体ですし、何も感じません。生きていること自体が苦痛なんです。あなた方は他人が苦しむ様を見るのが、他人に苦痛を与える事が喜びなんでしょう?」


 夫は私の言葉を聞くとうつむき、しばらく時間をとったが、やがて顔をあげ、


「はい」と答えた。


 そしてそのファミレスから出てすぐ籍を入れた。


 それが私たちの結婚だった。





 夫が沈んで行くのを見ながら私は、もしかしたら夫はすでに死んでいたのかもしれない、と思った。


 夫の、その魂は。


 夫を精神的に殺してしまったのは彼の母親だろうか。それとも、とどめを刺したのは私だろうか。





 夫をつかむ無数の小さな手。あの手は決して許さない手だ。


 私は許されるのだろうか。私の亡くした子は、いつか私を迎えに来てくれるだろうか。








 腰が抜けたように地面にへたり込んだ私の右手の指先に、雨に打たれ、閉じたカタバミの、それでもガクの端からはみ出た黄色い花が触れた。私は、その黄色と夫を、まるで自動人形のように、交互に見つめた。





 私ははざまにいた。





 此岸しがんと彼岸の間に。生者と死者の間に。


 罪人と傍観者の間に。罰を受ける者と罰する者の間に。


 許される者と許されざる者の間に。許す者と許さない者の間に。


 愛される者と愛されない者の間に。愛する者と愛さない者の間に。








 私は土砂降りの中、夫が沈んでいくのを見つめながら、夫と出会って以来はじめて「裕也!」と夫の名を呼んだ。





 夫は私を見て、かすかにほほ笑むと、傾いた体の上の方になっていた左手を、少し上げた。別れのあいさつの様に。そして、声ひとつ立てず沈んで行った。





 私はその瞬間、慟哭どうこくした。私はあの人を愛していたのだ。





 私は夫に救われていたのだ。





 夫に苦痛を与えられることで私は罰を受ける。罰を受けている間、私は安息することができた。





 私は罪深い人間だ。


 流産した時、わが子を失ったというのにひそかに安堵した自分の心。


 どこへ行っても、誰にも愛されることのない、価値のない自分が存在することへの罪の意識。


「何か一つくらい、人の役に立ちなさい!」という母の叱咤。


「どうして、希なの!どうして杏奈じゃなくて希なの?!」という母の嘆きの声。


 夫に、時には殴られながら、もっとひどい時にはカッターなどで薄く切り付けつけられながら犯されることで、私はその責めから逃れることができたのだ。





 母の願いをかなえたかった。


 私なら、強姦魔に襲われてもいい、と思っていた母の願いを。――――夫に犯され続ければ、母は私が姉の代わりにならなかったことを許してくれるだろうか。


 私が人の役に立つことを願っていた母。――――夫の衝動を止めているのは私だ。今なら母は、少しは私を認めてくれるだろうか――――。


 夫にねじ伏せられるたび、私はそう思っていた。


 夫は私の望み通り、私に罰を与え続けてくれた。


 それは、常人にはおよびつかない考えだろうが、私に与えられた唯一の救いだったのだ。





 アンダーパスの沼には、夫が沈んで行った後に大きなあぶくがいくつも浮かんできた。


 やがて、その水面みなもの騒ぎもしずまり、交差した道路を上に持つ、雨の直接落ちないアンダーパスは元の静けさを取り戻した。

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アンダーパスの沼 村上 ガラ @garamurakami

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