《外伝 TAO》後編
白帯拳士がゼン老師の寺に来てからはや半年が過ぎた。
朝は本堂の雑巾がけ、昼前までに丸太切り、水汲みまでのあいだに白帯拳士、いや茶帯を授かった少年拳士は型の鍛錬に励む。
隣に立つ老師と同じように動き、止まり、流れるような動きで武術の基本的な動きを体に覚え込ませるのだ。
「――風吹く柳のように押さば引かれ、引かば押され」
老師が詩を詠むように型の動きを指南する。
ぐいっと相手の襟を掴む動作で押して引く動きを老師と同じように動く。
「川に流れる清らかな水の如く、すべては滑らかに」
腰を落としてゆるりと回転する。
「大地に根を張るが如き、その足を踏みしめ」
茶帯拳士がどっしりと重点を落として拳を左右交互に繰り出す。その動きは鋭く、動きの乱れが微塵もなかった。
「今日はこれまで。成長したようじゃの」
ゼン老師がほっほっほと笑う。本堂の縁側に腰かけてふたりで茶を啜る。
「老師、ひとつ聞いても?」
「ん? なんじゃ?」
「老師のお子さん、ロウってどんな拳士だったんだ?」
息子の名を聞いた途端、ゼン老師は顔をしかめる。
「あのバカ息子はわしの武術を時代遅れだとほざきおっての。喧嘩した挙げ句、家を飛び出したんじゃ。あやつには才能があったというのに……」
老師がふぅっとため息をついて茶を啜る。
「じゃが、今はお前がわしの息子みたいなもんじゃな」とほっほっほと笑う。
茶帯拳士は照れくさそうに鼻をこする。
「んじゃそろそろ水汲み行ってくる!」
甕を取りに行こうとする少年を老師が呼び止める。
「その前に街に行って酒を買ってきてくれんかの? 高いやつな」
老師から酒代を受け取った茶帯拳士は街へ向かわんと寺を出て山を下りる。
麓まで来ると長髪の若い男が山のほうへ歩くのが見えた。
通り過ぎようするところへ若い男が呼び止める。
「きみ、道着を着てるってことは拳士かい?」
呼び止められた茶帯拳士は男のほうを向く。
「おう! 茶帯だぜ!」
少年拳士が誇らしげに帯を見せる。
「へぇ、ちなみにどこの道場?」
「ゼン老師様だよ!」
「そのゼン老師様はいま道場にいるのかい?」
「まだ道場にいるよ! おれ買い物に行かなきゃいけないからさ」
じゃあなと別れを告げると街へ向かう。
活気ある街に着くと、酒屋に入って老師から頼まれた酒の入った甕を購入して両手で抱え、寺へと踵を返す。
一方、寺ではゼン老師が茶帯拳士を呼び止めた若い男と対峙していた。
「今さら何をのこのこと戻ってきたのだ?」
「やだな、久しぶりに顔を見ようと思ったのに。ご挨拶ですね」
若い男はふふふと笑う。
「わしはもうお前を息子とは思わん。すぐに出て行け」
息子、ロウはこきりと首を鳴らすと構えを取る。だが、その構えはゼン老師の武術の構えではない。
「寺を出てこの五年、以前とは比べものにならない程腕をあげましたよ。ひとつ、立ち会ってみませんか?」
ゼン老師はロウの構えを見る。
見たことの無い構えだ……少なくともわしの武術ではない。
「よかろう。できの悪い息子を躾けるのも親の務め。わしの武術が時代遅れではないことを思い知らせてやる」
ゆるりと合気の構えを取る。構えたゼン老師からは好々爺の雰囲気は消え失せていた。そして対峙したままお互い微塵も動かない。
勝負は機先を制したほうが有利。互いに呼吸を読み取り、攻撃の隙を窺う。
つぅ……とロウがわずかに間合いを詰める。
站ッ
足先のみの驚異的な跳躍で一気に間合いを詰めたロウの正拳突き、いや
ぱしり
ゼン老師の回し受けがふわりと受け止め、すかさず正拳突きを叩き込もうとする。が、ロウの交差した両腕によって封じられる。
「ぬぅ、貴様。どこでその武術を学んだ?」
「だから言ったでしょう。あなたの武術はすでに時代遅れなのだと」
ロウの右脚が足払いを仕掛ける。
「なんの!」
ゼン老師の左脚がくるりと向きを変えて
硬い骨で防がれ、仕掛けた足に痛みが走る。
「ぐぅ……っ!」
「脛受け! こんな基本的な技も忘れたのか!?」
痛みに顔をしかめるロウの襟を掴むと腰を回転させて投げる。
「が……ッ!」
背負い投げで地面に叩きつけられ、ロウが呻く。
「受け身も満足に取れんとはな」
「ぬぅう……!」
ロウが痛みを堪えつつ立ち上がる。
「やはり、
ロウがそう呟くやいなや、丹田に力を込め、口から息をすべて吐き出すかのように呼吸する。
『
この時、ゼン老師は知る由もなかったが、それは呪詛であった。
するとロウの肉体が変貌を遂げ始める。
「貴様! その姿は……!」
その頃、茶帯拳士はと言うと寺まであと少しというところまで来ていた。
はじめて山に入った時はかなり苦労して登ったものだが、今では甕を抱えながら楽に登れるまでになった。
やっと寺の境内の手前に辿り着く。だが、そこで茶帯拳士が見た目の前の光景は……
ゼン老師が、人ならざる者の腕によって胸を貫かれていた。
全身を毛で覆われ、強靱な肉体に突き出た顎から牙をのぞかせるそれはまさに狼であった。
狼は天に向かって吼えると血振りをくれるかのごとく、鋭い爪による貫手を喰らったゼン老師をぶんと放り投げる。
「素晴らしい! やはり素晴らしいぞ! この
がしゃんと割れる音がしたので狼が振り向く。
茶帯拳士が呆然と立ち尽くしている。足下には甕が割れ、酒が零れていた。
「誰かと思えば麓で会った少年拳士じゃないか。おまえの師匠は弱かったぞ」
「ろ、老師……」
少年拳士は
だが、狼の平手によって弾き飛ばされてしまう。一割の力も出していないだろう。
「貴様のような茶帯拳士が俺の体に触れるなど百年早い! 妖魔から授かりしこの魔力と、俺の編み出した武術、魔拳は誰にも破られん! これからは妖魔と魔力の時代だッ!」
遠吠えのような声を上げると、恐るべき跳躍で森の奥へと姿を消す。
後に残された茶帯拳士は何とか立ち上がるとゼン老師の元へと向かう。
「老師、老師!」
何度か呼びかけてゼン老師が微かに目を開ける。
「坊主か……? 目が見えんのでな……」
「すぐに医者を!」
医者を呼びに行こうとする少年をゼン老師が手を掴んで止める。
「無駄じゃ。もう助からん……それよりわしを立たせてくれ……」
茶帯拳士の介助でゼン老師が呻きながらもやっと立ち上がる。
「……っう! あのバカ息子め、ついに魔道に墜ちよったか……」
げほっと咳をすると地面に血が飛び散る。
「老師! 動いては……」
だが、老師はゆるゆると首を振る。
「もう時間がない。今からお前に、わしが生涯をかけて編み出した奥義を授ける……一回しか出来んから、よく見ておきなさい……」
老師は息も絶え絶えに、構えを取ろうとする。
「小指から関節を順に曲げ、人差し指へと順に曲げたら、今度は逆に人差し指から小指へと順に握る」
武道で最初に習う、正拳突きの握り方だ。
みしりと音を立てて、正拳の構えを取る。
「足を前に出し、もう片方は後ろへ、腰の重心を落として、どっしりと構える」
茶帯拳士は涙を流しながらも、師の一挙手一投足を見逃すまいとしっかりと見据える。
涙で視界が霞むとすぐにごしごしと拭う。
「奥義は基本のなかにあるのじゃ」
すぅーっと呼吸を整える。と、何かを思い出したようにぺしっと頭を叩く。
「おーそうそう、忘れるところじゃった。誕生日、おめでとう……あの酒を坊主と飲みたかったよ……」
にこりとゼン老師が微笑む。それは親が、子に向ける笑顔であった。
「さらばだ! わが息子よ!」
ゼン老師の突き出した左腕と入れ替わるように右腕が捻り、神速の如き速さで正拳突きが繰り出される。
拳から音が遅れて発せられる。ざわっと周りの木々が揺れる。
生涯最高の正拳突きを放ったゼン老師はその場を動かなかった。ぴくりともせずに。その顔は晴れやかな顔であった。
茶帯拳士は涙を零しながら、敬意を表す挨拶の洪手で礼を尽くす。
「押忍ッ! ありがとうございましたッ!」
ゼン老師の葬式は数日後に行われ、茶帯拳士がもといた寺にて厳かに行われた。
カク師範が線香を持って経を読み上げる。その後ろでは門弟達が合掌しながら涙を流していた。
荼毘に付されると墓に葬られ、師範や門弟達の読み上げる経によって天界へと送る儀式を終える。
そのなかで茶帯拳士は並々ならぬ決意を目に宿していた。
「どうあっても行くのだな?」
「押忍! ゼン老師の
カク師範の問いに茶帯拳士が決意を露わにする。
「そうか、わしから言うことは何もない。気を付けて行かれよ」
「師範、今まで御世話になりました!」
茶帯拳士が洪手で礼を尽くす。そしてくるりと踵を返そうとするところへ師範が「待て」と引き留める。
「これを受け取れ」
カク師範から渡されたそれは黒い帯、茶帯の上の位、黒帯だ。
「お前はたった今から黒帯だ。よって免許皆伝とする」
茶帯を解き、黒帯をぎゅっと締めた黒帯拳士は再び洪手する。
寺の門をくぐると後ろから兄弟子たちが、長く辛い旅に出ようとする少年拳士に掛け声を送る。
「頑張れよー!」
「辛くなったら、いつでも戻ってこい! 稽古つけてやる!」
少年、黒帯拳士は涙を堪えながら旅立つ。
数年後、各地を放浪しながら、武闘家、山賊、時には魔物とも戦い、日々鍛錬に次ぐ鍛錬でめきめきと腕を上げていった黒帯拳士は訪れた街の冒険斡旋所へと入る。なんでも「ぎるど」というらしい。
ずかずかと入って、受付ではなく真っ先に依頼書が貼られた掲示板を見る。
すると探し求めていたものがようやく見つかった。黒帯拳士はすぐさまその依頼書を剥がす。
「ちょっとあなた! まだ登録されていない方でしょう? 勝手に依頼書を剥がしては……!」
嗜める受付嬢をじろりと睨む。ひっ、と怯える受付嬢をよそにギルドを出る。
満月が照らす闇夜のなか、一匹の狼、いや
と、ひくりと鼻が匂いを捉える。
「やっと見つけたぞ……ロウ!」
人狼がぐるるると牙から涎れを垂らしながら唸る。
「この依頼書に、あんたがこのあたりを荒らし回ってると書いてあってな。来てみたら案の定だったというわけだ」
ロウはまた鼻をひくひく言わせる。
「コノニオイ……アノ、コゾウカ……!」
「身も心も魔物に成り果てたか。憐れだな」
黒帯拳士が構えを取る。
人狼、もはや人ではなくなったロウは甲高い雄叫びをあげる。
「GRRWWWWW!!」
その恐るべき膂力で黒帯拳士を食らいつくさんと襲いかかる。
だが、黒帯拳士は対照的に冷静だ。すぅーっと呼吸を整え、正拳突きの構えを取る。
ワーウルフの牙が頭蓋を噛み砕さんと大口を開けた時、黒帯拳士は突き出した左腕と入れ替えるように右腕を空気を切り裂くようにロウの鳩尾にめり込ませる。
ゼン老師、あなたに捧げます。
一瞬、何も起きなかったかのようだが、突然ロウの背中から衝撃が外へ、遅れてきた音とともに破裂する。
それがゼン老師が死の間際に伝えた奥義であった。
神速で繰り出された正拳に気を込め、対象に当たる瞬間に気を放つ技である。ゆえに放たれた気は対象の肉体の内臓を破壊する。
内臓を破壊されたロウは血を吐きつつ地面にどぅっと
黒帯拳士は洪手で亡き老師に黙祷を捧げた。
敵を取った黒帯拳士はあてのない旅を続けていた。寺に戻ろうかと思ったが、世界にはまだまだ自分の知らない武術や体術がある。それを知ってからはより自分を磨き上げたいと思うようになった。
だからだろうか。この国で開催された異種格闘試合にふらりと引き寄せられるように参加したのは。
異種格闘というだけあって、世界各地から様々な格闘家、拳法家、果ては剣士まで混じっていた。
当然のことながら、黒帯拳士は破竹の勢いで決勝戦まで駒を進めた。
対戦相手が決まるまでまだ時間はある。黒帯拳士がちらりと、この大会の景品、岩壁にはめ込まれた聖なる盾とやらを眺める。
なんでもこの盾は世界を支配している魔王を倒すために必要な聖なる武具のひとつだそうな。
だが、景品とは言っても今までこの盾を引き剥がせたものはいない。言い伝えによれば選ばれし者にしか手にすることが出来ないそうだ。
この大会はその選ばれし者をふるいにかけるためのものでもあるのだが。
いずれにしても黒帯拳士は盾には興味がなかった。
それよりも決勝戦の相手だ。まだ来ないのかと試合場を見る。と、司会者がお待たせしました! と試合の進行を進める。
「これより、決勝戦を始めます! 両者試合場に!」
観客の歓声のなか、両者が試合場に立つ。ひとりは黒帯拳士、もうひとりは剣士なのか剣を構えている。と言っても木剣だが。
「いてこましたれー!」ととんがり帽子の女。「がんばってください!」と隣の神官らしき少女も声援を送る。
対戦相手の取り巻きだろうか? いずれにしてもこの試合も瞬殺だろう。そう黒帯拳士は高をくくっていた。
「なあ、あんた。よくそんな細い体でここまで来れたな。どこかの国の騎士か剣士か?」
「俺は勇者だ!」
勇者と名乗った男に観客がどよめく。
黒帯拳士は話にならないというふうに首を振る。
「はははは! こいつはいいや! その化けの皮を剥いでやるよ!」
黒帯拳士が拳をみしりと握り、構えを取る。
「俺はタオ! この世で強い武闘家を目指す者だ! いざ尋常に勝負!」
武闘家タオ。試合に敗れ、後に勇者の仲間になるとはこの時、知る由もなかった。
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