5章・3節

「久しぶりだな、透」

 落ち着いた低い声が透にかけられる。

「お父さん。何しに来たの?」

「ああ、偶々近くを通りかかったものだからな」

 透はイツキの方を見る。

「イツキ」

「透の父上ですから。無下には出来ません」

 それはそうだが。透はイツキの言い分は最もだと思いつつ、もやもやした気持ちになる。

「ここも相変わらずだな。私が住んでいた頃とあまり変わってない」

「そりゃそうよ。おじいちゃんいなくなってからリフォームしてないし、家具とかだってほとんどそのままなんだもの」

「そうか」

 そう言って、満はカップに注がれたコーヒーを口に運ぶ。

「透、家に戻る気はないのか」

「……正月とかお盆時には戻ってるじゃない」

「いや、そういう事じゃない。また元のように家に住まないのかという意味で聞いたんだ」

 相変わらず理屈っぽい話し方だ、と透は思った。技術者をしているのだから、そうなるのも無理はないのかとも思うが、だからといって娘の前でもそうである必要はないだろう。

「毎日家事とか大変だろう。食材を買いに行くのだって、ここから最寄りのスーパーまでは距離がある。その分、家なら私がいるからお前が家事をする負担は無くなる。高校生というのは勉強や課外活動に忙しくて時間が無いものだから、だいぶ楽になる筈なんだ」

「いい。掃除とかは使い魔使ってるし、案外何とかなってる」

「成程。確かに使い魔があれば時間の短縮になるかもしれない。しかし透、それだってお前の魔力が必要だろう。結局、お前の体力を消費する事に変わりはないんじゃないか」

「別に、これでも体力ある方だし、全然大丈夫」

 二人のやり取りの中、イツキの視線は目の前の本に注がれていたが、ページをめくる手は止まっていた。

 少しの間の後、再び満が口を開いた。

「なあ、透。ここに来てももうお爺ちゃんはいないんだ」

「そんな事、言われなくても分かってるよ」

 少し抑えたような、微かに震えた口調で透は言った。もやもやする。透は自分が興奮している事に気が付いた。

「透、疲れてるな。やはり、そっち絡みの件に巻き込まれたか」

「関係ない、お父さんには」

「関係なくはないさ。透は私の娘だ。自分の子供が危険な目に遭っているのは看過出来ない。なあ、透」

 やめてほしい。透は唇を噛み締める。その先にある言葉は予想出来る。だけどその言葉を言ってほしくない。じゃないと。

「もうそろそろ分かっただろう。いい加減、魔術なんてやめたらどうだ」

「貴方が、貴方が継がなかったら、私がやってるんじゃない」

「透?」

「お父さんってほんとにさ、人の気持ちが分かってないよね」

「おい、透」

「そんなだからお母さんいなくなったんじゃない!」

 ああ、やってしまった。透は踵を返す。

「言い過ぎた。でもごめん、もう帰って」

 そう言い残し、透は階段を上がっていった。そんな自分の娘の後ろ姿を満はただ見送る。

「すみません。とんだ言い争いを見せてしまいました」

 透の姿が見えなくなった後、満はポツリと呟いた。

「構いませんよ、ミツル」

「恥ずかしい事ですが、大人になれば、親になれば自ずと子への接し方が分かるものだと思っていました。しかし私は未だに、こういう時どうすればいいのか戸惑ってしまいます。本当に私は、親になれていない。あの子に対して親としての責務を果たせていない」

「満、家庭の事情はそれぞれ異なります。理想的な父親からかけ離れているから自分は失格だ、と述べるのはいささか早計かと。特に貴方は魔術の家系に生まれた、一般的に考えうる理想的な家庭からは程遠い人間だ。そして今の現状についても、滋丘家特有の家庭の事情から発生した事だ。故に考えるべき事は、自分が世間的に考えられる理想的な父親から離れてしまっている事ではなく、滋丘透の親としてどうするべきか……いえ、子を成した事もない人間が長々と的外れな事を。どうか、只の雑音として聞き流してください」

「いえ、ありがとうございます。貴方はいつも優しいですね。私が子供の時もそうだった」

「ただ徒に歳を重ねてしおれてしまっただけですよ」

「私は一旦帰ります。今ここにいても娘を刺激してしまうだけですから」

 コーヒーを飲み干し、自ら台所に持っていって洗ってしまう。ばつが悪そうにするイツキをよそに、満は自身のビジネス用のリュックサックを背負う。

「図々しいお願いですが、どうか、娘をよろしくお願いいたします」

 居間の入り口付近で振り返り、満は深々と頭を下げた。

「ええ。無論です」


 玄関が開く音が微かに聞こえた。父が帰ったのだろうと、透は思った。

 制服の上着を自室の椅子にかけ、そのままベッドに突っ伏していた透はふと顔を上げる。

「そうだ。遥との事、一応聞いておかないと」

 透は布団に吸い付き離れたがらない体を無理やり起こし、なんとか立ち上がる。

 そういえば、姫子は何処かに出掛けているのだろうか。そんな事を考えながら透は部屋の扉のドアノブに手をかけた。

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