侃々諤々の鍋

朽網 丁

侃々諤々の鍋

「ジェイ先輩、ここでもやし食べるのはもうやめにしませんか」

 ジェイは部室に入ってきたばかりのアキレから嫌味を籠めた調子でそう言われた。当の彼は今まさに口いっぱいのもやしを頬張ったばかりだったので、すぐに返事をすることができなかった。彼はアキレに向かって手の平をかざして、飲み込むまで待ってくれと伝えた。その時の彼の表情は無理な咀嚼のため、あるいは自身の健気さの証明のために苦しそうに歪んでいたが、しかしアキレは彼のその姿を見ていなかった。アキレは着ていたコートを脱いでハンガーにかけている最中であり、静電気でアキレの長い髪が空気を含んだシーツのように流麗に舞っていた。

「どうして?」

 ようやく口の中が空になったジェイが聞くと、アキレは乱れた髪を苛立たし気に手櫛で整えながら「部屋が生臭くなるんです」と言葉尻鋭く言った。

「そんなことないでしょ」

 アキレの鋭い舌鋒とは対照的にジェイは呑気な調子で言った。

「外から入ってくると気になるんです。ジェイ先輩以外ここでもやし食べる人はいないから、先輩には分からないでしょうけど」

 ジェイは「アキレちゃんは手厳しいな」と言いながら自分が座っている椅子の、机を挟んで対面側に位置する椅子を足で少しだけ押した。それまで机の縁のすぐ近くにあった椅子が押されて、人ひとり分には僅かに足りないほどの隙間ができた。アキレは少し考えてからジェイの対面の椅子の背もたれを引いて、「椅子は蹴らないで下さい」と言いながらその椅子に腰かけた。それを見たジェイは満足そうに微笑んで取り皿をもう一つ用意すると、そこにもやしを山ほど盛りつけてから目の前のアキレに差し出した。

「そんなに食べられないです」

「おいしいから平気だって」

「ポン酢とかないんですか」

「冷蔵庫にあったかな」

 アキレに取り皿を受け取らせたジェイは席を立って部屋の隅に置かれた小型の冷蔵庫の中を探り始めた。冷蔵庫の中は雑然としていたが、中に入っている食品は皆どこかしらに黒いマジックペンで各人の名前の一部を使用したマークが書かれている。それはその食品の持ち主を明確にするためのものであり、中には『丁』という漢字を丸で囲ったマークが描かれたもやしの袋と、『否』という漢字を丸で囲ったマークが蓋部分に描かれたプリンもある。ジェイとアキレの呼び名はこのマークから着想を得ており、ジェイは『丁』の字が歪曲しすぎていたためにアルファベットのJに見えてしまったことから、アキレは丸で囲んだ『否』の字が呆れてため息をついている人の顔に見えたことからここではそう呼ばれていた。

「ないならいいですよ」

 しびれを切らしたアキレが冷蔵庫の前で屈むジェイの背中に向かって言った。ジェイは振り向かないで「でももやしの匂い嫌いなんでしょ。ポン酢なしで食べられるの?」と心配そうに聞いた。

「いや、ないなら食べないんでいいですってことです」

 ジェイは冷淡に言い放たれたアキレの言葉に落胆しかけたが、その時丁度運よく冷蔵庫の奥に置かれたポン酢を見つけたので、かえって気分が良くなった。

「やあ、あったあった」とジェイは嬉々としてポン酢の瓶をアキレに寄越した。彼女は受け取ったポン酢をもやしの山にかけて、食べごろの温度に下がったもやしを食べ始めた。席に戻ったジェイはもやしをもう一袋開けて茹で始めた。アキレは今度は何も言わなかった。

 二人はしばらく黙ってもやしを食べ続けた。カセットコンロから生えた青白い炎が微小な風の動きで揺らめく音と鍋に張られた熱湯がもやしを茹でる音、もやしを噛む音に年季を感じさせる石油ストーブと換気扇の駆動音、それからアキレが時折鼻を啜る音、様々雑多な音が充溢していたが、それに反して部屋の中は実に物静かな空間だった。窓外から控えめに差し込む可憐な陽光を受けて、部屋に舞った埃がきらきらと光った。普段は蔑視される、散らかった部屋に積もった埃も、適した状況をすっかり整えてやれば見惚れる情景をつくる一部となり得るのだった。ジェイはこういう雰囲気を心底から好み、またいつも得られるとは限らない心地の良い時間を大事にしようと日ごろから努めていた。後に大学を卒業してこの部室に来ることもなくなり、同好会の会員にも思い立って会うことができなくなった時には、きっと今身を置いているような風景が頭の裡に浮かんで、郷愁に身を震わせるのだろうと、そう彼は夢見ていた。

「外寒い?」

 ジェイは唐突にアキレに聞いた。

「昨日と一昨日に比べたらたいしたことないです」

「そう?」

「はい。どうしてですか」

「鼻啜ってるから」

「ちょっと風邪気味かもしれないです」

「じゃあ、もっともやし食べないと」

「そうなんですか」

「風邪の予防にいいんだ」

「さすが農学部」

 アキレが感心したように言うと、それを聞いたジェイは一瞬閃いたような表情を浮かべてから「アキレちゃんはライター志望なんだよね」と早口に聞いた。彼のその動作には、後で話そうとしていてすっかり忘れてしまっていた話題をふと思い出して今度は忘れない内にその話題について語ろうとする人の不自然な必死さが見て取れた。アキレはその彼のその様子に若干驚いて「ええ、まあ」と気のないような返事をした。

「じゃあさっきみたいな誤解を生むような表現はちょっと感心しないな」

 ジェイは『ちょっと』の部分を強調して言った。それは諫言を口にする時の彼の癖だった。もっともそうせずとも、今の言葉は心からの諫言ではなく、単なる雑談の一部だと悟るのにアキレは手間取らなかった。その悟りを容易にするだけの、諫言とはあまりにも無縁な、機嫌の良いジェイの微笑が目の前にあったからだった。

「さっきのもやしとポン酢の」とジェイは付言した。

 ジェイはそれほど深い意味を込めた話題を提供したつもりではなかったし、アキレもそれは承知していたため、普段であればそのまま軽快な口調の応酬が行われるはずであったが、今日の彼女はジェイのその言葉である疑惑を持った。

「また誰かから聞いたんですか」

 ジェイはアキレの沈んだ声に対して、本当に分からないという風な顔をした。

「私がゼミの教授に難癖つけられたことですよ。だからわざわざそんなこと言ったんでしょう」

 アキレの声には、義憤によるものだと思われる熱が次第に乗ってきて、対面するジェイは面食らって座る椅子を少しだけ後ろに引いた。

「いや、今回は聞いてないけど、その様子だとまた喧嘩したの? ええと、新関教授だっけ」

 アキレは長い髪を乱暴に手で掻き上げるとそれらをまとめて後ろに放った。真っすぐに伸びた黒髪は、それらを扱った手の乱暴さとは裏腹に一糸乱れぬ動きでうねり、まるで捲られた一枚の薄いヴェールのように、彼女の小さい額の生え際から後頭部までを覆い隠した。その激しい動作によるものか彼女はいくらか冷静さを取り戻したようだった。

「言ってることがまるきし古いんですよ、あの人は。私はリズムのある文章を書きたいんです。それなのに『こんなに省略と指示語ばかりの文章では読んでいる人が理解できない』って言うんです、あの人。前時代的すぎますよ。この情報過多の世の中で馬鹿正直に一言一句正式な言葉を要求している人なんていませんよ。多少文章に不足があっても分かりさえすればリズムに乗って読み進められる文章の方が好まれるに決まってます。ジェイ先輩もそう思いませんか」

 アキレは鬼気迫る形相で持論を一息に言ってしまうと、乱れた呼吸を整えようとして一度ジェイの意見を煽った。

「難しいことは分からないけど、何事においてもリズムは大切かもしれないね」

 ジェイがアキレに賛同の意を表するとアキレは先ほどまでの敵対心的興奮と賛同を得た歓喜から紅潮する頬を隠すことなくジェイの目を正面から見据えた。

「やっぱりそうですよね。それにこれは村上春樹さんの考えでもあるんです。あの人が間違っているだなんて私にはとても信じることはできません」

「相変わらず好きなんだ」

 アキレは大仰に頷いた。それが彼女の好きな作家に対する愛情の大きさを表現するための動作だと思うと、ジェイはこの実直な後輩が愛らしくて堪らないと感じた。

「それで今日はもうすっかり疲れきっちゃいました。あの新関、いえ、古関と散々言い争ってきたんで」

 アキレはそう言って机の空いているスペースに突っ伏した。彼女が持っていた皿はもう既に空になっていて、自身が食べられないと評した量のもやしを彼女はいつの間にか平らげてしまっていた。

「それは大変だっただろう。ほら、もっともやしを食べなさい」

「そうなんですか」

「スタミナをつけたり疲労回復にも効果がある」

「優秀なんですね。安いのに」

 もやしの入っていた袋の裏にある値段表記を見ながらアキレが呟いた。ジェイは特に返事をすることなく、黙々とアキレの取り皿に追加のもやしを盛りつけていた。

 先ほどまでの盛況だった会話の余韻はジェイが想像したよりも早く過ぎ去り、気づいた頃には彼が心から好むあの安価な静寂がやってきていた。しかしその静寂も前兆なしに現れた扉の開閉で生じる音ですぐに破られた。この部屋の扉は老朽化が進んでおり、開閉時には耳に障る擦過音が部屋中に響くのだ。ジェイとアキレは音に誘われて部屋の入口の方を見た。特にアキレの動作は鋭いものだった。それは彼女らが所属する同好会が置かれている現状に起因することなのだが、同じ当事者であるジェイの動作は対照的に緩慢なものだった。それは単に彼がアキレよりも落ち着いているということではなかった。

扉の前で二人に見つめられたナナホシは彼女らのその様子を訝しむこともなく「アキレまた新関さんと喧嘩したの?」と揶揄するように質問した。

「どうしてナナホシ先輩も知ってるんですか」

 アキレは先ほどのジェイとのやり取りと同様に半ば驚き、半ば不満気な態度でナナホシに問いただした。

「だってアキレの怒った声外まで聞こえてたから。さすがに内容までは聞き取れなかったけど、お前が大声出すのって決まって新関さん関連だろう」

 ナナホシは人が懐かしい風景を思い出す時によく見せる、ごく自然な目の細め方をしながらそう言った。彼は暖房によって心地よく温められた室内の温度を感じると身に着けていた防寒具を次々に取り外し始めた。手袋の中から現れた手は女性のそれと見紛うほどに華奢で、またともすれば病的とも取れるまでに白い。冷たい外気から守られていた両手は、しばらくぶりに外に出たといった風に初めはぎこちなく握ったり開いたりしていたが、やがて規則的に振れる波のようなしなやかな動きを見せた。その流麗な指は場所を問わず、その腹の下に黒と白の艶やかな鍵盤を生み出すと思わせる術を確かに持っているのだ。

 彼がナナホシと呼ばれる理由もほかの二人と同様であり、彼が自分のマークに使っている『士』という漢字を丸で囲んだものを逆さから見るとテントウムシの背中に見え、テントウムシと言えばナナホシテントウムシだろうということで彼ナナホシと呼ばれていた。

「私の声そんなに大きいですか」

 アキレは恥ずかしさに頬を紅潮させながらジェイに聞いた。

「さっきみたいな時だけね。真剣さが伝わってくるあたり、アキレちゃんの美点だと、

僕は思う」

 ジェイの言葉をアキレはお世辞と受け取ったらしく、納得いかないという顔でため息をついた。ジェイはそんな彼女を慈しみを込めた目で眺めていた。

「お、鍋か? いいじゃないか、俺も入れてくれ」

 ナナホシはジェイとアキレが挟んでいる鍋の中を覗き込みながら弾んだ声で言った。

「これが鍋に見えますか。もやし湯でてるだけですよ」

「丁度豚肉とプチトマト持ってるから入れるか」

 ナナホシは景気の良さそうな声色でそう提案してから、鞄の中を探って大学付近にあるスーパーのレジ袋を取り出した。僅かに透過して見える袋の中にはプチトマトと豚肉

のほかにも様々な食材が詰め込まれていて、肌に触れるような生活感が匂い立っている。

「いいんですか」

 ジェイが遠慮するように聞くとナナホシは大きな動作で誇らしげに頷いた。

 それからナナホシが手際よく準備した食材を鍋に投入して、彼も空いている席に着いた。煮沸する熱湯に煽られながら次第に白くなる豚肉と柔くなるトマトを眺めながら、三人は箸を片手に言葉もなくじっとしていたが、ナナホシがアキレに対して不意に口を開いた。それは待ちきれなくなった彼がまだ十分に火の通っていない豚肉に箸を伸ばしたのとほぼ同時だった。

「最近ここに入る度にアキレにがっかりした顔されるの悲しいからやめてほしいんだけど」

「そんな顔してますか、私」

「だんだん露骨になってる気さえする」

 ナナホシの低い声にバツの悪さを感じたアキレは、鍋の中で煽られるプチトマトを取るのに苦心しつつもようやく取れたそれをナナホシの皿に入れながら「すみません」と謝罪した。

「俺温トマト嫌いだからいらない」

 返そうとするナナホシをアキレは「気持ちなんで」と言って制した。トマトの返還を諦めたナナホシは苦虫を噛み潰す表情でプチトマトを飲み下した。

「表情に出してるつもりはなかったんですけど、正直がっかりはしてますよ」

「チラシ貼り出してから大分経つのにね」

 ジェイは極めて神妙な面持ちで呟いた。

「このままだと本当にこの同好会なくなっちゃいますよ」

 ジェイに続くアキレの真面目な言葉にナナホシは肉を噛みながら「ううん」と唸った。

 三人が所属する同好会が有する会員は僅か五人であり、これは同好会が存続するための最低限の人数なのだ。残りの二人の会員は共に四年生であり、二か月後に卒業を控えていた。それまでに最低でも二人の会員を獲得できなければ、会員は一年のアキレと二年のジェイ、三年のナナホシの三人だけとなる。そうなれば同好会は解体となり、この部屋も明け渡さなければならない。このような背景もあり、これまでも度々話には上がってはいたが実行には移されていなかった新入会員の勧誘を始めたのは年が明けてすぐのことだった。それから約二か月経った今まで、新しく入った会員はおろか部屋を訪ねてくる学生すら一人もいなかった。

「最悪な名前だけでも借りられたらいいんだけど」

 ジェイは暗くなる雰囲気を払拭しようと努めて明るい口調で現実的に残された希望を溢した。

「それに関しては先輩たちがウンと言わんしな」

 それに対してナナホシは口内に食べ物を残した状態で返答した。

 新人勧誘のチラシを構内に貼り出してから一か月が経ち、いよいよ危機感が如実に現れた頃から、ジェイは知り合いに名前だけを借りて形骸的な会員の確保による会の存続を提案していたが、二人の四年生はいつも言外に彼の提案を否定するのだった。

「不実な手段でも、ここを失うよりはいいと思ったんですけど」

 ジェイは自分の意見を擁護する言葉を吐いた。

「でも結局は解体の先延ばしでしかないですからね」

「来年再来年もここから卒業生が出ることを考えると会員不足は慢性的な問題だしな」

 食べながら出される声はぼやけていて間が抜けていたが、かえってそれが二人の現実的な物言いの冷静さを顕著なものにしているとジェイには感じられた。

 二人の意見を耳にしたジェイは言い放ってしまいたい本心があったが、それを口にするのは躊躇われるのだった。ジェイには眼前の二人が重視する、自分たちが卒業した後の同好会の存続の重要性が少しも理解できなかった。しかしそれについて二人から特に説明もなかったことから、彼らは有する持論が疑問を持つはずもない当然の考えであるという意識が胸の裡にあるのだと思われた。そう思えばこそ、ジェイは自分の持つごく単純な疑問を口にすることができなかった。言えば軽蔑されるような恥ずかしさを味わうことになると、明確な根拠もなく確信していた。

 ジェイが押し黙る中、ナナホシとアキレは会員を獲得するための有効な手段を論じていた。先ほどまで活発に鍋内の食材を追っていた彼の箸はすっかり動かなくなってしまっていた。

 振られた問いかけに気のない返事をするだけのジェイを、アキレとナナホシが不審に思い始めた頃に再び部屋の扉が開き、例の騒々しい擦過音が部屋中に響き渡った。アキレは半ば反射的に扉の方に視線を送った。彼女が視線に込めた期待はまたしても裏切られ、ナナホシにだんだん露骨になると評された落胆の表情を浮かべた。見かねたナナホシは肘で突くことで彼女の態度を指摘した。

「いいのよ、アキレちゃんのしかめっ面見慣れてるから。ごめんねアキレちゃん、私たちで」

 入ってきたリンゴはナナホシには労いの言葉を、アキレには冗談めかした言葉を向けた。リンゴの隣には、屋外との温度差で曇る眼鏡のレンズを袖先で拭っているパパが立っていた。リンゴは同好会内で『問』という漢字を丸で囲んだマークを使用するのだが、彼女が書く『問』は『口』の部分が極端に上側に寄っていることや門構えを略字で書くことからそのマークがリンゴの形に見えるという理由でリンゴと呼ばれていた。一方パパはほかの四人の呼び名を考えたということで、名付け親の意味を込めてパパと呼ばれることになった。

「お前先輩たちにもあの顔向けてたのか」

「だから無意識なんですってば」

 アキレはナナホシの呆然とした様子を見ないようにして答えた。

「気長に待っていればその内誰かしら来るでしょう」

「そう言ってもう二か月経つんだけどな」

 楽観的な見解を口にするリンゴに向かってパパは現実的な言葉でたしなめた。

「あ、鍋してるんだ。私コチュジャン持ってるから入れてみようか」

「何でそんな調味料持ち歩いてんの」

「どうしてか入っていたの。それよりもあんたも何か入れられるもの持ってないの」

 食材を要求されたパパは鞄の中を探り、三番目に手を差し込んだポケットからタッパーに入った煮卵と韓国海苔を取り出した。それを見たリンゴは「あんただって人のこと言えないじゃない」と挑発するように言った。パパはそれには取り合わず先に席に着いた。不服そうなリンゴも彼の後に続いた。

 新たな食材と調味料を迎えた鍋は先ほどまでよりも一層の豊かさを見せ、それに誘引された、鍋を取り囲む会員たちの熱量は一塩である。調子者のナナホシとリンゴが場を盛り上げ、その波に中てられてだんだんと軽口が増えてくる最年少のアキレ、それを達観した老人のようなゆとりある目で見守るパパ。平生と変わらないやり取りに身を委ねる彼らがいる一方で、ジェイだけが平常からつまはじきにされていた。口数は減り、箸の先端が移動する間隔も長くなっていた。

「つまりさ、鍋みたいなもんなんだ」

 ジェイの隣に座っていたパパは彼の沈痛な様子を見かねてそう声をかけた。ほかの三人はそれまでとはまったく違う話題に真剣な面持ちで臨んでいたために、パパの声には気づかなかった。

ジェイはパパの諭す言葉を耳にして、直前までの自分本位な態度を恥ずかしく思った。

「中の食材がなくなってきたら、また新しい食材をいれなくちゃいけない」

「でも、僕はもうお腹いっぱいなんです」

「ジェイはな。でも空腹なやつってのは案外たくさんいるもんだ」

「鍋が濁ってしまいます」

「じゃあもう食べるのやめるか? もう片付けるか?」

 パパが言外に目の前の風景をもっとよく見ろと言っていることが、ジェイには瞬時に悟ることができた。ジェイの視界に映る会員たちの表情はめいめいだったが、皆一様に屈託のない純情さで充溢してることは容易に見て取れた。

 不意に扉がノックされ、僅かに開かれた隙間から見慣れない女性の顔が覗いていた。女性は「あのう、ここが侃諤同好会ですか」と不安そうに尋ねた。彼女が口にした侃諤

とは侃々諤々のことであり、この場には些か大仰な組織名であった。

「ほら、出迎えて」

 パパに促されたジェイは席を立って女性に近づいていく。彼はまだ次に紡ぐ言葉に乗せる感情の準備ができていなかった。しかしふと視界に入った、女性の手荷物に彼はある光明を見出した。

「それ、ご飯ですか」

「はい、そうですが」

「お代はお渡しするので、よかったらいただけませんか」

 女性は一瞬困惑顔を見せたが奥の鍋を見ると「ええ、どうぞ」と快く言った。パックのご飯が入った袋を受け取ったジェイは会員たちの方にふり返って「シメは雑炊にしましょう」と言った。鍋はまた、新しい食材を迎えた。

 女性を鍋の席に招く時の足取りを、ジェイは少しだけ軽く感じた。



                   了


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