《最終章第6部 ~物語の終わりは老英雄に幕を下ろす~》

 

 冬が過ぎて暖かい春風が吹いたかと思えば、かんかんと太陽が照らす夏が終わり、木々の葉が緑からくすんだ色に変わってひらひらと地面に舞い落ちてふたたび厳しい寒さの冬が訪れる……。

 こうして四季が変わるのももう何度目になるかわからない頃、かつて魔王を討伐した英雄、勇者は女性の声で目を覚ます。


 「おはようございます。朝ですよ」

 「……ああおはよう。メアリさん」


 メアリという名の家政婦に半身を起こしてもらう。そして壁に立てかけた杖を取ると緩慢とした動作で身を起こす。

 杖をついて歩く白髪となった勇者はいまや老齢となっていた。

 寝室を出て居間に入ると朝餉のいい匂いがした。食卓についてぷるぷると震える手でかぼちゃのスープをすする。


 「うん。メアリさんの作るご飯は美味いな」

 「恐れ入ります。あら勇者様、お髭にスープがついてますよ」


 マルチェロ騎士団長の紹介で老勇者のもとへ介護にやってきたメアリがナプキンで髭についたスープを拭く。


 「いつもすまないねぇ」

 「お気になさらずに」


 その時玄関のドアからノックの音がした。


 「おはよーございまーす。検診ですよー」


 扉から元気のいい声で若い女性が入ってくる。鞄から聴診器を取り出して老勇者の胸に当てて心音を確かめると「うん!」とうなずく。


 「今日も異常はありませんね。でも無理はしないでくださいね? ただでさえ心臓が弱っているんですから」

 「うん。いつもありがとうね」

 「お礼なんていいですよー。亡くなったおじいちゃんからあなたのことを頼まれてますから」


 村医者の孫娘はそう言ってにこりと微笑むと「お大事になさってくださいね」と扉を閉める。


 メアリが後片付けをする間、老勇者は杖をついて家から出る。

 指の節々の痛みをこらえ、思うように曲がらない膝をなんとか動かしながらやってきたのは庭の墓だ。むろんシンシアとその母の墓である。

 十字架にかかった枯れ葉を払ってそばの切り株に腰を下ろして、いつものように他愛のない世間話をする。


 「……じゃあまた明日」


 ふたつの十字架に別れを告げると次は村の広場の教会へと向かう。

 礼拝堂に入って長椅子のひとつに腰かけて亡き妻と義母、実の両親やかつてともに戦った仲間たちの冥福を祈る。

 祈りを終えて教会から出るとベンチでひと休みするために歩く。途中で広場の中心にある勇者の銅像を見上げる。銅像は長年風雨にさらされていたためか、あちこちに緑青ろくしょうの錆びと鳥の糞がこびりついていた。

 老勇者はしばし見つめるとやがてふるふると首を振ってベンチに腰かける。

 鳩が集まってきたので家から持ってきたパンをちぎってやる。向こうでは子どもたちがおもちゃの剣を振り回しながら騎士ごっこに興じていた。

 かつては勇者ごっこが流行っていたものだが、魔王を討伐してから平和が訪れて長く時が経ち、勇者一行の武勇伝は人々の頭から忘れ去られていた。

 今では騎士団が子どもたちの憧れの的だ。栄光は移ろいやすいものとは誰の言葉だったろうか? 老英雄はただ表舞台から消えゆくのみだ。

 平和は良い。だが、この老いぼれにとっては空しい日々が続く。

 今ごろみんなはあの世でどうしているのだろうか? 元気でやっているといいが……。

 

 パンくずがなくなったので、老勇者はよっこしょと腰をあげて帰路につく。

  

 夕食を終えて風呂からあがると床に就く。だが、魔王やこれまでに倒してきた魔物に襲われる夢でうなされ、目を覚ますとびっしょりと寝汗をかく。

 時々、自分があの世にいるのか、それともまだ現世にいるのかわからなくなる時がある。こんな思いをするなら死んだ方がましだ。死ねばあの世でシンシアや仲間たちに会えるだろうに。

 

 翌日、いつものように昼食を摂ったあとはロッキングチェアに腰かけて読書をする。この椅子はもともとシンシアへの誕生日祝いとして贈ったものだが、ドワーフの手によって作られた椅子は今でも健在だ。

 本は勇者一行の冒険譚で多少の差異こそあれど、かなり忠実に書かれている。綿密に下調べをしてきたのだろう。読んでいくと昔の記憶が思い起こされ、また冒険に出たいという気持ちにさせてくれる。

 だが、この老いた体ではもう冒険は出来ない。本をぱたりと閉じて膝に置くと昼寝をするために目を閉じた。


 「いつまで寝てんのよ!」


 懐かしい声が聞こえたと思い、はっと目を覚ますが、そばには誰もいない。メアリが台所で洗いものをしているだけだ。

 暖炉の上にある写真立てを手に取る。いつしか豊穣祭で見世物小屋でもらった写真だ。たしか転写機と言ったろうか?

 緊張の面持ちで立つシンシアと半目になった自分が写っている。

 彼女からはよくどやされ、叱られ、殴られたりもしたが、やっぱり今でも好きだ。

 そっと写真立てを元に戻す。そしてふと思い出したようにメアリに声をかける。


 「メアリさん、これから街に行ってくるから今夜の夕食は街で食べるよ」

 「かしこまりました。お気を付けて」



 村から街までは馬車を走らせれば10分ほどで着く。街に着くと御者の手を借りて馬車から降りる。

 街はしばらく見ない間に変わっていた。変わっていないのは中心に位置するこの噴水と冒険斡旋所ギルドくらいだろうか。もっとも受付嬢のエリカさんはすでに結婚して退職してしまったが。

 目まぐるしく変化する街を杖をつきながら歩いて食堂に入ると夕食を摂った。食堂を出たときにはあたりは暗くなっていた。老勇者は街の奥へと向かう。目指すは酒場だ。

 スイングドアを開いて中に入ると、陽気な音楽ががんがん鳴り響く。酔客から喝采を浴びながら踊り子が曲に合わせてくるくると回る。

 かつてこの酒場はリーナさんの店だったが、風の噂によればある日、彼女の思い人が帰ってきてそのままどこかへ旅立ったのだそうだ。

 卓のひとつに座ると女の給仕に酒を注文する。ほどなくして卓に酒が運ばれた。

 白葡萄酒はセシルに、赤葡萄酒はライラの、麦酒エールはタオへ、この店でとびっきり強い火酒はアントンのだ。

 そして自らはグラン地方の名酒、ポトカの入ったグラスを手にする。ぷるぷると震える手で高く掲げる。


 「平和と、最高の仲間パーティに」


 そのままぐいっと呷る。

 毎年かかさずこの酒場に来てはいなくなった仲間たちに乾杯するのだ。

 ふぅっと酒精を吐くと代金を卓に置いて酒場から出る。スイングドアを開けるとひゅうっと寒風が身に堪える。

 ぶるりと身を震わせながら馬車を探そうとした時、胸にずきんとした痛みが走った。たまらず杖が手からぽろりと落ち、その場にうずくまる。

 きりきりと締めつけられるような痛みに汗が噴き出す。息をする度に気が遠くなりそうだ。とうとう痛みに耐えられずに倒れる。



 

 目を開くと見覚えのある天井が見えた。それでここは自宅の寝室だとわかった。


 「大丈夫ですか? 勇者様」


 傍らのメアリが心配そうに声をかける。


 「酒場の前で倒れて、ここに運ばれたんですよ。すぐに先生を呼んできますね」


 メアリがそう言うとすぐに寝室から出、ぱたりと扉が閉じられる。

 ひとりきりになった老勇者は息をつく。するとまたずきんと激しい痛みに襲われた。心臓の鼓動がだんだんと弱くなっていくのが感じられる。

 ついに待ち望んだ時だ。両手を胸の上で組む。

 かつて魔王討伐の冒険に出たときは道ばたで野垂れ死ぬ覚悟もしていたが。自宅で、おまけにベッドの上で死ねるなんて果報者だと老勇者は思う。

 鼓動がだんだんと頼りなくなる。呼吸も浅くなってきた。

 

 「勇者様」


 声が聞こえた。懐かしいその声は聞き間違いようがない。

 声のほうを見るとセシルが立っていた。冒険時の出で立ちでにこりと微笑む。その隣にはライラが、タオが、アントンもいた。

 懐かしい顔に出会えた嬉しさからか、老勇者の閉じた瞼から一条の涙がこぼれる。

 そして、す……と息をつくとそれきりになった。魔王討伐の英雄、勇者の孤独な最後であった。




 「…………ここ、は?」


 どこまでも突き抜けるような青空の下、目の前には草原が遥かかなたまで広がっていた。

 もし、天国というものが本当にあればそれはきっとこんなところを言うのだろう。

 てくてくと歩いていく。ふと自分の体を見ると若返っていることに気づく。冒険から帰ってきたときそのままだ。

 

 「おかえりなさい」


 顔をあげるとそこにはいつからいたのか、シンシアが立っていた。


 「ずっと待ってたよ。待ちくたびれちゃった」とにこりと微笑みかける。


 「うん、ごめん……でもこれからはずっと一緒だ……」


 幼なじみであり、妻であるシンシアを抱きしめる。シンシアも夫を抱きしめ返す。冒険から帰ってきたときのように。

 ひゅうっと風が吹いてふたりのまわりを包むように花々が舞いあがった。



 村医者の孫娘が駆けつけたとき、ベッドの上の老勇者は安らかな顔であった。


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