泰平の階~133~

 斎治は慶師を脱出することを結十、董阮に告げた。


 「もはや余が頼ることができるのはお前達だけだ。余を助けてくれ」


 斎治は二人に深々と頭を下げた。


 「もったいないお言葉です」


 代表して結十が答礼した。結十と董阮。いずれも才気あふれる若者であったが、斎治としては寂しさを感じざるを得なかった。数年前、このような密事を行う時には費資、費俊、北定がいた。女性ながらも阿望もまた斎治を助けてきた。その誰もがいないということが、前途に暗さを感じさせていた。


 「それで慶師を脱するとして何処へ行く?国内で頼れるのはもはや少洪覇しかおらんぞ」


 その少洪覇ですら、もはや尊毅と戦えるほどの力を有しているか疑問であった。今の斎治はまさに孤立無援であった。


 「やむを得ませんが、他国へ亡命しましょう」


 「他国……何処へ行くか?」 


 「界国でありましょう」


 結十は即答した。彼の中ではすでに界国への亡命しか考えていないようだった。


 「界国……」


 「界国はかつて斎興様がお過ごしになられた地。協力者もおります。尊毅の不遜な振る舞いを界公に訴えるのです」


 確かに亡命先としては界国が理想であろう。尊毅と言えど、義王がいる界国には手を出せない。


 「それに界国には斎香様がおられます」


 董阮に言われて斎治は思い出した。尊毅との対立が表面化する前に斎香は和交政を連れて界国へと物見遊山に出かけていた。あるいは斎香はこうなることを予期していたのかもしれない。


 「分かった、界国に向かおう。手筈は任せる」


 「明日にでも。董阮が先発し、私がお供します」


 今度の脱出行は寵姫も侍女も連れて行かない。まさに二人だけの逃避行となった。そのおかげもあって、誰にも気づかれることなく斎治達は慶師を脱することができた。




 斎治と入れ替わるようにして尊毅が慶師に入城してきた。すでに斎治が慶師から姿を消したことを知らされている尊毅はわざとらしく顔をしかめて不機嫌さを装っていた。


 尊毅の入城を慶師の民は複雑そうに見守っていた。彼らからすると敬すべきは斎治であり、慶師の主として親しみを感じていた。しかし、斎治が国主となってからの新政は彼らの目から見ても明らかに失政であり、公族貴族ばかりが肥えていく状況は決して好ましく思えなかった。


 だからと言って尊毅のことを歓迎できるかと言えばそうではなかった。尊毅は条高を裏切り、今度は斎治に刃を向けた。その節操の無さは、庶人が期待する混迷の時代を収束させる英雄像ではなかった。


 そのような庶人の目などまるで気にしていない尊毅は、真っすぐに斎慶宮に向かった。


 斎慶宮に辿り着くと解放された項泰が迎え出た。項泰だけではなく、坊忠と覚然が馬上の尊毅を膝をついて迎えた。


 「項泰、しばらく不安な思いをさせたな。元気そうで何よりだ」


 「この程度のこと、大したことではありません」


 尊毅は項泰に労った後、坊忠と覚然の前に立った。


 「ふん。どういう精神で俺にかしづいているのか知らんが、文官というのは楽だな。仕えるべき主をあっさりと変えられるのだからな」


 尊毅としては最大限の皮肉を言った。坊忠は何か言いたげな、そして不快感を込めた視線を尊毅に向けた。


 「そうだな。俺も条公を裏切り、そして今度は斎公を裏切った。人のことは言えんな」


 「決してそのような……」


 「まぁいい。別に俺は自分の生き方を悔いていないし、恥じていないからな。さて、坊忠。この国都に治天の君がいなくなり、政を司る存在がいなくなった。斎国の丞相としてどうするつもりだ?」


 「国主に代わるお方が必要となりましょう」


 「ほう。それは自分であると言うのかな?」


 「いえ、そのような……。ひとまずは尊毅様、いえ大将軍のご意向をお聞きしませんと」


 「俺が大将軍か……」


 大将軍の任命権は国主にある。しかし、国主が幼年であったり、服喪中である時は、丞相がその権利を代行できる。坊忠はそれを利用したのである。


 「そうだな。主上がいつお戻りになられるか分からんからな。しばらくは合議制にしようじゃないか」


 尊毅はすぐに国主になるつもりはなかった。それではこれまでの行動はあからさまであり、延臣、民衆から尊毅が国主となることを待望する声があがるのを待つことにした。


 しかし、名実ともに斎国は尊毅が支配する国となった。




 斎国の動乱はこれで治まったように思われたが、騒乱の火種は中原全体に広がっていくのであった。

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