万病のもと
水乃 素直
第1話 発病
「うぇっ」
喉の奥をついたわけでもないのに、吐き気がした。
私は口の中から歯ブラシと白い泡を吐き出した。歯磨き粉と唾液が混じった液体が洗面台にながれた。
洗面台にお辞儀をしていた私は、歯磨きを中断し口をゆすいだ。
胃からむかむかとせり上がってくる気持ち悪さに、一人で苦笑いをした。
「毎朝そうだ。歯磨きなんてくそだな」
台所に戻り、棚から透明のコップを取り出し、水道水を注いだ。
「あっ」
声を上げた。先ほど食事を済ませた机に、今日分の薬と麦茶が入った湯呑が置いてあった。
舌打ちが漏れた。別に誰かに聞かれるものではないのだが。
コップの水と湯呑の麦茶をまとめて飲んだので、いつもよりトイレが近くなってしまった。
トイレから出ると、廊下に来客がいた。彼は声を上げた。
「やぁ、おはよう。君か」
「それは私の台詞だ。どいてくれないか」
私は、ドア前に寝転がるぶち猫を足でどかした。
「猫がしゃべるなどおかしい」
「ふふ。君は今見ていないものがうそだと思うのかい?」
「まさか」
私はドアを閉めた。閉まる直前に猫はするりと、部屋に入ってきた。
「君はこういったことを偉そうに若者の前で語るではないか」
私は彼を見つめた。
「おまえ、私の講義にも出てきたのか」
「ふふ、私は君のことがすきだからね」
ぶち猫は上目遣いで見つめていた。当たり前だ、私は上から見つめている高低差だからだ。私は台所の上の棚の扉を開けた。
「くだらんことをいうな、しゃべる猫と変人教師は、ねたにしかならんだろう」
「私のような懸命な猫が、人前で意味もなくしゃべると思うか」
「思わん」
私は棚の扉を閉めながら答えた。声と開閉音が重なった。
「そうだろう」彼は笑みを浮かべた。猫のくせに、私には感情が読み取れた。
「でも、そういう話ではない」
「独り言を永遠としているなんて、お隣さんに恐怖しか与えないではないか」
「君はひとりが怖いか」
「話が違うだろう、ほら、食え」
「にゃあ」
猫は目の前の皿に盛りつけられた餌を食べ始めた。むろん、それは私が用意した。彼が餌を食べている時だけ、私は彼のふさふさで柔らかい毛を撫でることができる。
歯磨きがめんどくさい、という話をすると猫は、
「平日は病院に行くとよい」
と言った。
「ほー」私は褒めた。「猫に平日という感覚が分かるのか」
「言葉を持つ以上、時間の概念は理解されるのさ」
「そうか」
「にゃあ、定休日かどうか調べる必要があるが」
「なぜ急に、今行かなくてもよいんじゃないか……」
「そうやって、小さなことを軽視した結果、長くめんどくさいことになる」
「そうなのか」
「君は、毎日胃に不調を感じるなら、一回診てもらった方がいい。健康だと思うなら、健康だと言われてきなさい」
「君は私の母親みたいことを言うんだな」
猫はそっぽを向いた。しっぽがゆっくりと揺れていた。
「病院に行きますので、今日は休講です」
生徒から閲覧できるサイトにそう書いておくか。いや、いまから病院に行けば間に合いそうなので辞めた。
「あー、これは、『恋』ですねぇ」
医者はこちらの話をきいてすぐに診断を下した。
「えっ、恋……ですか……」
医者があまりにもあっけなく言うので、椅子から腰が浮いた。
「はい、お薬出しておきますね。2週間分。朝昼晩の三回ね」
「え、あの」
「ん?」
先生の目がこちらにむいた。
「あ、あの、今薬飲んでるんですけど」
「あ、そうですか。その薬は?」
「鼻水とせき止めと、あとタンがキレやすくなるやつだったかな……」
「ふうん。そうですね。一旦その薬はやめてもらって、こっちを飲んでみてください」
「は、はぁ。すみません」
聞きたいことはこんなことじゃなかったが、つい口に出てきてしまった。私が最後に先生に確認した。
「え、えと、恋ですか、具体的には?」
「うーん、そうだね、動悸、息切れ、胃や食道当たりの、調子が悪く感じるんですよね。これは恋なのかな、と思いますけどね」
「い、いや」
私はいつもより大きい声になった。
「そ、それはどうすればいいんですか?」
医者の目が鋭く光った。カルテに何かを書き足し、先生は毅然と言い放った。
「それは、私は恋愛の専門家ではないのでそこは知らないです」
彼はこちらから目をそらし、体を後ろに向け、ナースに次の指示を合図していた。
とりあえず薬飲んでくださいねー、と言われて診療は終わった。
そして、私は薬局の説明がなされるがままに薬を受け取った。両手にひとつずつ袋をぶら下げながら職場に向かった。
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