《外伝 TAO》中編


 険しい山の中をふぅふぅと荷物を背負いながら白帯拳士が歩く。


 「もうへばったかの?」


 白帯拳士の先を歩くゼン老師が呼びかける。


 「ま、まだまだ……!」


 白帯拳士の強がりにゼン老師がほっほっほと笑う。ゼン老師に呼吸の乱れは微塵もない。

 数日前、ゼン老師に見初められた白帯拳士は寺を出て、今ゼン老師の住む道場へと向かっている。

 舗装されていないでこぼこした山道をどのくらい歩いたろうか、ゼン老師が「着いたぞい」と歩を止める。

 白帯拳士がゼン老師のそばまで来ると目の前には道場、そう呼ぶのに差し支えがなければだが、年季の入ったこじんまりとした寺がぽつんと建っている。


 「ここがわしの道場じゃ」

 「なんか……俺がいた寺と違ってボロいや」


 少年の失礼な感想に老師はほっほっほと笑う。


 「立派な道場で鍛錬すれば強くなれるとは限らんでな。まず手始めに……」

 「正拳突きか!? 回し蹴りの練習か!? いきなり奥義の会得でもいいぜ!」


 白帯拳士がわくわくさせながら老師に問う。


 「掃除じゃ」


 白帯拳士ががっくりとうな垂れる。



 バケツを持って本堂に入ると濡らした雑巾をぎゅっと絞って床に置く。

 そしてすぅっと息を吸って一直線にたたたと雑巾がけする。


 「これこれ、やり方が違う」と白帯拳士を止める。

 「え? でも寺ではいつもこうやって……」

 「ここではこうやって拭くのじゃ」


 そう言うなり老師は雑巾を手に取って円を描くように拭く。


 「隅から隅までちゃんと拭くんじゃぞ。左右交互にな。ここで見張っとるからサボるでないぞ」


 言われた通り、床を隅から隅まで拭き終え、老師のところへ駆けよる。


 「終わったぜ! 次は稽古か!?」と白帯拳士が額の汗を腕で拭う。


 「次はこれじゃ」


 ゼン老師が境内に置かれた、一本の棒で繋がれたふたつのかめを指さす。その傍には大きめの釜が置かれている


 「ここからちょっと下ったところに川があるからそこで水を汲んで、この甕をいっぱいになるまで満たすのじゃ」


 白帯拳士が絶望感を露わにする。が、それでも言われた通りに甕を川の水で満たすとそれを釜のところまで運んで水を甕にぶちまける。

 水の入った甕は重く、バランスを取るだけでも一苦労だ。水の量を減らせば楽なのだが、それでは終わるまでに時間がかかるし、なにより老師から日没まで終わらなければ飯抜きだと言い付けられている。

 時には転んで水を零し、ひと休みしながら運び、鴉がかぁかぁと鳴く頃には釜は水で満たされた。

 ぜぇぜぇと肩で息をする白帯拳士を労うとゼン老師は釜の下に薪をくべ、火を付ける。


 「ご苦労じゃったの。さてひと風呂浴びるかの」

 「おっさん! 稽古つけてくれよ!」


 白帯拳士が不満を露わにする。


 「今日はもう遅い。また明日があるでな」

 「ちぇっ!」


 ふて腐れる白帯拳士をよそにゼン老師はちょうど良い湯加減となった釜のなかへと入る。


 「ふぅ~っ。疲れが取れるのぅ」


 自分は何もしてないじゃないかと言わんばかりの顔で白帯拳士が睨む。


 「まあまあ、そう睨むでない。次は坊主が入るとええ」


 十分ほど経つと老師が湯から上がったので入れ違いに白帯拳士がすぐさま湯に浸かる。


 「良い湯加減だな」

 「そうそう言い忘れるところじゃった。今日やったことをこれから毎日やるのじゃぞ」

 「それって、雑巾がけと水運び……?」

 「うむ」

 「毎日?」

 「うむ。明日また別の仕事も頼むから、ゆっくり休むんじゃぞ」

 「冗談じゃねぇ……」


 ぶくぶくと白帯拳士が湯の中に沈む。


 翌朝、朝の日課の雑巾がけが終わるとゼン老師から呼び出されたので、境内に出る。


 「水汲みか?」

 「その前にこれを切るのじゃ。等間隔でな」


 ノコギリを手渡され、老師が指さすほうをみるといつの間に用意されていたのか丸太が横倒しになっている。

 白帯拳士はしぶしぶとノコギリで丸太を切りにかかる。

 太いだけあって切り落とすにはなかなか骨が折れる。


 「ゆっくり前後に動かすのじゃぞ。わしは茶でも飲むかの」


 ぶつぶつと愚痴をこぼしながらもノコギリを前後に動かす。ごとりと切り落とすと、老師が「根元までじゃぞ」と声がかかる。


 「ちぇっ! 自分だけ楽しやがって!」


 やっと根元まで切り落とすと、老師から昼飯じゃと握り飯を渡されたのですぐかぶりつく。

 腹ごしらえのあとは水汲みだ。疲れてはいたが、それでも昨日と比べるとほんの少しだが軽くなったような気がする。

 およそ修行とは言えない日が三日続いたので、白帯拳士は遂に不満をぶちまける。


 「なぁ! いつになったら稽古つけてくれんだよ!?」

 「まだまだじゃ。どんなことでも基本は大事でな」


 そうとぼける老師に白帯拳士は業を煮やし、そっぽを向く。


 「帰る!」


 本堂から出ようとする白帯拳士に老師が待ちなさいと止める。

 白帯拳士が振り向くと老師がすっくと立ち、少年のもとへと歩み寄る。


 「街に行ってみんか?」



 山を降りて麓から少し歩くと活気溢れる街はある。老師と少年は食堂に入り、老師が酒とつまみを注文し、白帯拳士には茶が出された。

 酒が来ると老師が杯になみなみと注いでぐいっと呷る。


 「ぷはぁっ! 久しぶりの酒は美味いの!」

 「あのさぁ。俺、稽古つけてもらいに来てるんだよな? なんでこんなところに……」


 不平不満を零す白帯拳士に老師がほっほっほと笑う。

 と、入口からいかにも素行の悪そうな三人組の男が入ってくると空いた卓にどかりと座る。


 「おい! 酒だ! それと食いもんな!」

 「は、はい。ただちに……」


 酒と料理が運ばれ、男たちは酒盛りのように騒ぐ。周りのことなどお構いなしだ。

 下卑た笑い声が響き、皿と酒が空になると卓から立ち上がって入口から出ようとする。


 「あ、あの、お勘定がまだでございますが」

 「あ?」

 「勘定? こんなしみったれた食堂に金払えと?」

 「あいにく金はないんでね」


 三人組の不良が下卑た笑い声を上げながら出ようとするところへ老師が引き留める。


 「待ちなさい。飲食代を払いなさい」

 「あ? なんだてめぇは」

 「じーさんの言うことなんかほっとけ」

 「それともあんたが払ってくれるのか?」


 老師はふぅっとため息をつくと、やれやれと首を振る。


 「表に出なさい」


 三人組の不良はぎゃははと笑う。


 「おもしれぇ。ケンカ売ったこと後悔させてやる」


 店から出ると、三人組の不良と老師が路上で相対したので通行人が何事だと詰め寄る。


 「もう一度言う。代金を払いなさい」

 「へっ、知ったことか!」


 三人組のひとりが前に進み出る。

 老師が白帯拳士のほうを向く。


 「坊主、よく見ておきなさい」

 「てめぇこそどこ見てんだ!」


 老師の顔目がけて拳が突き出される。

 だが、老師が両腕を回して円を描くようにするとぱしりと音を立てて攻撃を防ぐ。


 「回し受け」


 老師がそう呟く。

 白帯拳士はその動きに見覚えがあった。すぐに本堂の雑巾がけの動きだと思い当たる。

 攻撃を防いだ老師はすかさず男の懐に入り込むと襟を掴んで投げ飛ばす。綺麗にふわりと浮かんだかと思うと次の瞬間には地面に叩きつけられていた。

 周りからどっと喚声があがる。


 「てめぇ!」


 二人目が襲いかかるところへ老師が腰を落としたかと思えばそのまま相手の勢いを利用して投げ飛ばす。


 「これが肩車かたぐるまじゃ」 


 白帯拳士は老師の強靱な腰とぶれない体幹をその技に見た。そして水汲みはこの鍛錬のためであったと気づく。

 最後の男がぎらぎらと鈍い光を放つ刃物を取り出す。


 「よしなさい。武器を持っても無意味じゃ」

 「うるせぇ!」


 刃物を老師の体に突き刺さんとばかりに突進する。

 老師は無駄のない体捌きで躱し、ついで刃物を持った手首を掴んで捻る。


 「あぐっ」


 ぽろりと刃物が落ちる。老師はすでに懐に入り、腕をひねりあげると男の体がぽんっと一回転して地面に叩きつけられる。

 周りからまた喚声があがる。店の娘が出て来ると老師に礼を言う。


 「ありがとうございます! 本当に困っていたんです。老師様にお願いしてよかったです!」


 礼を言われた老師はなんのなんのと手を振る。そして白帯拳士のほうを見る。


 「これが四方投しほうなげじゃ。わしの武術、合気あいきの基本的な技じゃ」


 白帯拳士ははっきりとわかった。今の技には引きの力と押しの力が必要なこと、そしてノコギリはこの動きのためにあったと。

 白帯拳士は拳を片手の掌で包むように礼をする。


 「老師、今までの非礼お許しください」


  白帯拳士ははじめてこの時、老師に礼を尽くした。

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