高速バスの休憩タイム

暗香炉

サービスエリアにて

 “柳井です。今急いでそちらに向かっています! あと15分くらいで着きます。心配せずに待っててください。遅れてごめんね。今度昼飯でもおごるから”


 まるでデートの待ち合わせに遅れた恋人からのようなメッセージが社用ケータイに届いた。


「まじかよ」


 午前2時40分。バスはSA(サービスエリア)で待機している。予定ではSAに到着次第、先に来て待っている柳井さんと運転乗務を交代するはずだった。予定時刻からもう10分以上遅れている。

 柳井さんが遅刻常習犯なのは職場で有名な話だったが、柳井さんと初めて交代勤務する僕は初回でいきなりやられてしまった。


 目の前のモニターに目をやる。各座席に設けられたフード状のプライベートカーテンが整然と並ぶ車内が映し出されている。読書灯を点けている乗客はいなかった。皆眠っているようだ。


「あと15分なら大丈夫かな。まぁ、多分誰も起きないだろう」


 午後11時5分に大阪を発車し、翌朝6時20分に愛媛・松山に到着する高速夜行バス。道中のちょうど中間点にあたるこのSAで休憩と運転手交代のために停車する。ここでの停車は15分間の予定だった。

 休憩と言っても深夜の3時頃に車外へ出る乗客はまずいない。皆眠っているからだ。万が一トイレに行きたくなっても車内にある。このSAでの停車は休憩よりも運転手の交代が目的だ。


 モニターから目を外し、ふと右横の窓から外の景色に目をやった。駐車場を歩く一人の小さな人影に気づいた。


「こんな時間に子供? トイレ?・・・いや、迷子っぽいな」


 駐車場のナトリウム灯に照らされたその小さな人影は周囲をきょろきょろ見渡しながら、歩いたり小走りしたりを繰り返し、右へ左へとふらふらと、あたかも何かを探し回っているかのように動いている。このバスが停車しているSA出口付近とは反対の入り口付近に人影はいる。このバスからの距離は150メートル程度。服装や顔はわからないが、背格好からおそらく幼稚園か小学校低学年くらいの子供だと思った。ふらふらと少しずつこちらに近づいてきている。


 広いSAでは迷子はよくある。

 トイレへ行った後に戻ろうとするが、乗ってきた車の位置をよく覚えていなかったり、似たような車が多くて見つけ出せなかったり。そうすると子供はすぐに焦りだし、走って車を探しだす。とても危険だ。車の陰から飛び出して事故になってしまうことがある。特に死角の多いバスやトレーラーなどの大型車は要注意だ。SAの駐車場内の運転にはいつも細心の注意を払っている。


 あの子の車はどの辺りなのかなぁと、駐車場を見渡した時に僕は目を疑った。自分が乗ってきた車がわからなくなるほど多くの車は停まっていなかったのだ。SA入り口寄りにある小型車用駐車スペースに普通車が5台、出口寄りにある大型車用駐車スペースにはトレーラーが2台とこのバス1台のみ。これなら幼稚園児でもさすがに自分が乗ってきた車をすぐに見つけられるはずなのだが? あの子の親はどうした? 車で眠っていて気づいていないのか? あの子に気づいているのは僕だけ?


「えぇーん、パパー、ママー、車どこぉー!?」

 子供はバスまで5、60メートルのところまで近づいていた。泣きながら、叫びながら歩いている。バスの閉め切られた窓ガラス越しでもその声がかすかに聞き取れた。そしてようやく服装や顔立ちも見えてきた。男の子だった。


「やばいな」

 僕がそう思ったのはその子を心配してのことではない。子供の声でバスの乗客が起きてしまわないかと焦ったからだ。安眠を妨げられて不機嫌になった客ほどたちの悪いものはない。「早くバスを出せ!」と詰め寄ってくる客もいるだろう。まずいことに天井から吊るされたアナウンス用モニターはこのバスの発車予定時刻を自動的に表示してしまっている。予定時刻をとうに過ぎているのにまだ発車していないとわかると更に怒りが増幅されるだろう。

 とりあえず車外に出て子供をなだめようと思い、僕はシートベルトを外して立ち上がろうとした。その時、あらぬ方向から声がした。


 「あのぅ、私が見てきましょうか? 運転手さんはバスにいないとまずいでしょう?」


 乗客は誰も起きていないと思っていた。突然背後から女性の声がしてビクッとなった。他の乗客を起こさないよう配慮したのであろうヒソヒソ声が、驚きだけでなく恐怖心をも掻き立てたようだ。僕は全身に鳥肌が立っていた。

 振り向いた先には、少し髪が乱れて化粧っ気の薄い、いかにも寝起きですという様相の3、40代とおぼしき女性がこちらの顔を覗き込むよう少し腰を曲げて立っていた。女性からの突然の申し出に僕は一瞬戸惑ってしまった。これは乗客に頼んでよいことだろうか? 今のところ事態に気づいて目を覚ましたのはこの女性だけのようだが、万が一他の乗客までぞろぞろと起きだしてしまったら、女性が言った通り、運転手がバスにいないと厄介なことになるかもしれない。


「た、助かります。お願いできますか?」

 女性は薄く笑みを浮かべながら軽く頭を縦に振り、無言でバスを降りた。


 女性は静かにゆっくりと子供に近づいている。子供を驚かせないように、警戒させないようするためなのだろうか。子供は右腕でゴシゴシと涙を拭いながらうつむき加減で歩いている。女性が近づいているのにまだ気づいていない。

 やっぱりこういう時は男よりも女性が対応した方が子供も安心するのだろうな、あの女性客が事態に気づいて申し出てくれてよかった、などと思いながら二人を見守っていた。

 女性と子供の距離が10メートルくらいまで近づいた時だった。


「ダメだーっ!! 女を行かせてはいけない! あれは霊だ! 連れてかれるぞ! 呼び止めるんだー!」


 今度は突然車内の最後方から大声を上げながらドタバタとこちらに向かって走ってくる丸坊主の大柄な男性がいた。その気迫に気圧けおされ、僕も咄嗟とっさにバスの窓を開けて女性と子供がいる方に向かって叫んだ。


「止まってーっ! そいつは霊だってー! ヤバいって!」


 丸坊主の大柄な男性は先程の勢いのままバタバタとバスを降りて二人の方に向かって走った。その右手には長い数珠が握りしめられている。


 僕の声を聞いて女性も子供も一瞬ビクッとなりその場に立ち止まった。

 女性はパッと振り向き、驚いた顔でこちらを見た。

 子供は涙を拭っていた腕をゆっくりと下ろしながら顔を上げ、真っ赤な目を丸く見開いてこちらを見た。

 そして、それから表情を激変させた霊の顔を見た僕は、瞬時に氷漬けにされてしまったように体が硬直して動かなくなった。

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